国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の年間死者数は「戦後最多」を更新し続けており、2040年前後に約168万人のピークを迎えるという。
「超高齢化社会」の次にやってくる「多死社会」を、私たちはどのようにとらえればよいのだろうか?
人生の最後を支えるプロフェッショナルたちと一緒に、その答えを探って行こう。
今回、登場していだくのは2018年、港区白金台に訪問診療を専門とした「はな医院」を開業した原澤慶太郎先生だ。
訪問診療とは、通院が困難な患者を対象に、医師が自宅や施設を訪問して診療する医療行為のこと。
港区白金台という場所柄か、「シロガネーゼ」と呼ばれるセレブな富裕層をターゲットにした診療所を想像していたが、実際、はな医院を訪れてみると、付近の住宅街はけっこう庶民的な感じのする街並みである。
看護師や事務職もいない、医師ひとりのクリニックのため、担当する患者は50人が上限だという。
かつて心臓外科医だったという原澤先生が、どのようないきさつで家庭医に転身したのだろうか?日本の在宅医療の現状と未来は、どのようになっていくのだろうか?
そんな疑問をぶつけてみた。
──そもそも先生は、どんなきっかけで医師を志したのですか?
いちばん最初のきっかけは、4歳から8歳のとき、銀行員の父の転勤に伴って米国サンフランシスコで生活したことですね。
アメリカというと、黒人差別を連想する人が多いかもしれませんが、1980年代のサンフランシスコでは、アジア人に対する差別意識も根強くあって、特に子どもたちの間では髪の色、目の色、肌の色の違いに対する偏見がそれなりにありました。
もちろん、そうした偏見は、スポーツが得意とか、勉強ができるといった特技で多少は克服できるんですが、通っていたのが日本人学校ではなく現地校で、日本人は僕ひとりだったもので、なかなかしんどいときもありました。
その影響で、将来は人種や国籍などの違いに左右されない仕事に就こうと考えるようになりました。
──それが、医師という仕事だったわけですね?
当初は医師ではなくて、アーティストになりたいと思っていました。
アーティストは人種や国籍に関係なく、人々を幸せな気持ちにさせてくれます。ただ、自分にそんなあふれる才能はないと気づき始めた15歳のころ、テレビでボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の報道を見たんです。
地雷で足を切断された子どもたちのリハビリをしたり、傷ついた人々に寄り添い、治療する外傷外科医の姿を目にして、「目指すべき仕事はこれだ」と思うようになりました。
──その夢を実現した原澤先生は、慶應義塾大学医学部を卒業後、千葉県鴨川市の亀田総合病院での研修を経て、同院で心臓外科医になります。ところがその7年目、家庭医に転身しますが、これにはどんな理由があったのでしょう?
心臓外科医の仕事が嫌になったから、というわけではありません。心臓外科医の仕事は世界でいちばんカッコいい仕事だと思っているし、その憧れは今でも変わりません。
実際、心臓の疾患は手術をすることで劇的によくなるんです。苦しそうな状態で来院した患者さんが、手術を受けて元気になって、笑顔で執刀医と握手をして帰っていく、というような光景を日々、目の当たりにしました。
ただ、新人の心臓外科医というのは、手術に助手として携わりながら、患者さんの術後管理を担当することが多いんですね。CCU(心臓疾患集中治療室)に泊まり込んで、手術を終えた患者さんの状態をモニターして、合併症や感染症などが起こらないよう、見守る仕事です。
すると、先ほど述べたような理想的なケースだけではないことを身をもって体験するんです。
──それは、どんなケースですか?
例えば、術後に心臓の機能が落ちてしまい、命に関わる不整脈が出たり、重度の心不全になってしまうことがあります。また、術中に大きな脳梗塞が起きてしまうこともあります。
手術室やCCUで亡くなってしまうこともありますし、仮に一般病棟に移って退院できたとしても、不整脈や心不全で亡くなってしまうこともあります。
病院のCCUで亡くなる患者さん、例えば術後の重症心不全で徐々に血液の循環が悪くなってお亡くなりになるようなケースにおいて、適切な緩和ケアが提供できる体制が整っていたかというと、決してそうとは言えない状態でした。
また、患者さんが病院から退院されている場合、外科医はあまりできることがありません。
緩和ケアというと、WHO(世界保健機関)は2002年にこう定義しています。「生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOL(生活の質)を、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチである」
──心臓外科医だったころの原澤先生は、どんなところに限界を感じたのでしょう?
痛みやその他の身体的問題については、治療の一環として、すでにある程度のケアは行われていましたが、「働きたいけど、働けない」、「家族に迷惑をかけたくない」といった心理社会的問題について、さらには「こんな体になってしまって私の人生は一体、何だったのか?」といったスピリチュアルな問題については、なかなかケアが届いていないという印象でした。
これはのちに家庭医療や緩和ケアを勉強してわかったことですが、当時はご本人だけでなく、ご家族の受け止めや気持ちのゆらぎ、その生活についてまで、深く考えることはありませんでした。どこか後ろめたい気持ちがありながらも、忙しいことを理由に、向き合っていなかったと思います。
外科医として一人前になったとしても、この不全感をこのままにしていいのだろうか。そう思い悩んでいたとき、医師の初期研修で出会った、家庭医の先生方が思い浮かんだんです。
──家庭医とは、欧米でいうホームドクターのようなお医者さんのことですか?
家庭医という言葉は日本では、その言葉自体がひとり歩きして誤解されている面があります。
本来の家庭医は、家庭医療学という体系的な学問に則って、疾患や技術よりも患者さんとの「関係性」を基軸にして、未分化で多様な健康問題に対応し、患者さんの物語や人生についても関心を持って耳を傾け、心身にまたがる複合的で複雑な健康問題に関わる医師です。4~5年にわたる横断的な専門研修を経て、専門医となります。
「家庭医療の父」と言われるイアン・マクウィニー先生(1926~2012)が著した教科書には、こんなことが書かれています。
「医師の人生において中心となる仕事は,病気を理解することと人間を理解することです。病気になっている人を理解することなく病気を充分に理解することはできないので、この2つの仕事は分けることができません」と。
つまり、「病」というのは患者さんの一部の属性に過ぎなくて、それだけを切り分けて考えるのではなく、食生活はどうなっているのか、生活習慣はどうなのか、家族との関係はどうなのか、地域のどんなコミュニティに属しているのかといった、その患者さんを「人」たらしめているものを総合的にとらえることが家庭医の在り方なんですね。
心臓外科医として、心臓疾患という「病」のことばかりを追求していた僕にとって、目からウロコが落ちるような言葉でした。
──原澤先生は2011年4月、亀田ファミリークリニック館山に移られますが、これは家庭医としての専門研修を受けるためだったのですか?
そうです。亀田ファミリークリニック館山は、亀田総合病院の系列の診療所で、米国家庭医療専門医の岡田唯男先生のもと、たくさんの家庭医療専門医を輩出しています。
内科病棟や外来での研修だけでなく、小児科や産婦人科のローテーションに出たり、僻地医療や在宅医療にたずさわったりしながら、さまざまな経験を積んでいくんです。僕はすでに30歳をこえた中堅医師でしたが、20代の若い医師たちにまざって家庭医になるための修行をしました。
──心臓外科医から家庭医に転身するお医者さんって、多くいらっしゃるんですか?
ほとんどいないと思います。
ちなみに僕が心臓外科医から家庭医に転身することができたのは、亀田総合病院にいたからだと思います。亀田総合病院には15年間在籍しましたが、「教育のない病院は滅びる」という哲学がある気がします。
毎年、大勢の研修医を受け入れて育成に力を入れていますが、特筆すべきは「教えることのできる医師をつくる」という文化があることではないでしょうか。
──心臓外科医から家庭医に転身して、どんな変化がありましたか?
外科医だったころは、明け方のまだ暗いうちに病院に出勤して、帰宅時間はすでに日が暮れていましたから、太陽の光を浴びるということがほとんどありませんでした。
その一方、家庭医になると、訪問診療で患者さんのお宅を訪ねたりする機会がよくありますから、そのたびに「太陽って、こんなにまぶしいんだ」ということに改めて気づかされました(笑)。
──ところで、家庭医の専門研修を始めた2011年には東日本大震災が起こり、同年10月に南相馬市立病院に赴任されていますね。どんな経緯があったのですか?
震災の影響で南相馬市立病院に勤務していた15人の医師が4人に減ってしまい、南相馬市長がその救援要請を亀田総合病院などの大病院に出したんです。
外傷外科医を目指した遠い日の初心が、一周回ってつながったような感覚がしたのを今も覚えています。
家庭医の研修を始めて間もないころでしたが、外科専門医としての経験も役立てることができるのではないかと考えました。独身で身軽だったことも大きいですね。とにかく、話を聞いて、すぐに名乗りを挙げていました。
──南相馬市立病院では、どんなことをされたんですか?
僕以外にもサポートする医師が入ったといっても、まだ人員は不充分で、外来と病棟と救急当番と訪問診療という4つのブロックすべてを必要に応じて担当していましたから、とても忙しい日々でした。
ただ、家庭医には「さまざまな医療資源のマネージャであり、経営者である」という原則がありましたから、臨機応変に動くこともひとつの修行ととらえていました。
その後、仮設住宅を訪ねたとき、予防接種が行われていないことがわかり、冬に備えてインフルエンザワクチンと肺炎球菌ワクチンを調達し、集会所で大規模な予防接種事業を行いました。
──被災地では、孤独死の予防にも取り組んだそうですね。
阪神・淡路大震災のとき、仮設住宅に診療所を開設した額田勲先生の追跡調査に関する本を読んで、東北でも同じことが起こるかもしれないと考え、仲間たちとその先の世界を描こうと誓いました。
その取り組みは「引きこもりのお父さんを引き寄せよう!プロジェクト(HOHP・ホープ)」と名付けました。
孤独死を防ぐには、集会場などの場所を整えて、お互いが支え合える機会を作ることが有効なんですが、お父さん、にターゲットを絞ったのは、男性の場合、集会所という「場所」を作るだけでは充分ではないからです。
そうはいっても、引きこもっている人を無理矢理引っ張り出すわけにはいきませんから、元気な参加者を募って大工仕事を覚えてもらうワークショップを開催しました。そこで技術を覚えてもらえれば、「幼稚園で使う机をつくってほしい」なんて頼まれて役割が生まれます。引きこもっているお父さんを巻き込んで、一緒にその役割を果たすという流れになってくれれば、という考えでした。
男性の場合、「場所」だけではなくて、「役割」が必要なんですね。
もちろん、この方法が最善だったかわからないし、もっと他によい方法があったのではないかという思いが今もありますが、限られた資源の中で自分たちができることを精一杯やる、それしかできないとも感じます。
──南相馬市立病院に2年間勤務した後、今度は亀田総合病院に戻って在宅診療科に在籍します。これにはどんな意味があるのですか?
在宅診療は、家庭医の専門領域の一部門なので、外科医から家庭医になったときのような転身ではなく、家庭医としての経験を深めるための選択でした。
亀田総合病院には小野沢滋先生が1996年に開設した在宅診療科があって、僕が福島から帰ってきたときに欠員があったということもありました。
──在宅診療とは、体の機能の低下により、通院が困難な人を対象に、医師が自宅や施設などを訪問して診察する医療行為ですね。厚生労働省のデータ(社会医療診療行為別統計)によると、2018年6月の医科診療全体のうち、在宅医療の割合は3.4%に満たないそうですが、亀田総合病院にはなぜ、24年も前から在宅診療科があったのでしょう?
端的に言えば、田舎だからです。大きな病院へのアクセスが悪くて、高齢化も進んでいるため、在宅医療のニーズが高まっていました。
──在宅診療にたずさわる医師は、病院や診療所に勤務する医師と比べて、どんなところが違うのでしょう。
患者さんに根拠に基づいた医療を提供するという点では、何の変わりもありません。
ただ、その場所が院内か院外か、言い換えるとホームかアウエーなのか、という部分においては大きな違いがあります。
外来とは違って、自宅というのはその方の気配や息遣い、もっと言うと、人生が感じられる「場所」です。壁にかけてあるもの、年季の入ったソファ、家族の写真、手入れされたお庭などに触れると、自然と病気だけでなく、その方の価値観や人生観などを重視する姿勢になります。
具体的にはライフレビューといって、その方の人生を一緒にさかのぼるんです。
戦争のとき、シベリアに抑留されたときの話だとか、兄弟姉妹が事故で亡くなってしまったときの話などもありますが、そのような辛い経験だけでなく、ご夫婦のなれ初め、子育ての考え方、仕事での成功体験、武勇伝など、あらゆるお話を伺います。
一見、医療行為には見えない、ただの世間話に見えると思われるかもしれませんが、その方の命に関わる判断をするとき、ライフレビューが重要な助けになることがあります。
──「このお医者さんは、自分のことをわかってくれている」という信頼関係を築くことが重要なんですね?
「わかってくれている」というのは、正確な言い方ではないですね。その方のすべてを知ることは、どんなに努力しても不可能ですから。
むしろ、「わかろうとしてくれている」ということが伝わればいいと思っています。
──亀田総合病院の在宅診療科に5年勤務した後、原澤先生は港区白金台に「はな医院」を開業します。港区白金台というと、「シロガネーゼ」のイメージが強いですが、けっこう庶民的な雰囲気ですね?
そうですね。港区で開業したいちばんの理由は、実家があるからです。両親や兄弟が住んでいて、親しみのある街です。
家庭医にとって、どの地域で開業するかということは、とても重要なことです。
なぜなら家庭医は、地域に住んで、その地域の人を診る医師だから。そこに骨を埋めるつもりで、開業する場所選びをしなければなりません。
看護師も事務員もいない、医師である僕ひとりのクリニックですから、半径2㎞圏内に住む50人が担当できる上限です。
──なぜ、50人が上限なんですか?
診察時間で言えば、亀田総合病院の在宅診療科のころから、初診90分、定期訪問には45~50分という時間をかけています。
初診にそれだけの時間をかけるのは、先ほど述べたライフレビューなどに加えて、その方が病をどのようにとらえているかを伺い、場合によっては症状のコントロールも必要になるためです。初診のサマリーシートの裏面には家系図を書く欄があって、その世帯に住んでいる人だけでなく、別の場所に住んでいる親戚縁者も把握するようにしています。
ご本人だけでなく、ご家族のことも知り、さらに各々の物事のとらえ方や価値観についてまで対話を深める上で、50名というのが1人の医師が把握できる限界ではと感じています。
もちろん、医師を増やしてチームを組めば、それだけ多くの方に対応することができるようになります。将来、信頼できる家庭医の仲間たちとグループ診療できたらいいなと思っています。
──患者さんは、どんな方が多いですか?
進行がんや神経難病、脳梗塞や認知症の方で、自宅で療養することを希望された方が多いです。
よく、「訪問診療をしている医師の見分け方を教えてください」と質問されることがあるんですが、「その医師の1日の訪問件数と1回の診察時間を聞けば、よくわかりますよ」と答えています。
定期訪問はパトロールのようなもので、その方の状態を把握する大事な機会ですが、1日10件以上は多すぎると思います。多くても8件程度、僕の場合は1日5件前後です。
それから診察時間について、僕はおひとり当たりおおむね45~50分をかけていますが、5分とか10分ではさすがに少ないと思いますね。
もうひとつ、月に何回、夜の往診を行っているかも目安になります。緊急往診は365日24時間体制で対応していますので、50名の患者さんがいれば月に2~3回は夜中に往診があります。
──前述した厚生労働省のデータ(社会医療診療行為別統計)によると、在宅医療の点数は2008年から2018年の10年間で約1.8倍に伸びているそうです。ただ、日本全国すべての国民が充分な在宅医療を受けられる環境にあるかというと、そうではないですよね。原澤先生はどう考えていますか?
在宅医療の整備は、地方都市、過疎地ではそれなりに進んでいる一方で、都市部は課題も多いというのが率直な感想です。
在宅医療を提供する医療機関は確かに増えました。しかし、提供している医療の中身、診療の質については評価がなされていないのが現状です。価値観に基づく丁寧な診療でも、3分の診察でも診療報酬は一緒なのです。
また、医学的情報だけでなく、患者さんの価値観や物事のとらえ方といった大切な内容をどのように多職種で共有するのかも課題です。
地域包括ケアにおける医療従事者の顔と顔の見える関係というのは、ただ飲み会をすることではありません(笑)。各専門職が、自身の視座から意見を述べられる関係性があるかが大切です。
それから、はな医院では大学の医学部や看護学校などの学生実習を定期的に受け入れていますが、在宅医療を行うことのできる人材の育成は急務だと思っています。
在宅に限らず、病院でも、施設でも、医療に携わるすべての人が緩和ケアの知識を持つことも重要です。誰もが、どこにいたとしても、人生の最期をおだやかに、尊厳をもって暮らせるようになることが望ましいですよね。
──ありがとうございます。後編のインタビューでは、「アドバンス・ケア・ プランニング(ACP)」について、それから先生が開発にたずさわった「もしバナゲーム」について、話をうかがいたいと思います。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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