ふとした転倒、ちょっとした気になる言動……あれ? と思っている間に、気付けば親の介護は始まっているものです。編集・ライターの小林さんもそのひとり。「まさか…」と思っているうちに始まった義理のお母さんの介護を小林さんが振り返る、体験エッセイです。
やたらと転びやすくなったことを機に始まった義母の異変。何が原因なのかと、さまざまな病院へ行き、あらゆる検査を受ける中で、ある医師から認知症の可能性を指摘されました。しかし、その時点では「あくまで可能性」という説明だったため、私たち家族は不安を抱きながらも認知症を認めたくない気持ちで過ごしていましたが、そんな願いもむなしく、徐々に義母は認知症の様相を色濃くしていったのです。
さらには大学病院での検査によって、義母は『頸髄症』と診断されました。加齢などさまざまな原因で頚椎が変形し、頚髄が圧迫されることで手足の痺れから、症状が進行すると歩行障害などを起こす病気なのだそうです。この病気が原因で、脳から手足に正しい情報が伝わらないために、転倒を繰り返していたのだろうという診断でした。
医師からは「手術しなければ、首から下が全く動かなくなり、寝たきり状態になってしまう」と恐ろしいことを冷静に告げられ、すぐに入院。しかし、手術前にまた問題が発生してしまったのです。
その問題とは、後頭部にできた湿疹でした。首の後ろ側にメスを入れるため、湿疹が治ってからでなければ手術はできない。結果、しばらく手術は延期となったのですが、何がいけなかったのか、その間に認知症が急速に進行してしまったのです。
「お母さんがいる。迎えに来てくれたの?」
ベッドで横になりながら、誰もいない場所に目を向け、義母はそんな言葉を何度も繰り返すようになりました。ただ、ずっとその状態が続くわけではなく、ちゃんとまともな会話ができるタイミングもある。まるで二人の義母がいるようでした。
また、入院中は毎日、固まったように動きの悪くなった手足を伸ばすリハビリに取り組みましたが、一向に良くなる気配がありませんでした。
その理由を理学療法士は、「前の日にやったことを忘れてしまうので次の段階に進めず、毎日初めからやり直しになるため良くならない」と伝えてきました。
説明を聞いた時、不謹慎ながら「人間の脳ってすごいな」と思ったことを覚えています。リハビリを行った記憶がなければ、体を動かすことができなくなる。脳が人間の活動を支配していることに、改めて気づかされました。
この入院中、親戚からの助言もあり、リハビリ専門病院への転院を考えていました。でも、こんな状態ではリハビリを行っても改善は期待できないと判断し、それも断念。義兄夫婦と相談し、退院後は実家での介護を決断したのです。
2013年12月、退院した義母は『要介護5』の認定を受けました。要介護は状態によって1〜5に区分されていますが、5は最も重度な状態。食事や排泄、着替えや寝返りなど、あらゆる場面での介護が必要となるため一人では日常生活を送ることができず、意思の疎通も困難な状態ということです。
義母の場合、ゆっくりと段階を経て介護レベルが上がったのではなく、短期間のうちに一気に要介護5の状態になってしまったのです。
何がいけなかったのか? 手術が逆効果だったのか? もっと早く頚椎の異常に気が付いていればこんな状態にはならなかったのではないか? いろいろなことを考え、妻は自分を責めることもありました。しかし、悲しんだり落ち込んだりしている暇もないまま、義母の介護生活がスタートしたのです。
年が明けると、週に3日ほど近隣の老人ホームでデイサービスを利用することになりました。たとえ数時間であっても義母の面倒をプロの介護士さんに任せられることで安心して息抜きができる。その間に買い物へ行ったり、用事を済ませることができる。介護する家族にとって貴重な時間でした。
しかし、そこでまた問題が発生しました。前日に「明日はデイサービスだからね」と伝えると「うん」と答えていたのに、出かける直前になって嫌がるのです。それも毎回です。なだめてみたり時には怒ってみたりと、「行く、行かない」のやり取りで毎回が妻と義母との戦いでした。
結果、デイサービスには行くのですが、戻って来ると必ず「家に帰って来るとホッとする」と義母は安堵のため息をつくのです。その度に妻は、母親に辛い思いをさせているような気分になって、気が滅入ったそうです。
そんな生活が続くうちに、義母はあんなに好きだった韓流ドラマにまったく興味を失っただけではなく、テレビやラジオから流れる音楽にも「うるさい!」と拒絶するようになりました。一緒に暮らしている義父の耳が遠いこともあり、たしかにテレビの音量は大きめでしたが、かつての義母はそんなことで声を荒げるような人ではありませんでした。どんどん変わっていく義母。でも私たち家族は何もできなかった。なす術もなく戸惑うばかりでした。
・うまく言葉が出てこなくなる
・笑わなくなる
・わがままを言うようになる
・子供のように声をあげて泣くようになる
義母にこのような変化が表れるようになりました。そして夏が過ぎた頃、妻が毎日実家へ行って面倒を見ているにもかかわらず、「あんた、たまにしか来ないわね」と言うようになったのです。その年の暮れになると、さらに義母の状態が悪化しました。娘である妻を認識できなくなることがあり、「あんた誰? 早く娘を呼んできて!」と騒ぎ、激しい拒絶を示すようになったのです。
妻のショックは相当なものでした。うまく会話ができなくとも、母親が変わってしまっても親子の関係は変わることはない。そう信じていたのに、それを心の拠り所にしていたのに…。どう接していいのか分からず、悲しみよりも恐怖を感じたそうです。
時を同じくして、義父の体調も急激に悪化しました。胆嚢がんが進行し、激痛のあまり自宅で倒れて、救急車で病院に搬送されたのです。こうして義父母の状態が悪化の一途を辿るまま2014年が過ぎ去り、2015年は正月から義父の看護、義母の介護というW介護の状態に突入しました。
午前中と夕方は義父の病院へ、それ以外の時間は義姉と交代で義母の介護を行う日々。さすがにみんな疲弊していきました。そこで担当のケアマネージャーさんに相談したところ、デイサービスだけではなく、数日間の宿泊もお願いできるショートステイを利用できるようになりました。義母に付き添う時間が減った分、義父の病院にいる時間も長くすることができましたが、もう手の施しようがなく、日に日に弱っていく義父の姿を見続けるのも、それはそれで辛いものでした。
入院から2ヶ月が過ぎた頃、病院側が義父の転院を勧めてきました。もう、やれることは延命措置しかない。それならば最期は別の病院で…ということなのでしょう。私たち家族は病院の申し出を受け入れ、紹介先の病院に転院しました。新たな病院では義父の体に繋がれた点滴のチューブの本数が、それまでの病院の半分ぐらいに減り、みるみるうちに別人のように痩せ細っていったのです。
その姿を見て私たち家族も覚悟を決めてはいましたが、転院からわずか2週間で義父は息を引き取りました。朝、病院から義父が危篤との連絡を受けた妻が急いで向かいましたが、時すでに遅く、見送ることは叶いませんでした。
遺体を自宅へ運び、エンバーミングが施されると、痩せ衰えていた義父の顔が元気だった頃のようなふっくらと穏やかなものへと変わり、その技術には正直驚きました。
近所に住む義父の兄弟や親戚が集まり、慌ただしく葬儀の準備が進む中、家族の議題となったのは義母のことでした。体力的なことを考えると葬儀に出席させるのは難しい。そこは全員の意見が一致しました。
では最期のお別れをどうするか。義兄は「自分の夫だということも分からないだろうから、会わせなくていい」という意見でした。しかし、妻と私は「たとえ分からなくても、お別れはさせたほうがいい」と主張し、結果、ショートステイで滞在している老人ホームに義母を迎えに行き、遺体となった義父と対面させたのです。
「お父さん。お父さん…」
義母は、そう声をあげて涙を流しました。ただ、義母の言う「お父さん」が夫のことなのか、ずいぶん前に亡くなった父親のことなのか、本当のところは分かりません。ただ、私たちのエゴでしかないかもしれませんが、60年近く連れ添った夫と最期のお別れをさせてあげることはできた。そう思うのです。
義父の死、義母の状態の悪化…追い込まれていく筆者たちを救った言葉とは!?そして、家族の決断とは!?
次回『うちの義母は要介護5』最終回
イラスト:ちーぱか
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