悲しい思い出も、変奏曲のように変わる - 世界の見え方が変わる「認知症スイッチ」

認知症のひとと会うのは、外国に行くのとちょっと似ている。

ご本人は病気で「認知」が変わるけれど、認知症の人とのかかわりで、わたしも「世界」がちょっと違って見えるスイッチが入る。

認知症の人が集い暮らすグループホームのスタッフが、日常のエピソードからお届けする、「わたし」たちを変えるエッセイ連載です。

夜ごと甦る悲しみの火

悲しい思い出も、変奏曲のように変わる

私の勤めるグループホームに入居したAさんは、ご入居直後の夜間、不思議な行動をされていました。

テレビの赤い電源ランプを「火よね? 火よね?」と指さしています。私はそのランプを指でさすりながら、熱くないこと、火ではないことを説明しますが、納得して安心するのも一時のこと。説明を忘れて、また「火なの?」と不安そうにしています。

昼間、何か火にまつわる嫌な思い出があるのかとご本人に伺ったところ、悲しい体験を語ってくださいました。Aさんには息子さんがいらしたのですが、彼は荒れた生活を送る中で、出来心で近所に放火をしてしまったそうなのです。

火をつけたのが無人の小屋で、ボヤ程度ですんだようなのですが、近所に噂が流れ、大変つらい思いをされたとのこと。村を出たくても先祖代々の土地を離れられず、夫は地元で働きづらくなり、出稼ぎをするようになって、当の息子もそれをきっかけに故郷を離れ、音信不通だと。

日中にはこうして冷静に過去を振り返ることができるAさんですが、夜になると脳の疲労で機能が低下して、心の古傷が甦ってしまうようでした。そうした不安な様子が夜ごと続くので、スタッフは家電の電源ランプをテープで隠したり布で覆ったりしていましたが、Aさんの夜の悲劇は次第にエスカレートしていきました。

「火事! 火事よ!」「息子が! 息子が!」と大声で叫ぶAさん。

外を通る車のテールランプがカーテンを赤く照らすのを、火のゆらめきと認識しているようです。私が興奮をなだめようとしても、Aさんの心の中にある火と悲しみは簡単には消えません。

「あんたのせいで!」と目の前にいない息子さんを責め、罵倒の言葉を繰り返しています。そして怒りと悲しみで疲れ切ったころ、ようやく眠りにつくのでした。

繰り返す悲しみのオルゴール

認知症は全ての記憶を単に均しく失う病気ではありません。古い記憶は比較的忘れづらいのに対し、新しく記憶するのが難しい病気です。

また、記憶を司る脳の海馬という部位は、感情の源である大脳辺縁系に位置しますが、強い感情に彩られた記憶は、認知症になっても失われにくいことがわかっています。その一様でない記憶のあり方が悲劇を生むことは、しばしばみられます。

認知症の状態にあると、苦しい過去や辛い思い出が甦りやすいうえ、客観的に現実を認識する能力が低下するため、冷静に「それは過去のことだ」「いまは苦しむ必要がないのだ」と認識して安心することも難しくなります。また、古い記憶を新たな記憶で上書きし、気分を変え自分を慰めるように感情をコントロールする能力も低下していきます。

夜間の休息時間帯や、疲れなどにより脳がぼんやりしているところに、赤いランプなどのようなきっかけがあるたびに、その出来事が起きた当時の生々しさで甦り、同じ苦しみや悲しみが繰り返し再現されるという悲劇。

それは当然、心の古傷をえぐられるAさんにとっても辛いことですが、その悲劇を間近で繰り返されるご家族も辛いものです。Aさんとよく似たケースを体験したご家族は、こうおっしゃいました。

「どうせ忘れてしまうなら、苦労も悲しみも忘れて、楽しいことだけ残ればいいんでしょうけどね」

「まるで悲しみだけを繰り返すオルゴール。因果なものです」

流れだした新しいメロディ

悲しみのオルゴールのねじを巻き続けるAさんですが、ある晩、大きな変化がありました。

いつものように悲しい記憶を傾聴していた私に対し、急に乱暴な口調になりました。普段は私に対して丁寧な言葉を使われるので、戸惑いながら話をしていくうちに、どうやら私を息子さんだと認識しているらしいということがわかりました。

これは、「人の見当識障害」と呼ばれる症状です。この時、Aさんの心の世界では、「過去のトラウマの原因となった人物が傍にいる」という状況がまさに事実なので、興奮はおさまるはずもなく、暴言や暴力のリスクもあります。心の傷をさらに深めてしまう事態にもなりかねません。

しかし、私もいつの間にか、Aさんの迫力に飲まれていたのでしょう。いまや息子となった私の罪を責めだしたAさんに対し、「母さん、本当は何が言いたいの!」と返していました。

いつもは心の中だけの存在で、言い返すことがなかった息子にそう言い返されるのは、Aさんにとって予想外の展開だったのでしょう。Aさんは顔を赤くして息をのみ、次の瞬間、次のようにおっしゃいました。

「あんただって苦しかったのは知ってる!」

「親は親なんだもの!」

興奮が頂点に達してメーターが振り切れてしまったのか、思いがけない言葉にきょとんとしてしまった私の表情のせいか、Aさんもきょとんとした顔つきになり、波が引くように悲劇はおさまりました。

しばらくして「お茶でも飲みます?」と湯のみを差し出す私。何が何やらわからないといった様子で「ありがとう」と湯のみを受け取るAさん。その後、穏やかにお休みになり、静かに夜は更けていきました。

この夜をきっかけに悲劇も終わりを迎えればよいのですが、そんなに脳は都合よくできていません。当然、その“息子さんとの和解”の記憶は失われ、また幻の火事は繰り返されました。

変わったのは、時折私が息子さんとみなされるようになったことと、日中に息子さんの話題を口にする時「そうはいっても、親の手を借りずにどこかで生きてるんだから、そこそこね」という言葉が聞かれるようになったことでしょう

強く感情に彩られた記憶は、認知症の状態にあっても失われにくいものですが、私という“息子”さんとの和解の体験も、そうした記憶になりえます。新しい記憶を上書きすることまではできなくても、悲しみのオルゴールに、主旋律とは違う新しい音を加える力が、少しはあったのかもしれません。

心の古傷をいつくしむということ

負の体験を何度も再現するのは、認知症がもたらす脳の機能低下の産物でしょうし、そもそも私はAさんの息子さんではないし、このような“息子さんの和解”が誰にでも起こりうるわけではありません。しかし、これらのことが引き起こした結果に、私が不思議な感動を覚えたことも事実です。

私は和解に臨場して、Aさんが「あのとき、息子の気持ちに気づいてあげられれば」「いま息子に会えたらこう伝えてあげたい」と、ずっと思っていたのだと、感じました。それはまごうことなく、息子さんへの強い愛情です。

そんな愛情を秘めた記憶だから、Aさんは忘れることもできず、きっと認知症になる前にも長い時間、心の中ではその悲しい記憶を何度も繰り返してきたのでしょう。そうして古傷をなぞりながら、息子さんへの愛情をうたいいつくしんでいた一面もあったのかもしれない。そう考えたのです。

むしろAさんは積極的にこの記憶を再現し続けていたのかもしれません。ある意味、自分の人生を形作るパーツとして「残したいからこそ思い出される」という、一種の自発的な状態だったかもしれないのです。

それがたまたま認知症によって、心の外の世界に表現されたと考えるのは、決して不自然な解釈ではありません。

それまで私は、Aさんが単に、認知症によって過去の記憶に翻弄されて心の古傷をえぐらされている、弱い存在とみなしていた部分があったことを猛省しました。

思い出の変奏曲

私が認知症の人の支援にかかわり、Aさんのようなエピソードを目にするうちに、学んだことがあります。

人は、概して悲しい記憶、辛い思い出を忘れることができないようだということです。思い返さないようにすることも難しいのかもしれません。心が弱ったり、ふとした拍子にその記憶が甦り、私たちを苦しめるように思えます。そのくせ、いくら反省しても同じようなことを繰り返して、悲しみを積み重ねてしまうのです。

思い返すとまるで、自分の人生には辛い記憶だけしか詰まっていないようで、絶望する時もあります。治りかけた心の古傷のかさぶたが剥がれて、実はまだジュクジュクと傷口が開いていたり。そのくせ、何度も古傷を見つめたり撫でたり……私たちの本質は、悲しみを繰り返すオルゴールみたいな側面があるのかもしれません。

しかし、思い返すたびに全く同じイメージ、同じ帰結の記憶であるとはかぎりません。心理学者のエリザベス・ロフタスは、犯罪目撃者の証言の不確かさなどに注目し、記憶は思い出す時に作り変えられる可能性を述べています(E.ロフタス『目撃者の証言』誠信書房、1987)。

それは自分の過去の事実に対しても同じで、思い出す時の状況によって、イメージや捉え方は変化しうるのです。

自分の過去が悲しいメロディだと思っていても、別の事実がわかったり、別の人との出会いや自分自身の環境などの変化に伴って、実は悲しいだけのメロディだけではないように感じたり、時に違うメロディが加わったり、曲調が変化してしまうこともあるのかもしれません。

Aさんが、認知症であったからこそ、私という「息子」に再会して、何かが少し、変わったように。

人の脳も心も、機械仕掛けのオルゴールのような面をもつだけのものではありません。あなたの過去の悲しみは、あなたが未来に向かって、記憶を取り出すたびに変わりうるのです。

もしかすると、いまの悲しい記憶の旋律は、少しさみしいけれども明るいメロディへと変化したりと、一生を通じて様々な曲調に変化しうる変奏曲なのかもしれません。

私たちの記憶は不確かで、失ったり、変化したりするからこそ、創造性が秘められています。同じ悲しみの音楽がグルグルと鳴り続けるだけと失望するのは、死が来るまで、まだ早いのだと思います。

企画・編集:編集工房まる 西村舞由子

イラスト:macco

志寒浩二
志寒浩二 認知症対応型共同生活介護ミニケアホームきみさんち 管理者/介護福祉士・介護支援専門員

現施設にて認知症介護に携わり10年目。すでに認知症をもつ人も、まだ認知症をもたない人も、全ての人が認知症とともに歩み、支え合う「おたがいさまの社会」を目指して奮闘中。 (編集:編集工房まる株式会社)

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