「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
今回は、結成58年という世界最長寿バンド「ザ・ローリング・ストーンズ」のファンクラブ会長に話を伺いました。
なんと彼は一ファンの域を超え、プライベートでもストーンズと交流を持つ別格のファン。ストーンズを追い続けた波乱万丈のファン人生とは?
――1973年から「日本ローリングストーンズファンクラブ」の会長を務めているそうですが、最初にファンになったきっかけを教えてください。
僕は札幌の生まれなんですが、函館のラ・サール高校に通っていました。高校1年生のときに自己紹介のスピーチをすることがあり、「ビートルズが好きだ」と話したんです。すると放課後に同級生のI君が話しかけてきて、「ビートルズもいいけど、ストーンズのほうがいいよ」と言うんです。それで彼の家でライブアルバムを聴かせてもらったのが最初でした。
そのときは、ただ騒いでいるだけのノイズミュージックのような印象でした。それからI君と仲良くなって、いろいろ聴かせてもらっているうちに、だんだん好きになっていったんです。
――ファンクラブもI君の影響だったのですか?
実は高校3年生のときに、I君が行方不明になったんですよ。何も告げずに急にいなくなったことが、とにかくショックでしたね。それで大学進学で上京してから、ストーンズのファンクラブに入ったんです。ストーンズ好きのI君のことだから、ファンクラブにいるかもしれないと考えたわけです。
――そんなドラマがあったんですか。それで、I君は見つかったのですか?
会員名簿を見せてもらうためにスタッフになったんですけど、結局、名簿にI君の名はなかった……。途方に暮れていたところ、ストーンズの来日公演が発表されたんです。ファンクラブのみんなと徹夜で並んでチケットを取ったんだけど、1973年の来日公演は中止になってしまった。ファンクラブで署名を集め、法務省に嘆願書を出したりもしました。だけど結局、実現しなかったんです。
ちなみにI君とは20年後に再会しました。実は彼は赤ちゃんのときに置き去りにされ、産婆さんの家で育ったんです。実の母が名乗り出たというのが、行方不明の真相でしたね。
――1973年1月の来日公演が中止になり、初ライブの機会を逃したわけですが、その後、ライブを観たのはいつになりましたか?
そうこうするうちにストーンズのヨーロッパツアーが決まって、「ロンドンまで観に行こう」という話になったんです。商社とレコード会社が提携してストーンズのライブを観る10日間のツアーを企画し、ファンクラブに協力が求められたわけです。それでアルバイトでお金を貯めて、ファンクラブの仲間とロンドン公演を観に行ったんです。
――その時代にストーンズを生で観た人は本当に希少だと思います。初ライブはどんな印象でしたか?
デビッド・ボウイの来日公演をはじめ、当時はロックのコンサートに片っ端から行っていましたが、それと比べてもストーンズのコンサートは圧巻でした。パフォーマンスに演劇性が感じられて、非現実の異空間が生み出されているんです。
麻薬問題で来日公演が中止になったことで、ヘロヘロのジャンキーみたいに誤解されていたけど、実際はものすごくパワフルなステージなんです。こんな凄いものを知らないなんてもったいない! それからストーンズの魅力を啓蒙するという使命感を持つようになったんです。
――ライブを観たことで、ファンクラブの活動に本腰を入れるようになったわけですね。
そうですね。もともとレコード会社の営業課長が創設したファンクラブだったのですが、そこから離脱した当時のファンクラブ幹部は「ストーンズは日本で観るもんじゃない」というワケのわからない主張をして、ストーンズの来日に反対しているような連中だったんです。それが僕には納得できなかった。「ファンクラブを名乗りながら、きみらは本当はファンじゃない」ということで、会員の代表として幹部には辞めてもらうよう言い渡しました。
こうして一緒にロンドン公演を観に行ったファン仲間10人くらいを中核メンバーとして、リスタートを切ったわけです。ロンドン公演のレビューをガリ版刷りで印刷して、会報誌『STONE PEOPLE』の第1号をそのとき作ったんですよね。
――5代目会長とありますが、実質的には生まれ変わったファンクラブの初代会長という感じですね。
実は会長になりたくてなったわけでもなかったけど、今振り返ると、何かを創り出したかったんでしょうね。当時は三島由紀夫が割腹自殺をしたり、安保闘争があったり、第二次世界大戦の残り香が漂う政治的な季節でした。一方で、エンターテインメントがまだ未熟な時代だったからこそ、音楽も映画も漫画も新しい潮流が生まれ、自分たちの世代が何かを創り出すんだというエネルギーに溢れていた。いわゆるカウンターカルチャーの時代です。そうした時代の気分とストーンズが、僕の中でつながっていったんだと思います。
――80年代のファンクラブ活動はいかがでしたか?
大学卒業後、1年ほど会計士の勉強をして、水産食品会社の主計課に入ったんです。それからは昼間はサラリーマン、夜はファンクラブの会報誌作りという日々です。その頃のストーンズはニューアルバムを出してツアーを周るという3年サイクルで活動していて、会報誌もそれに合わせて不定期で発行していました。フィルムコンサートというライブイベント活動をやったり、海外にストーンズを観に行く活動もしていました。
ところが、1983年以降、そのサイクルが崩れました。
ミック・ジャガーとキース・リチャーズがそれぞれソロ活動を始めて、6年間ツアーが行われないストーンズの空白期間になるわけです。
「ストーンズが解散したんじゃないか……」という雰囲気を感じて動揺しましたね。もしストーンズが解散したなら、ファンクラブも解散というところまで追い込まれていたんです。
――たしかに80年代は、ミック・ジャガーのソロ活動のほうが目立っていましたね。
1988年にミック・ジャガーがソロ公演で初来日したとき、ミックに会わせてくれるようレコード会社のディレクターに頼んだことがあったんです。ストーンズの活動を続けるのか、はたまた解散なのか、ミック本人に直接聞こうと考えたわけです。
ところが、ホテルオークラのロビーに6時間くらい待たされて、ようやくミックがエレベーターから降りてきたと思ったら、ハーイと手を振ってそのまま車でどこかへ行っちゃったんです。唖然としましたね……。単にミックを見たにすぎないのに、ディレクターは「会ったでしょ」という顔をしている。割り切れない怒りがこみ上げてきて、絶対に自力でミックに会って問いただしてやると思いました。
――それで本当にミック・ジャガーに会うことができたんですか?
ええ、会いました。その年の9月、オーストラリアのシドニーでミックのソロツアーがあったので、その頃、結婚して子供もいたというのに会社を10日くらい無断欠勤して行ったわけです。ファンクラブのスタッフ7人くらいで追っかけ部隊をつくって、ミックがいそうなホテルをしらみつぶしに探しました。すると「◯◯ホテルにいる」という連絡が入った。コンサートの後、そのホテルでジェリー・ホール(※当時のミック・ジャガーの妻でありスーパーモデル)のパーティが開催されていたんです。
楽屋で30分くらい待たされたんですが、緊張のあまり卒倒しかねない状態ですよ。取材ノートに書いておいた「おまえにストーンズファンクラブの会長である資格はあるか?」という言葉を見て、自分で自分の気持ちを奮い立たせましたね。
――初めて直接会ったミック・ジャガーの人となりはいかがでしたか?
実にユーモアあふれる知的な人でしたね。僕が興奮して詰め寄るものだから「落ちついて」となだめられて、「来年、ストーンズやるから」とあっさり言われました。
他方で、今度はその3カ月後にキース・リチャーズがアメリカでソロツアーをやることになっていました。ミックがシドニーで言ったことは社交辞令かもしれない。キースにも確認すべきだと思って、今度はアメリカに行くことを決断したんです。
――ミックに続いてキースにも会いに行くとは、すごい執念ですね。
あまりにも乱暴な所業だと今では思います。キースのツアーはだいたい2千人くらいの小規模なホールで全米を回っていました。幸運なことに、ミックのときと同じセキュリティが付いていたんです。オーストラリアで彼に顔を覚えられていたので、500ドルのチップを渡して楽屋に入れてもらうことができました。
こうしてキースに取材を申し込んだところ、「ミックがそう言ったんなら、本当だよ」と答えたんです。これは大変だ! 早く帰国して準備をしなくちゃいけない。ところが、キースのライブを最後まで観たくて、アメリカツアーを1カ月くらいずっと付いて周ったんですよ(笑)。これも予定外の無断欠勤でした。
――優先順位としてストーンズが一番で、会社や家庭は二の次になってますね(笑)。
本当に会社や家族には迷惑をかけました。帰国後、人事部長に呼び出されて、「どこへ行ってたんだ?」と問い詰められて、やむなく辞表を出しました。だけど、大見得を切ったくせに無職になって収入も途絶え、途方に暮れましたね。今思えば、本当にムチャで無謀だったと思います(苦笑)。でも、「ストーンズ初来日」というビッグニュースを持って帰国しました。
――本当にストーンズに人生賭けていますよね。その後、どうされたんですか?
父がマグロ漁船を10隻くらい保有する漁業会社を経営していたので、その会社に入ることにしました。実際、マグロ漁業に興味を持ったし、仕事で南アフリカやスペイン、ペルーやオーストラリアなど世界中を周ることになりました。世界各地でストーンズファンとの出会いがありましたね。次第に仕事にやり甲斐を感じるようになり、会社を継ぐことにしたんです。
――世界をまたにかけてお仕事をされていたんですね。経営は順調でしたか?
それが順調ではありませんでした。毎年、困難なことがたくさんありました。
船員同士がケンカになって、船内で殺人事件が起きたこともあった。ブラジルまで飛んで行って事件の采配を指揮したんですが、これだけでも一冊の本になりそうなくらいいろんなことがありました。
経営の面では、景気が悪くなるにつれてマグロの相場が下がっていくから、コストダウンをはからなくてはいけなかった。賃金が日本人より安い中国人やインドネシア人を雇うようになって、ついには24人の乗組員の半分がインドネシア人になっていました。そのうち採算が合わなくなってきて、2008年に会社を譲渡したんです。その後片付けに3、4年費やしましたね。
――ファン活動のほうはいかがですか。ミックとキースに直接会ったことで、関係性も変わってきたのでは?
変わりました。1989年の会社を辞めた直後、なんとキースの息子マーロンから直接電話があって、「ニューヨークで親父たちがレコーディングしているから来ないか」と言うんです。それで友人2名を連れてニューヨークまで行って、ストーンズの特別取材記事を作ったこともありました。
――キースからしても、はるばる日本から追いかけてきたファンが、よほど印象深かったんでしょうね。
それこそファン冥利に尽きますよね。僕なんてヒマさえあれば、キースは何を望んでいるか、ミックは何を欲しがるか、チャーリー・ワッツやロン・ウッドは何を面白がるかって、そんなことばかり考えていますからね。彼らに会うときは、どうせなら彼らの記憶に残りたいし、ステージや曲のアイデアを提供したい。それでツアーの間中、延々とマグロ漁船の話をしたこともあったんです。これはあくまで僕の推測ですが、それでインスパイアされてできた曲が「ミックスト・エモーションズ」だと思っています。勝手に。
――それはスゴイ! 曲のインスピレーションを与えるとは、ファンの域を超えてますね。
かといって、ストーンズの身内のスタッフになりたいわけでもないんです。スタッフとファンの境界線があるとしたら、僕はその一線は越えたくない。バックステージに入ったり、会って話をするようになっても、あくまでファンとして関わりたいんです。僕なりのスタンスがあって、ファンとしてのアイデンティティを持っていたいのです。
――かつて「ロックンロール」というと、生き急ぐかのように夭折したり、燃え尽きて解散したりするイメージでしたけど、ストーンズが60代70代になってもバンドを続けることで、ロックの価値観も変わってきたように思います。
やはりフロントに立つ者の使命感があるんでしょうね。ミック・ジャガーなんて今年77歳ですよ。ランニングと筋トレをして身体を鍛えてますけど、若い頃のストーンズは不健康で病的な雰囲気がかっこよかったわけです。当時は「30歳を過ぎてロックなんかやるもんじゃない」と思われていたのが、とうに超えてしまって、“どこまで出来るか”というテーマに変わってきたわけです。
――“やり続けるのがロックンロール”という新たな価値観を生み出したわけですね。
しかも、バンドでやり続けているっていうことがストーンズの本当の凄さなんです。ポール・マッカートニーや矢沢永吉など、ソロで長くやり続けている人はいるけど、ストーンズはメンバーが70代になった今なお4人で音を作り上げている。そこに感動するわけです。
けして順調にここまで来たわけではなくて、ミックとキースが仲違いしたこともあったし、ドラッグで廃人になりかけたりしながら、幾度も蘇ってここまで来た。それが魅力のひとつになっているわけですよね。
――15歳の頃から67歳の今日までファンであり続けていることを、どう振り返りますか?
僕自身、ここまでファンを続けられるとは思いもしなかった。それは、ストーンズのメンバーがそろって生きて活動を続けているからこそです。
子供の頃、還暦を過ぎたら世捨て人みたいな暮らしをしているものだと思っていたけど、ストーンズを見ていると、そんな固定観念は超えられると思えてくる。人生の先輩として、見本を見せてくれているような気持ちになるんですよね。
健康長寿がストーンズの何よりの教えですね。
取材・文・撮影=浅野 暁
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
浅野 暁さんの記事をもっとみるtayoriniをフォローして
最新情報を受け取る