「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
今回は、少年時代にラジコン飛行機作りに夢中になり、大人になってから本当に自分が乗って飛べる飛行機を作ってしまったという大橋さんにお話を伺いました。知られざる飛行機ファンの世界とは?
――自分で飛行機を操縦して空を飛ぶことを夢見る人は多いですが、大橋さんはウルトラライトプレーン(超軽量動力機)を自作して、自分で操縦して飛ぶわけですから本当にすごいと思います。やはり子供の頃から空を飛ぶことが夢だったんですか?
物心がつく頃から飛行機に関心がありましたね。幼稚園のときは紙飛行機、小学校のときはゴム動力の飛行機を飛ばして遊んでいて、中学生になってからラジコン飛行機を自作するようになったんです。
最初の何機かはキットを買って作っていたんですが、1、2機作るとおおよその構造がわかってくる。自分がカッコイイと思う機体のイメージがあったので、自分で図面を書いてラジコン飛行機を作っていましたね。
――もしかして、「これを大きくしたら空を飛べる」という発想が、現在の自作・飛行機の原点にあるのでは?
たしかにそう思ったこともありましたけど、その頃の自分には作る技術も操縦技術もないですから、無理だと思っていましたね。
諦めてはいたんだけど、やっぱり飛行機への憧れが捨てきれず、所沢の航空整備の専門学校に入ったんです。
――なぜパイロットではなく、航空整備の道を選んだのですか?
自分に自信がなかったんですね。学生時代の私は、吃音症のコンプレックスがあって暗かったんです。青春時代の一番多感な時期に吃音症だったから、女の子に声をかけることもできないし、心の中ではいつも、どうせ俺なんか……という引け目を感じていましたね。
だからパイロットを目指すなんて思いもしなかった。だけど、何かしら飛行機には携わりたいと思っていて、航空整備の仕事に就こうと考えたわけです。
専門学校卒業後は、自衛隊に入隊しました。本当は民間企業に入りたかったんだけど、当時は第二次オイルショックと重なって、民間企業の採用枠が極端に減っていたんです。
陸上自衛隊の立川駐屯地に勤務することになり、ヘリコプター部隊の整備部門に配属されました。それから8、9年ほど立川で青春時代を過ごしましたね。
――念願叶って航空機に携わる仕事に就くことができて、やり甲斐も大きかったのでは?
実際はそうでもなかったですね。なぜかというと、陸上自衛隊には少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)という教育機関があって、そこの卒業生が一般隊員より上の階級に配属されるんですよ。
彼らはすぐに先輩隊員から指導してもらえて、どんどんヘリに触らせてもらえるのに対し、我々一般隊員はなかなかヘリに触らせてもらえない。
それにも関わらず、なぜ8年以上も自衛隊にいたかというと、試験を受けて上の階級に上がり、自衛隊の専門教育機関に入ることを目指していたからです。エンジン課程、機体整備課程などがあるので、それだけは受けたかったんですね。
――そのまま定年まで自衛隊に勤務しようとは思わなかったんですか?
定年まで勤められる階級までは昇級したのですが、私はもともと民間企業に入りたかったので、自衛隊を退職してヘリコプターによる農薬散布の会社に入ったんです。
ところが給料が安すぎて、とてもじゃないけど食べていけない。結局、1年ほどでその会社を辞めて、専門学校時代の友人のツテでバイオ装置メーカーに転職しました。バイオ装置を組み立てる仕事だったのですが、その会社に10年くらいいましたね。
こうして航空業界から離れてしまったんです。
――30代以降は、まったく航空機と関わりのない仕事をしていたわけですか。
そうですね。子供がいたので家族を養わなければいけなかったですからね。
だけど、その後が大変でした。知人の勧めもあって印刷会社を立ち上げて独立したのですが、結局うまくいかなかった。またバイオ関係の会社に入り直して、何年か勤めた後、フリーランスの機械組立工として働くようになったんです。
クライアントの会社を転々としながら、何人かでチームを組んでひとつの機械を組み立てる仕事なんですが、フリーランスは仕事ができないと次から声がかからなくなりますから、もう必死でしたよ(苦笑)。40代半ばから58歳までフリーランスで仕事をしていましたが、やった分だけ稼げる反面、不安定で大変でしたね。
――当時は仕事に追われ、飛行機のことを考える余裕もなくなっていた感じですか?
いや、他の業界に移っても「自分で操縦かんを握って空を飛びたい」という気持ちは持ち続けていましたね。だけど、飛行機というと、とにかくお金がかかるイメージがあるじゃないですか。だから自分には無理だと諦めていたんです。
あるとき、パラグライダーやスカイダイビングでもいいかと思って情報を集めたところ、それもそこそこお金がかかることがわかって、馴染みの模型屋さんに「お金のかからないもので空を飛べるものはないかな?」と電話で聞いてみたんです。
そしたら、たまたま模型屋さんに東京フライングクラブの当時の会長さんがいて、クラブに遊びに来るよう誘われたんですね。しかも、いきなり飛行機を買うように言われて、目が点になりましたよ(笑)。
――お金をかけずに空を飛ぶ方法を考えていたというのに、飛行機の購入ですか(笑)。
そうなんですよ(笑)。さっそく埼玉県鴻巣市の飛行場に行って会長さんにお会いしたところ、中古のウルトラライトプレーンを30万円で譲ってもらえるという話でした。だけど、台風で浸水して機体は泥だらけ。計器類にも水が入っていて、とても飛べるような状態じゃない。
今思えば、飛べない機体で30万円は高いと思うけど、あのときは「このチャンスを逃したら一生、空を飛べない」と思って購入を即決しました。
その後は農家の友人のところに機体を置かせてもらって、1年くらいかけてメンテナンスして飛べるようにしたんですね。
――ボロボロだったとはいえ、30万円で飛行機が買えるなんて驚きです。
ビックリですよね(笑)。ウルトラライトプレーンは新品だと250万円くらいするんですが、中古だと40~60万円くらいの機体も出回っていますし、100万円以下でしたら、けっこう手に入ります。
私の場合は機体が30万円でしたが、計器類や塗装代などの修繕費が15万円、パラシュート代が35万円ほどで、トータル80万円くらいかかりました。機体よりパラシュートの方が高いっていう(笑)。
飛行機というと、中古のセスナ機でも数百万円はしますけど、ウルトラライトプレーンならオートバイくらいの値段で買えることを、もっとみんなに知ってほしいですね。
――ライセンスの取得費用などもかかるのでは?
ウルトラライトプレーンは免許がいらないんですよ。ただし自分で操縦するには、インストラクターの資格を持っている人と同乗して15時間以上のフライトが必要になります。一回のフライトが20~30分程度なので、1年から1年半くらいは見ておいたほうがいいでしょうね。
――「空を飛びたい」という夢を持つ人にアドバイスをお願いします。
まず我々と同じようなウルトラライトプレーン(※マイクロライトプレーンとも言う)のクラブに遊びに行ってみることですね。
私が所属している東京フライングクラブは60~70代が中心のクラブで、最近は飛行訓練を受けに来る若いメンバーもいて賑やかです。埼玉県の荒川河川敷に飛行場があるのですが、この地域だけでも4つのクラブがあるんですよ。
ウルトラライトプレーンのクラブを統括するJML(NPO法人 日本マイクロライト航空連盟)という団体があるので、問い合わせれば近くのクラブを紹介してくれると思います。
ちなみに東京フライングクラブの会費は年間10万円なので、月当たり8300円くらい。私を含めインストラクターの資格を持っている者が3名いまして、1分200円で飛行訓練をしています。
――予想外でした。趣味に使う程度の金額で空を飛べるものなんですね。
子供の頃から「空を飛ぶことが夢」という人は沢山いると思うんですけど、以前の私と同じように、お金がかかるから無理だと諦めている人がほとんどだと思うんです。
私自身が夢を諦めかけていた人間だから、「空を飛びたい」という人がいたら助けてあげたい。私が点検から操縦まで全部教えるので、いつでもウェルカムですよ(笑)。
――ウルトラライトプレーンで初めて空を飛んだときの心境はいかがでしたか?
空を飛んでいる感じがリアルに伝わってきて、すごく楽しかったですね。
実は中学生の頃、セスナ機に乗せてもらったことがあったんですが、イメージとまったく違っていて、途中で飽きてしまったんです。車みたいに囲われた空間にエンジンの轟音が響き渡っていて、空を飛ぶ爽快感みたいなものはなかった。それに比べると、ウルトラライトプレーンは、翼で空気に乗ってサーフィンしているような爽快感があるんですよね。
――最初のウルトラライトプレーンは中古を購入されたわけですが、2機目は一から自分で組み立てて作ったそうですね。新品のキットの場合、いくらくらいかかるものですか?
アメリカから取り寄せた機体キット自体は60万円ほどなんですが、輸送費などを含めると75万円近くかかりました。それに加えてエンジン代が50万円、計器類が10万円、塗装代が20万円ほどで計155万円くらい。あとは機体を組み立てるための作業場を庭に建設したので、その材料費が30万円ほどです。
大きな木箱に飛行機用のベニヤ板やタイヤなどの材料と図面だけが入っていて、図面を見ながら自分で組み立てて作るのですが、仕事の合間に作っていたこともあって、2年くらいかかりましたね。
――仕事で機械の組み立て作業をして、プライベートでも飛行機の組み立てをしていたわけですか。自分の中では違う感覚なんですか?
なにしろ私の飛行機ですから、仕事とはぜんぜん違いますよ。
自分の飛行機を持てる人なんて滅多にいないですから、たとえ家で作っている小さな飛行機だとしても、俺のだもん、みたいな(笑)。
休みの日は朝から晩まで飛行機作りに没頭していたわけだけど、それは自分にとって至福のひと時なんです。
仕事の場合は、納期だなんだと時間を気にしているけど、自分の飛行機だから時間を気にせず好きなだけイジれる。一回作った部品が納得できなくて、何時間もかけて作り直したとしても自分の物だからいいわけです。そうやって納得いくまで作ることが楽しいですよね。
――ウルトラライトプレーンと出会ってからは、毎週のように飛行場に通う日々ですか?
ずっと仕事が忙しかったので毎週は行けなかったですけど、忙しいときでもよく飛行場には来てましたね。風が強くて飛べないようなときでも、飛行場で焚火をしながら一日中みんなと一緒に過ごしたりして、仕事の息抜きになっていたと思います。
最近は、1機目のウルトラライトプレーンで訓練飛行をすることが多くなってきたこともあって、実は2機目の飛行機はあんまり飛ばしてないんですよ。ここしばらく家に置いてあったんだけど、家に飛行機があるのもまたいいんですよね。朝起きたら、まず飛行機を眺めたりして(笑)。
――自分が夢中になれるものを持つことの人生の影響みたいなものはありますか?
大きく変わりましたね。自分に自信が持てるようになって、性格が明るくなったと思います。
以前の私は「どうせ俺なんか……」という後ろ向きの性格で、空を飛ぶことにしても、俺には無理だと諦めていたのが、第一段階をクリアして飛べるようになった。
そして第二段階として、昔の自分みたいに空を飛びたいと思っている人に教えてあげられるようになった。教え方にしても自分なりにだんだん上達して、教わる方もどんどん上達していく。そういうことを繰り返すうちに自信が付いてきたんだと思います。
あとは友達が増えたことがありますね。職場だけだと知り合える人も限られてくるけど、飛行機のクラブだといろんな人と知り合えるし、共通の話題もあるから楽しいですよね。
飛行場でバーベキューやキャンプをやったりもしていて、自分たちの遊び場があることは本当に幸せなことだと思いますね。
――最後に、大橋さんにとって自分が作った飛行機は、どんな存在なんでしょう?
デッカイ男のオモチャですね。
自分で作ったものに乗って遊べるというのが、またいいですよね。
ここまで好きになれるものって、なかなかないと思うんです。自分はそれが見つけられたわけだから、こんな幸せな人間もいないと思います。
世の中には自家用ヘリコプターや何台もの高級外車を所有している人もいるでしょ! お金をいっぱい持っていて、たしかにすごいと思いますけど、それが“幸せ”かというと、ちょっと違う気がするんです。やっぱり私は、ひとつのオモチャをすごく大切にしている人の方が幸せだと思う。
これは俺が作った俺のオモチャですから、可愛くてしょうがないですよね(笑)。
――本日はありがとうございました!
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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