認知症のひとと会うのは、外国に行くのとちょっと似ている。
ご本人は病気で「認知」が変わるけれど、認知症の人とのかかわりで、わたしも「世界」がちょっと違って見えるスイッチが入る。
認知症の人が集い暮らすグループホームのスタッフが、日常のエピソードからお届けする、「わたし」たちを変えるエッセイ連載です。
「僕はね、母は認知症になってよかったと思っているんです」
Aさんは不意にそう仰いました。
私の勤めるグループホームでは、2ヶ月に1回、ご家族同士や私たち職員との交流を深めるための家族会を開催しています。その家族会の終わり、私とAさんの二人きりになったときでした。
Aさんのお母様が認知症を発症され私のグループホームに入居されるまで、長男であるAさんとその奥様は、介護にご苦労なさったと伺っています。そのAさんが、お母様が認知症になってよかったとは……? 戸惑う私の内心を見透かすようにミステリアスに、しかし優しくAさんは微笑みました。その表情はお母様そっくりです。
「母は、自分にも他人にも厳しい人でした」
「名のある家系に生まれついたばかりに、長女として厳しくしつけを受けてきたそうです。成長してからも女性、妻、母として周りからも期待され、それに応えるよう、お手本のように生きた母です」
その生い立ちは以前から伺っていました。また、そんなお母様はご家族に対してもストイックな生き方を良しとし、特に長男であるAさんは名家の跡取りとして、とりわけ厳しくしつけられたとか。ご兄妹との叱られ方の違い、友人や遊び、学校の進路選択の制限など、厳しかったお母様とのエピソードもいくつか伺っていました。
Aさんは何かを思い出すかのように、しばし無言でしたが、悲しげに目を曇らせ、また話し始めました。
「ですから、母の認知症が始まった頃はショックを受けました。あれだけ几帳面だった母が、金銭の支払いや他人との約束を忘れるようになり、それを指摘してもつじつまの合わないことを話すようになりました」
「当時離れて暮らしていた私が実家を訪ねると……冷蔵庫には賞味期限切れの食品が乱雑に詰め込まれ、引き出しのあちこちにぐしゃぐしゃの一万円札がほったらかし。もうじき夏だというのに、本人は伸びきって穴の空いたセーターを着ていて……以前の母からは考えられないことでした」
そんな姿を見かねて、Aさんはお母様を呼び寄せて同居を始めたのです。
しかし、金を盗られたと騒ぎ始めたり、得体のしれない女が入り込んでいるとAさんの奥様を追い出そうとしたり……騒動の日々となりました。
住みなれた環境を離れることによって、心身に悪影響が出てしまう。認知症の高齢者によく見られるこの現象は、「リロケーションダメージ」と呼ばれています。Aさんのお母様の急激な変化も、まさしくこれにあたるものでした。
しかし、それが理解できないAさんのきょうだいは、そうしたお母様の騒動を「嫁と姑の折り合いが悪いからこうなる」「遺産狙いで無理やり同居させた兄が悪い」と、Aさんと奥様を責めるようになり、関係も悪化したそうです。
当ホームへのご入居に至るまで、弟妹すら理解してくれない、孤独な悪戦苦闘の家族介護が続けられていました。
「当時、僕は腹が立って仕方がなかった。母にも、兄妹にもね」
『そうした壮絶な状況なら、当然のことでしょう』と言いかけた私を遮るように、Aさんは仰いました。
「いえ、たぶん、志寒さんが想像としているのとは違うんですよ」
「当然、母が認知症であることは理解してましたし、介護の勉強もしましたよ。いろんな介護サービスも使いましたし、そういう介護の辛さという点では、僕は冷めてました。兄妹のことも……まぁ、長男として割を食うのはいつものことですしね」
認知症の知識も豊富で、お母様の状態も正確に理解していたAさん。淡々と仕事のようにお母様の介護をこなしていたそうです。しかし、そんな知的で実務的なAさんの内心で、存在し続けていた得体のしれない怒り。ある日突然、その怒りの正体が判明したそうです。
「母の様子を見に来た妹と介護で意見が分かれたとき、妹が言ったんです。『こんなのお母さんらしくないわ! 兄さん長男なんだからきちんと介護しなさいよ!』と。こちらの苦労も知らない身勝手な言い草に腹が立ったのもありますが、引っかかったのは『母らしくない』という言葉でした」
「私や妻も介護で苦しみましたが、当然、それ以上に母自身が苦しんでいました。そんな苦しんでいる母に、まだ『母らしくあれ』というのか。その母らしさってなんだ? 妹の手前勝手な期待じゃないのか?! と」
「でもね、確かに私自身も母の認知症に気が付いたときに、そう感じていたんですよ……『母らしくない』って。これまでの母じゃなくなってしまった、と」
「らしくあれ」という押し付け。それは長男としてこれまでAさんが背負ってきたものでした。
背負わせてきた当のお母様は、いまや「らしく」なくなっているのに、Aさんや妹さんは「らしく」ないことが認められず、怒りや悲しみを覚えている。
そして、妹さんはいまだにお母様に「母らしく」あれと期待し、長男である自分に「長男らしい」理想の介護をしろと押し付けてくる。
「こんなことを考えていると、混乱してきましてね。この歳になって、僕と母の関係を見直してみました。母を縛ってきたもの、自分を縛っているものに向き合ってみました」
「私は長男として、母を家で介護し続けるつもりでした……でもね、そのことでも『長男らしく』と自分を縛りつけていたんですよね」
「それに気が付いたとき、『そうか、ホームに頼ってもいいんだ』と思って。施設探しを始めました。それでここに出会ったんです」
こうして当ホームに入居となったお母様。入居されてしばらく、Aさんはお母様の新しい生活が気になる一方、ホームに様子を見に来るのも辛かったそうです。「親を預けてしまった」という罪悪感と、正しい選択をしたのかという迷いを抱くご家族は多いものです。
「だけどね、しばらくたって母の姿を見て、驚きました!」
Aさんがご訪問されたのはちょうどお昼時、お母様は他のご入居者さんと何を食べようか話し合っていたのでした。
「母がね、あの母が、『あんパンが食べたいのよ』って!」
「母が自分自身の要求を言うのは珍しいことでした。父や祖母が食べるものを優先し、誰かが選んだものを食べる人で、何を食べるべきとは言えても、何を食べたいかは言わない。ましてや、あんパンですよ。私や兄妹には、『あんな食事にもならないもの』『栄養もないもの』『洋とも和ともつかないもの』と食べさせてくれなかったのに」
何を食べたいかはっきりと主張し、それを貫き、思いっきり笑い、時には正直に怒りを見せるお母様のそんな姿を見て、Aさんはこう思ったそうです。
「全然、『母らしくない』! 『らしい』どころじゃない。『ありのまま』じゃないか! って」
家族介護をされていた頃、お母様はAさんに対し、しっかりした厳格な母らしく振る舞いたいと願い、それができないことに苦しんでいた。
一方のAさんも、認知症だからと割り切ろうとしつつも、どこかで「これまで通りの母らしく」あるように、かつての母の名残を追い求めていた。
でもいま。お母様は、妻でも母でもない、ありのままの「ひと」として、素直にたくましく生活をしている。
「家に帰って、『母さんずるいよ!』って妻と一緒に笑い合いました」
「ここに来て、母は『らしさ』に縛られず、ありのままで生活をすることができた。僕は母と、ひとりのひととして、改めて出会うことができた。認知症が、このホームが、ありのままの母と僕を出会わせてくれた」
「だからね、僕は思うんです。母は、認知症になってよかったと」
お話を伺いながら、Aさんにとって「らしさ」というものが持つ重さを感じ、少し気にかかったことがありました。
「らしさ」は、決してそれ自体が悪いものではないけれど、塩梅がとても難しいものなのです。私たちは自分にも、他人にも「らしさ」を求めます。それは時に自分を律する支えにもなる一方で、自分を縛りつけるものにもなり得ます。そして、他人に対しては、その人を理解するヒントにもなる一方で、色眼鏡となり相手を見失うきっかけにもなってしまう。
Aさん親子のように「らしくあれ」という押し付けが、相手を理解するうえでの多様な可能性を、切り捨てることにもなり得るのです。
私自身が、Aさんとお母様を理解するつもりで、逆に「らしさ」を押し付けるようなことがなかっただろうかという懸念をAさんに伝えると、きょとんとした表情のあと、こう仰いました。
「志寒さん、覚えていないんですか?」
入所時、私がAさんに「ホームに何を望むか」をたずねたときの会話の中で、私はうっかり、これまでの生活を活かして、お母様「らしく」暮らしてもらえればと言ったのです。でも、Aさんは私の続く言葉を覚えていました。
「そのとき、志寒さんは『これまでも大切ですけど、これからの暮らしの中でも、たくさんの発見をしていきたいですよね』と言いましたよ」
「認知症の母に、未来が、発見があるんだ。そんなことをのんきそうに言うんだな、面白いことを言うんだな、と感心したんですよ」
「でも、覚えてないんですね、志寒さん!」とからかうAさん。
「頼りにならない、介護職らしくないですかね?」と私。
笑いだしたAさんの表情は、あんパンを手にしたときのお母様の笑顔と、やっぱりとてもよく似ているのでした。
企画・編集:編集工房まる 西村舞由子
イラスト:macco 「らしさ」の森から抜け出して
現施設にて認知症介護に携わり10年目。すでに認知症をもつ人も、まだ認知症をもたない人も、全ての人が認知症とともに歩み、支え合う「おたがいさまの社会」を目指して奮闘中。 (編集:編集工房まる株式会社)
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