「老い」を共感とやさしさで包む「非マジメ」な態度を説く談慶さんですが、実は落語家になる前は「生マジメ」を絵に描いたような人で、「お前はマジメ過ぎる」と師匠・立川談志さんに叱られ続け、9年半という異例の長きに渡る前座期間を過ごしたのだとか。今回はそんな談慶さんの修業時代の日々と、師匠との心の絆、自身の人生の目標などについて話をうかがっていきます。
──談慶さんは立川談志師匠に弟子入りする前、3年間のサラリーマン生活を経験しています。兄弟子の志の輔さんと同じですね?
すば抜けたセンスと才能を持つ志の輔師匠と私を一緒にされると居心地が悪くなりますが、実は弟子入りするとき、その先例はちゃっかり計算に入れていました。談志も私が25歳だったのに対して、「15~6歳でウチに来るようなヤツと同じことはさせられねぇよな」と言っていましたし。
おまけに師匠談志は、立川流の昇進基準を明確に規定していたのも魅力的でした。
落語界には厳然とした身分制度があって、「見習い」、「前座」という修業期間を経て「二つ目」、そして「真打ち」という階段を昇っていかなければ1人前の落語家になれないんですが、談志は「二つ目は古典落語50席に歌舞音曲」、「真打ちは古典落語100席に二つ目より精度の高い歌舞音曲」と昇進基準を公言していたのです。歌舞音曲とは、主に唄と踊りのことです。
──そういうことは、落語界では珍しいことなんですか?
そもそも立川流は1983年、談志が真打ち昇進基準をめぐる意見の違いから落語協会を脱退したことをきっかけに創設されましたから、昇進基準を明確にすることは立川流の根幹に関わることなんです。
そして、同じ理由から立川流は、寄席という定席を持ちませんでした。このことがどういうことを意味するのかというと、弟子たちは落語家としての力を自分の力で能動的に身につけていかなければならないというハンデを負っているんです。
──寄席に出入りできないというのは修業時代の落語家にとって、どんなハンデになるんですか?
寄席というところはいろいろな落語家が出入りしていますから、毎日通っていれば「門前の小僧、習わぬ経を読む」よろしく、落語も覚えやすくなるし、太鼓や三味線なども自然に身についていくものです。立川流はそれができませんから、すべて独学でやっていかなければならないわけです。
ただ、そんなことはこちらも承知の上で、最初は甘く考えてました。「入門前に40席覚えれば、あと10席。1カ月に1席ずつ覚えれば2年目には前座から二つ目に昇進だな」なんて。
ところが、2年目どころか、3年目、4年目になっても前座の肩書きがとれない。そこに至って初めて私は、自分の了見がとんでもなくお馬鹿で甘いものだったかを知るわけです。
──昇進基準が明確なのに、なかなか昇進できなかったのはなぜですか?
昇進基準が明確であるということが、まさにその原因です。落語はもちろん、歌舞音曲に至るまで、ただ「覚える」というだけではダメで、談志が「よし」と認めてくれるレベルにまで達しなければならないわけですから。
特に、歌舞音曲には苦労をしました。『老後は非マジメのすすめ』なんて本を書いておきながら、私は中学、高校、大学の試験という試験を丸暗記で臨むほどの超マジメ人間です。
「お前はマジメ過ぎて、習いに行く先々で教えてもらってくる歌い方になってしまう。どんどん俺の基準から乖離するだけだ」と師匠から小言を言われる始末。
「俺は教育者ではない。小言でモノを言う」というのも、師匠のよく使う言葉でした。
とはいえ、年齢が30歳を過ぎて何年も経つと、落語家になるのをあきらめてサラリーマンに戻るなんて選択肢がなくなってきますから、師匠とは意地の張り合いのデスマッチの様相を呈してきました。
──そんな引くに引けない状態が、何年くらい続いたのですか?
9年半です。当時の日記を読み返してみると、唄や踊りの出来映えを見てもらおうと、スケジュールの合間を縫って週に2~3回も師匠のもとを訪ねています。挙げ句の果てには「2~3日の短期間で芸なんかうまくなるわけがない。俺のところに来るだけで満足されては困るんだ。もう来なくていい」と言われたこともありました。
私も必死でした。「唄を10個覚えてこい」と言われたら20個覚えて行く。「踊りを5個覚えてこい」と言われたら10個の踊りで返す。師匠の言うことはみんな無茶ぶりなんですが、そんな無茶ぶりをただ受けるのではなく、倍返ししていく。テニスに例えるなら、サービスエースを阻止してリターンエースを取っていく。そんな風に考えるようになって、ようやく師匠にも認められるようになっていきました。
──師匠に認めてもらい、「前座」から「二つ目」に昇進するために9年半という年月を費やした談慶さん。そのことについて、今はどう思っていますか?
ふり返ってみれば、感謝しかありませんね。二つ目から真打ちに昇進すると、「弟子をとっていい」という身分になるんですが、自分がそうなってみると、「弟子をとる」というのは、本当の意味で苦労するのは師匠のほうなんだということがよくわかるんです。取った以上、弟子がよほどの「しくじり」をしない限り、師匠は弟子をクビにできませんからね。
私はクビになってもおかしくないくらいの「しくじり」を何度もしてきましたが、師匠はいつもそれに堪えてくれたし、何より私が成長するまでの長い期間を辛抱強く待っていてくれたんだと思います。こうして思い返せば、涙がこみあげてくるほどありがたいことですよ。
──世の中にさまざまな職業がある中、落語家は年をとるにつれ円熟味を増す職業ですよね。53歳という年齢は談慶さんにとって、どんな段階でしょう?
師匠談志がある日の高座を終えたとき、私を含めた弟子たちに言ったことがあります。「お前たちも今日の俺のように、わざと下手に演りたくなるときが来るぞ」と。
だけど、そんな域に達したと感じたことは1度もないですね。今の私は、今日よりも明日のほうが上手くなっていたいと思っています。そもそも落語家の世界では、53歳でも「アンちゃん」と呼ばれる年齢です。師匠談志についても「若いころのほうがよかった」という人もいますが、私は60歳を過ぎてからが全盛期だと思っています。
──ということは、談慶さんの全盛期もまだまだ先ということになりますね。そのために何か、努力していることはありますか?
41歳のとき、頸椎ヘルニアを患ったことをきっかけに始めたボディビル。これを12年間、休まず続けているのは、全盛期をベストコンディションでむかえるための努力に違いありません。
ヘルニアのほうは幸いなことに、カイロプラティックの名医と出会ってすぐに痛みが治まったんですが、「運動してないとまたぶり返しますよ」とクギを刺されてジム通いを始めました。おかげで「120㎏のベンチプレスをらくらくあげる落語家」という肩書きを名乗れるようになりました。
──健康を維持すること以外に落語家として大事なことは何でしょう?
落語家とそうじゃない人との違いは何かというと、私は「たたずまい」だと思うんです。昔の時代を生きていた登場人物があたかも目の前に生きているような感覚を高座で再現できるかということ。談志は晩年、「落語は江戸の風が吹かなければならない」と言っていましたが、それと通じる考えかもしれません。
こういうことは、何をどう稽古すれば出るというものではなくて、長い間、積み重ねてきたものから自然にかもし出されてくるものなんでしょう。談志は喉頭がんを患いましたから、最後は気管切開をしなければなりませんでしたが、声を失う直前まで稽古をしていました。そうやって最後まで落語家として生き、世を去って行くところまで、師匠は私に手本を見せてくれたわけです。
だから、私の今の目標は生涯現役。できる限り長く落語を続けて、師匠よりも長く高座にあがり続けたい。それが師匠への恩返しであり、私自身の生きがいでもあります。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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