脳梗塞で倒れてもボウリング場でリハビリして回復!ボウリングに人生を捧げた98歳長寿ボウラー

「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。

どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。

そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。

今回は、日本ボウリング場協会が発表する令和3年版「長寿ボウラー番付・男性部門」で218名の「横綱(90歳以上)」の中でも上位につける98歳の長寿ボウラー奥村さんにお話を伺いました。長寿の秘訣はやはりボウリングにあり!?

今回のtayoriniなる人
ボウリングファン歴60年/奥村 栄さん(98歳)
ボウリングファン歴60年/奥村 栄さん(98歳) 1924年福井県生まれ。福井の小学校卒業後、東京の私立中学校に進学。在学中に学徒動員で立川市の陸軍航空廠技能者養成所に入所。その後、幹部候補生として陸軍に入隊。1944年の東京大空襲により家族を失ったことで福井に帰郷し、大工仕事を学ぶ。再び上京し、東京で建設業に従事。1964年に埼玉県所沢市に武蔵野建設株式会社を設立。建設業と共に不動産業を行い、やがて不動産専門の会社となり現在に至る。
30代後半からボウリングを愛好し、所沢市ボウリング連盟会長として市民大会を開催するなど普及に努めた。

■所沢スターレーン
奥村さんが通う所沢の老舗ボウリング場。会員(入会金1,000円、年会費3,600円)になると、ゲーム料金の割引やゲーム招待券など、さまざまな特典が受けられるので日頃からボウリングを楽しみたい方におすすめだ。

ボウリングのために酒もタバコもやめ、98歳の長寿に

――日本ボウリング場協会が発表している「長寿ボウラー番付・男性部門」の横綱(※90歳以上)の中でも98歳の奥村さんは最高齢に近いですよね。大正時代の生まれですが、ボウリングが日本に入ってきたのは昭和30年代という話です。ボウリングとの出会いを聞かせてください。

奥村

私が30代後半のとき(※1962年頃)、所沢ミナミボウルというボウリング場ができて、好奇心で遊びに行ったんです。当時はボウリングというものを知らなくて、なんだかよくわからなかった。面白そうだと思ったけど、最初はなかなか馴染めなかったね。
それまで遊びというと、ゴルフだなんだといろいろやってたけど、昼間は仕事だからゴルフは休みの日しかできない。だけど、ボウリングは夜でもできるということで、ゴルフをやらなくなってボウリング一筋になっていったんです。
ボウリング場に通ううちに腕も上がってきて、ボウリング仲間もできて、だんだんボウリングに夢中になっていったわけだ。なにしろボウリングをやるために酒もタバコもやめたんだから。

昭和の時代は席に灰皿が置かれていた。奥村さんは周りに迷惑がかかると考え、自らタバコをやめ、さらには酒もやめた。それが長寿の秘訣かもしれない。

――ボウリングのために酒もタバコもやめたんですか⁉

奥村

その頃は建築の仕事をしていて、仕事の後は飲みに行くことが多かった。夜やることというと、それしかなかったからね。ところが仕事の後にボウリングをやるようになると、酔っていたらボウリングができないから酒をやめたんです。それからは友達に飲みに誘われても、「今晩はボウリングだから」と断るようになった。
タバコはボウリング仲間に迷惑がかかるからやめました。当時は席に灰皿があってゲームをしながらタバコが吸えたんだけど、タバコを吸わない人は煙たがるし、女性は臭いを嫌がるからね。それまでの私はタバコを最後まで吸いきるほどのヘビースモーカーで指先がヤニで黄色くなっているほどだったよ(苦笑)。
ボウリングがきっかけで体に悪いものは全部やめたわけだけど、もしボウリングに出会っていなかったら、ここまで長生きはできなかっただろうね。

奥村さんにとってボウリングは、自分の体力づくりのためにやるものであって、スコアを競うものではない。とはいえ良いスコアが出ると、やはり無性にうれしいそうだ。

――ボウリングは適度な運動になるので健康にも良さそうですね。

奥村

大工の仕事で足腰が鍛えられている上にボウリングがいい運動になって、ますます足腰が元気になっていったね。
さらにボウリングは頭の運動にもなる。「あそこにボールを転がせば、こう曲がって狙ったピンに行くはずだ」って計算をしなけりゃいけないからね。
とはいえ、人間だから病気もすれば怪我もする。だけど、ボウリングがやりたい一心で真剣に治そうとするから回復も早いわけだ。それも健康の秘訣になっていると思いますね。

――大工のお仕事をされていたという話ですが、それまでの人生遍歴をお聞かせ願えますか。

奥村

小学校卒業まで故郷の福井県にいたんですが、東京の叔父に子供がいなかったので、「私立の中学校を出してやるから東京に来い」という話になったんです。それで中学校に進学したい一心で家族で上京しました。
今の中学校は義務教育だけど、当時の中学校は私立の4年制でしたから、試験を受けて自分で学費を払って行かなければいけなかった。だから田舎で中学進学は望めなかったんです。
ところが中学校に入った途端、太平洋戦争が始まった。中学3年のときに学徒動員があり、学校に通いながら立川の飛行機エンジンを作る工場で働いていました。
その後、二十歳のときに徴兵検査を受けて陸軍に入隊しました。私が入ったのは幹部候補生の教習所のようなところで、普通の兵隊ではなく、教官を目指すための教育機関でした。戦地で亡くなった同世代の兵隊も大勢いたけど、私は幹部候補生の教育中に終戦を迎えることになったわけです。

――戦場に行かないまま兵役を終えたわけですね。その後はどうされたんですか?

奥村

終戦後も1年以上、補助憲兵として大阪にいました。駅や街頭に立って解放された捕虜を検査する任務に就いていたんですが、東京に帰るところがなかったというのもある。なぜなら東京大空襲のときに家族が明治座の地下に避難していて、空襲で全滅してしまったんです。
家族がいないから東京に帰る理由もなく、しょうがないから故郷の福井に帰ることにしました。知り合いの建築会社に入って住み込みで大工の手伝いをしていたところ、福井地震(1948年)が起きて、東京から大工や職人が出稼ぎに来ていたんですね。
彼らが復興作業を終えて東京に帰っていくのを見ているうちに、私も無性に東京に戻りたくなった。なにしろ福井には小学生までしかいなかったから、田舎に馴染みがないわけです。それで友達を頼って上京して、建築の仕事に就いたわけです。

ボウリングは自分との戦い。スコアは後から付いてくる

――大変な時代を生きてこられたんですね。その後、所沢で会社を経営されていたそうですが、その頃からボウリングに夢中になっていったわけですか?

奥村

仕事の都合で所沢に来たことが縁で、所沢に家を構え、1964年に武蔵野建設株式会社を設立しました。ボウリングに夢中になっていったのもその頃でしたね。
年々スコアが上がってきて、ボウリングをやり始めて10年目くらいでパーフェクトを出したんだよ! 所沢ミナミボウルができてから3人目となるパーフェクトでした。

ボウリングを始めて10年ほどで300のパーフェクトを達成した。当時は今よりもボールの質が悪く、プロボウラーですらパーフェクトは至難の業だった。

――それはすごい! どんなふうに腕を上げていったんですか?

奥村

人に習うということはなかったね。見よう見まねで投げているうちに、ボールをどこに投げれば、どう転がるかということがわかってくるんだ。それからボールの回転を出すために穴の位置を考えたり、投げ方を考えたりしているうちに次第にスコアが上がってきた。
そうすると今度はスコアを気にするようになるものだけど、ボウリングというのは誰がジャマするわけでもなく、ただ止まっているピンを倒さなければいけないということがわかってきたんだ。それに集中すれば、スコアは後から付いてくるものだとね。
野球やサッカーの場合は、相手がジャマをするわけだけど、ボウリングは動かないピンに向かってボールを投げるだけ。ところが、投げ方によって右に曲がったり左に曲がったりして狙いどおりにピンを倒せない。ピンに馬鹿にされているみたいなね。
それが悔しいから真剣に考えてボウリングをやるわけだ。

――ある意味、自分との戦いですね。

奥村

そうそう。自分との戦いであって、ピンに負けちゃダメなんだ。
スコアが悪いことに嫌気がさしてボウリングを辞めてしまう人がいるけど、動かないピンを倒せないのは自分が下手くそなだけで、それはピンに負けた証拠なんだよ。
人とスコアを比べるからいけないのであって、自分は自分ですよ。同じところに投げてもパーフェクトを出す人もいれば、ガターになる人もいる。人それぞれ投げ方と頭の中で考えてることが違うから、同じようには投げられないわけだ。
だから自分なりに考えなきゃいけない。「あそこに投げれば、こう転がって狙いのピンに行く」というふうに計算どおり投げるには、練習もしなきゃいけない。

――今は所沢スターレーンに通っているそうですが、いつ頃からここを拠点にするようになったんですか?

奥村

所沢で最初にできたのが所沢ミナミボウル(※現在は閉店)で、二番目にできたのが所沢スターレーンでした。実はもともとここは畑だった土地で、私が設立に関わっているんですよ。
当時は建築業をやりながら不動産業もやっていたわけだけど、あるとき家を建てたいけどお金がないという地主さんから相談を受けたんです。ちょうどボウリング場会社が所沢で土地を探していたので、私が地主さんの畑の土地を紹介したところ、その土地を買うことになった。それで畑を売ったお金を建設費に充てて、地主さんの家を建ててあげたんです。
当時は所沢ミナミボウルに行っている人が多かったけど、所沢スターレーンができてからは、私がボウリング仲間をまとめてここへ連れてきたんですよ。

1969年のオープン以来、所沢スターレーンに53年間通い続けている。初代社長から三代目の社長まで付き合いがあり、誰よりも所沢スターレーンを知る人物が奥村さんなのだ。

――まさに所沢スターレーンの主みたいな方なんですね。それから50年以上通い続けているわけですが、ボウリングが生活の一部に組み込まれている感じですか?

奥村

ボウリング場に行くと顔馴染みがいるというのもある。ボウリング場で知り合った人は、利害関係がないから付き合いが長続きするんですよ。「今日はどうだった?」「いやあ、ダメだった」ってボウリングの話をする程度で、普段何をしている人かも知らないし、何も関係がない。
これが商売上の付き合いだったら、「あいつはこすっからい奴だ」って険悪な関係になったりするものだけど、ボウリングだけの関係だから、付き合いもあっさりしたものですよ。気楽な関係だから長く続くんだね。

所沢市ボウリング連盟会長としてボウリングの普及に努めてきた。ボウラーとしての活躍では、所沢スターレーンのお客様とチームを組み、他のスターレーン店舗と競い、全国大会で優勝を果たしたことも。

――所沢スターレーンができた60年代末から70年代にかけて、日本中でボウリングが大ブームだったみたいですね。

奥村

当時は中山律子や矢島純一といったプロボウラーが有名でした。私は自分のお金で大会を開いて、そうした一流プロをかたっぱしから呼んだものですよ。一流プロを呼ぶとお客さんもたくさん集まる。そんな中で私も大会に出場してプロと一緒に投げていたんです。
昔の一流プロは一晩呼んだだけでもかなりギャラが高かった。だけど、私は酒もタバコも飲まないし、遊びにも行かない。ボウリングだけが私の道楽だから、ボウリングにお金を使うことは惜しまなかったね。

プロはだしの腕前でありながら、奥村さんがプロボウラーを目指すことはなかった。あくまで個人的な趣味として楽しんだからこそ、60年以上も続けられたと考えている。

脳梗塞の後遺症もボウリング場でリハビリし、見事回復!

――30代後半でボウリングと出会って60年以上になりますが、それだけ長く続けてきて飽きないものですか?

奥村

飽きないねえ。なにしろ病気になってもボウリングのことしか頭にないくらいだ。
80代のときに脳梗塞で倒れて右半身付随になったことがあるんです。
朝、手と足に違和感があったから娘に車で近くの病院に連れて行ってもらったところ、車から降りようとすると立てないんだ。脳梗塞が始まったばかりだということで即入院となった。
点滴治療やリハビリのために3カ月入院しました。ところが病院は患者を3カ月以上置いておけないという決まりがあるから、医者から別の病院に移るように言われたんです。
それで、「だったらボウリング場に行く」と言ったんですよ。

――なぜリハビリ中にボウリング場に行くんですか?

奥村

医者から「ボウリングは医者じゃないですよ」と言われたけど、ボウリング場でもリハビリはできると思ったんです。
病院のリハビリでは、階段の上がり降りや輪投げの練習ばかりしてたけど、階段ならボウリング場にもあるし、軽いボールを持って上げ下げすれば手の運動になる。そうやってボウリング場に通ってリハビリしていたわけです。

――普通にボールが投げられるようになるまで、どれくらいかかりましたか?

奥村

半年くらいだろうね。階段の上り下りやボールの上げ下げの運動をしているうちに、だんだん体が治ってきて普通に投げられるようになった。
その後、脳梗塞で倒れた女性のボウリング仲間がいたんだけど、私がボウリング場でリハビリしているのを見ていて、その人もボウリング場に来て1年くらいリハビリをして、普通にボウリングができるまでに回復しました。私がいい見本になったわけだよ(笑)。

――「早くボウリングができるようになりたい」という目標を持つことが良かったんでしょうね。

奥村

やっぱりボウリングが好きだから粘り強くリハビリができたんだと思う。もしボウリングが好きじゃなかったら、病院を転々としてずっとリハビリをしていたと思うよ。
私は脳梗塞の他に胆石もやってるし、肺炎も患ってるけど、全部ボウリングで治しているんです。血圧を下げる薬を飲むのをやめても、ボウリングがいい運動になって血圧が変わらなかったからね。だから医者もビックリしてましたよ。
私はいまだに薬も漢方薬も飲まない。そのかわりバランスのとれた生活を送るようにしています。朝昼晩の食事はきっちりとって、一日を4時間ずつ3回に分けていて、4時間置きに仕事時間、自由時間という生活を何十年も続けているんです。

――今はコロナで外出を控えているそうですが、95歳まで会社に出勤して、ボウリング場にも毎週通っていたそうですね。

奥村

人間の体というのは、60代後半から80代前半でかけて体力的に大きく変わってくるものです。特に70歳前後は生活習慣病が病気になって出てくるときだから一番気をつけなきゃいけない。それを乗り越えるには、規則正しい生活を送ることです。
コロナ前は毎週何時と決めて必ずボウリングをやることにしていて、それを楽しみに仕事をしてましたね。
今はコロナでボウリングを控えているけど、家で寝ていても、レーンを思い浮かべて「あそこに投げたらボールがこう行くかな?」って頭の中でボウリングをやっていたくらいだ(笑)。
私がボケていないのも、やっぱりボウリングのおかげですよ。寝ても覚めてもボウリングのことを考えているから、頭の働きが活発になっているんだ。

ボウリング仲間と談笑していたところ年齢の話になり、「86歳ならまだまだ大丈夫だ」と奥村さん。98歳の奥村さんにとって80代は若い方なのだ。

――これからボウリングをやろうという高齢者、もしくは高齢になってもボウリングを続けている人にアドバイスをお願いします。

奥村

自分の体のためにボウリングをやってください。
他の人のスコアと比べて自信をなくす必要もなければ、スコアが落ちてきたからといって諦める必要もない。
若い人と同じように投げられなくなるのは仕方のないことですよ。年を取って力がなくなると、ボールの走りが悪くなって狙ったピンに行く前に曲がったりする。だからといって力を入れすぎると馬鹿みたいなところにボールが行ったりする。そこで、どうすれば自分の思いどおりにボールを投げられるかを考えることが、頭を使うことになるわけだ。
年相応の投げ方というのがあって、それを自分なりに考えて工夫するのもひとつの楽しみですよ。自分の体に合ったボウリングをやるのが一番です。

――奥村さんが98歳の今なお健康なのも、やはりボウリングが秘訣というわけですね。

奥村

ニワトリが先か卵か先か、というのと同じで、ボウリングをやっているから足腰が元気になるわけだけど、病気になると投げられない。「体が悪くなってきたからボウリングを辞める」という人がいるけど、それはボウリングをやってないからですよ。そうならないようにするには、できる限りボウリングをやり続けることだ。
人間には欲があるものだけど、今の私の欲が何かというと、体が元気でありたいという欲です。
私くらいの年になると、金が欲しいわけでもないし、美味いものを食べたいとも思わない。元気でいること自体が目的であって、どうやってそれを達成するかというと、私の場合はボウリングしかない。
私はボウリングを体力増強のためにいい薬だと思っている。だから辞めちゃダメなんです。

――目指すは百歳の長寿ボウラーですね。本日はありがとうございました!

「来年もボウリングをやるつもりだ。再来年もやったら百歳になる」と奥村さん。いつか奥村さんが日本最年長ボウラーになるかもしれない。
浅野 暁
浅野 暁 フリーライター

週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。

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