サバイバルゲームは高齢者の健康維持に最適!? 最高齢サバゲーファン76歳は、歴戦のつわ者だった

人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。

どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。

そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。

今回は、40歳からサバイバルゲームを始め、76歳の今なおフィールドで戦い続ける「軍曹」こと増田さんにお話を伺いました。もともと脳梗塞予防の運動として始めたそうですが、36年間も夢中になったサバイバルゲームの魅力とは?

  

今回のtayoriniなる人
サバイバルゲームファン歴36年 増田義明さん(76歳)
サバイバルゲームファン歴36年 増田義明さん(76歳) 1944年東京都江東区出身。中野電波高等学校を卒業後、川崎の電機会社に入社。19歳のときに日本電信電話公社(1999年よりNTT東日本)に転職し、38年間勤務。58歳で早期退職し、千葉県山武市に移住。40歳からサバイバルゲームを趣味とし、76歳現役で戦い続けている。

脳梗塞の予防のため、40歳でサバイバルゲームを始めた

――76歳現役のサバイバルゲーマーとして、ホームページで高齢者にサバイバルゲーム(以下、サバゲー)を薦めてらっしゃいますね。サバゲーというと、20代30代の人がやるものというイメージがあるのですが、高齢者でも楽しめるものなんでしょうか?

増田

サバゲーは敵と味方に分かれて陣地の旗を取り合うゲームなわけだけど、若くて動ける人は前線で攻勢をかければいいし、体力に自信のない高齢者は陣地を守っていればいいんです。だから年齢に合った運動が保証されているんですよ。

プレイ中は視覚、聴覚、洞察力、観察力、知力をフルに使って五感を研ぎ澄ますから、高齢者にとってはボケ防止の最高の予防策になると思うね。ぼーっとしてたらすぐに撃たれちゃうから、ボケらんないよ(笑)。

――増田さんがサバゲーにハマったきっかけを教えてください。

増田

実は私がサバゲーを始めたのは、40歳からなんです。

その頃、脳梗塞の前兆らしき症状が出て、2週間ほど検査入院をしたんだけど、医者から「予防のために何か運動をしなさい」と言われたんです。今さらテニスをやるのもなあ……と思っていたところ、健康雑誌でサバゲーが紹介されているのを見て、「銃を持って走り回る運動ならいいか」と思ってさ。我ながらバカだねえ(笑)。

――40歳から始めたということはサバゲー歴36年! これだけ長く続いた理由というと?

増田

精神衛生上、非常に良かったみたいだね。

当時は仕事が忙しすぎて精神的にまいってたんだ。脳梗塞になりかけたのも、仕事が多忙を極めていたときで、疲労とストレスがすごかった。それで会社の帰り道、足がぶらぶらの状態になって、まともに歩けなくなったんだ。おそらく脳梗塞の初期症状だったんだろうけど、サバゲーを始めてからは、心身の問題は一切払拭したね。

サバゲーのフィールド施設のプレイ料金は、軽食付きで1日3千円程度。最初に装備さえ揃えれば、実は安く遊べるレジャーなのだ。

――当時はどんなお仕事をされていたんですか?

増田

私は中野電波高等学校という電波関係の学校を卒業して、一旦、川崎の電機会社に勤めたんだけど、あるとき日本電信電話公社(現・NTT東日本)の求人募集を見つけて、ダメもとで試験を受けてみたんです。電話級無線通信士の資格を持っていたことが功を奏したのか、これが受かったんだよね。

入社後は、交換機の保守をやったり、管理部で図面を引く設計の仕事をしていたんだけど、電話の交換機というのは、10年置きくらいで新型に切り替わるものなんです。当時は交換機の切り替え担当をやっていたんだけど、回路図が電話帳みたいに分厚いし、mil単位の精密な調整をやるから、とにかくストレスが溜まる。同僚が何人もノイローゼになったほどだったよ。

――サバゲーがいいストレス解消になったようですね。その他に変化はありましたか?

増田

サバゲーをやるようになってから、何があってもへこたれない気持ちが培われたね。ある意味、極限の遊びだから、ふにゃふにゃしたひ弱なところがなくなってくるんだ。軍服を着ると、自然と背筋もピシッとするしね。

――60代70代にもなると体力が落ちてくるものですが、プレイに支障はありませんか?

増田

体力が落ちてくるのはしょうがないね。でも、そのぶん経験でカバーするんだ。敵の気配、物音、匂いやなんかを察知する洞察力や観察力で勝負するわけだ。

――歴戦のつわ者みたいですね(笑)。増田さんくらいの年代の方は他にもいるものですか?

増田

70歳の人は会ったことがあるね。ずいぶん年を取っているように見えたから、年上だろうと思っていたんだけど、私より6つ年下だった。36年間サバゲーをやってるけど、私が知る限り、私より年上は見たことがないな。

――ということは、日本最高齢サバイバルゲーマー!?

増田

そう言ってもいいくらいだ(笑)。

体力的にもまだまだ現役だよ。車の運転ができる限りは80代になってもやってると思う。年をとったからって家でゴロゴロしていてもしょうがないじゃない。やっぱりお天道様の下で、敵兵を探して戦っていると爽快だしね。季節も感じられるし、高齢者の精神衛生と健康維持にはすごくいいと思うよ。

ゲーム中は敵を探すことに必死になる。アドレナリンが分泌されまくり、元気がみなぎるそうだ。

700人を撃ち殺し、700回撃ち殺された歴戦のつわ者

――サバゲーは初心者には敷居が高く感じられてしまいます。増田さんは40歳から始めたそうですが、最初はどんなふうにスタートしたんですか?

増田

当時は湘南の社宅に住んでいたんだけど、平塚にモデルガンショップがあって、店長が立ち上げたチームがあったんです。

最初は5万円だけ持っていったんだけど、銃が2万、軍服が1万、帽子や靴で2万くらいだから、5万円もあればだいたいの装備は一式揃う。さっそく「次の日曜から来てください」と言われて、そのモデルガンショップのチームに入隊したんだ。

――サバゲー初体験はいかがでした?

増田

ところが、そのチームは軍隊チームだったんだ。「気をつけ!」「かかれー!」って軍隊式の訓練ばかりやっていて、あんまりゲームをやってなかった(苦笑)。

これじゃダメだと思って別のチームを探したところ、相模原にサバゲーのフィールドがあることを知って、一人で行ってみたんです。何回か通ううちに、自分と同じように一人でプレイしている人を13人くらい集めて、「レイディング・パーティ」というチームを作ったんだ。

私が作ったチームだけど、隊長にはなりたくなかったから、自衛隊の装備局に勤めていた人に隊長をやってもらって、機敏に動ける若手を副隊長に任命して、私はお目付け役(笑)。

――それから本格的にサバゲーにハマっていったわけですか。

増田

毎週のように行ってたね。レイディング・パーティで活動しないときは、平塚の軍隊チームに行って、両方のチームに18年間所属してたんだ。

軍隊チームは変わった活動をしていたんだよね。戦時中に上海銀行から接収した20兆円という埋蔵金伝説があって、10人くらいで山に探しに行くんだ。1週間くらい夏休みを取って行くわけだけど、13年通っても見つかりゃしない(笑)。他には青木ヶ原樹海に死体を捜索しに行ったりしてたね。

「サバゲーは時代背景が大事」と増田さん。戦争について調べることで、ますますハマっていった。

――それはそれで面白そうですけど、サバゲーはまったくやらないんですか?

増田

それが一回だけレイディング・パーティと対戦したことがあったんだよ。私は両方のチームに所属しているから、ゲームに参加せず審判を務めたんだけど、1日13ゲームやって、なんと13対0でレイディング・パーティの完勝(笑)。

数日後、モデルガンショップに行ってみたら、なんで勝てねえんだろ……ってみんなしょぼーんとしててさ(笑)。山小屋を襲撃する練習とかいろいろやってたけど、やっぱり実際のゲームとは関係ないんだよな。

――強い人と弱い人がいると思うんですが、どこらへんで差が出るものですか?

増田

上手い人は目がいいんだろうね。あとは機敏さが大事だね。だから若い子は強い。私は目が悪いんだけど、それでも700人くらいは殺してるよ。戦歴としては上等なほうだと思う。そのかわり700回近く殺されてるけどね(笑)。

機関銃で連射して殺すことが多いんだけど、狙撃銃で仕留めると気持ちいいんだ。あとは一回だけ拳銃で殺したことがある、拳銃は射程が20メートル以内だから、そーっと近づいて撃つわけだ(笑)。

――毎週休みの日に夫がモデルガンを持って出かけていくことに対して、奥さんは何も言わなかったですか?

増田

やっぱり亭主ばっかり遊んでたら機嫌を損ねるでしょ。土曜日は女房を鎌倉に連れていって、観光したり外食するようにしてたね。ある意味、宣撫工作みたいなものだよ(笑)。
女房には「ふたつの顔を持った男」と言われてたね。あるときは兵隊、あるときはサラリーマンってね(笑)。

夢中になれる趣味を持つことで、自分に“芯”ができる

――家に機関銃や拳銃が何丁もありますが、ハマっていくうちに、さらに性能のいいモデルガンが欲しくなるんですか?

増田

機関銃だろうが拳銃だろうが、性能はほとんど同じだよ。それ以上の威力になると、準空気銃になってお縄になっちゃうから(笑)。

銃や軍服が増えていったのは、それぞれ戦争のテーマがあるからなんだ。たとえば湾岸戦争をテーマにやろうとなると、米軍のチョコチップという軍服と湾岸戦争で使われていた銃を揃えて、アフガニスタン紛争をやるとなるとMC装備を揃える。ほかにも第二次世界大戦、ベトナム戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争というふうに、だんだん装備が増えていくんだよ。

これまでに銃や軍服で200万円以上は使っているだろうね。

移住後、サバゲー装備で近所を歩いてみたところ、通報されてパトカーが来たそうだ。警察官にサバゲーの趣味を説明すると、「何かあったら“応援”を頼みます」と気のきいたことを言われた。

――ところで、もともと東京出身で会社も東京だったのが、なぜ今は千葉県の九十九里浜の近くに住んでいるんですか?

増田

実は58歳で早期退職したんです。退職すると決めてから『田舎暮らしの本』という雑誌を読んで群馬県や三重県の物件を見に行ったりしていたんだけど、それまで湘南に住んでいたから、どうも海がないと物足りなくてね。それで九十九里浜も近いしということで、退職金でこの家を買ったわけです。

本当はこの趣味部屋は子供部屋にするつもりだったんだけど、子供はふたりとも家を出てしまって、結局、老夫婦だけになったんです。

奥さんが7年前に他界され、家の中は増田さんの趣味空間に。家中に銃が無造作に置かれ、男の世界という雰囲気だ。

――移住後は、千葉県でサバゲーをやるようになったんですか?

増田

引っ越すにあたって、レイディング・パーティは解散して、軍隊チームも辞めたんです。軍隊チームでは二等兵からスタートして、最終的に一等軍曹まで昇格したよ。それでホームページでも「軍曹」を名乗っているんです。

2つのチームを辞めてからサバゲーはやらなくなって、2年くらい家で寝てばかりいたんだよ。そしたら身体がおかしくなってきちゃって、これは運動しなくちゃいけないってんで再びサバゲーをやるようになったわけです。

増田さんのもうひとつの趣味がアマチュア無線。世界各地の人と通信し、あたかも軍司令部のようだ。

――現在はどんなペースでサバゲーを楽しんでいますか?

増田

模型屋さんでサバゲーのチームを紹介してもらって入隊したんだけど、メンバーの人が広大な土地を持っていて、ゲームがやり放題なんだ。最初の頃は月1でやっていたけど、歳とともにだんだん回数も減ってきたね。だけど、それでも去年は6回行ったよ。今年の正月も「撃ち始め」に行ってきたんだけど、今は新型コロナの影響で控えているね。ワクチンが開発されたら、またやるつもりだ。

もともと増田さんは争いが嫌いな平和主義者。「サバゲーはルールを重んじる紳士的な遊び」と増田さん。

――36年間、サバゲーを続けてきて、良かったと思えることは?

増田

私がサバゲーで培ったものというと“労りの心”なんだよね。

そりゃあゲーム中は必死になって撃つよ。だけど、相手に怪我をさせないように常に注意を払っているんです。サバゲーが趣味というと、気の荒い人物を想像するかもしれないけど、私が知る限り、人間的にいい人ばかりだよ。サバゲーで大事なのは、仲間意識とやさしさなんだよね。

良かったこととしては、やっぱり一番は仲間ができることだね。

会社の人間関係だと、同期でも上下関係ができたりするものだし、定年後は交流もなくなる。だけど、サバゲーで出会った仲間は、利害関係もないからいまだに交流が続いているんだよね。

サバゲーチームの仲間たちと記念撮影。さまざまな年代の友人ができるのもサバゲーの醍醐味だ。

――夢中になれる趣味を持つことで、人生にどんな影響がありましたか?

増田

趣味があることによって、自分の気持ちに“芯”ができたように思う。

会社一筋だと、定年になった途端、会社という芯を失って何もなくなっちゃう。ぼーっとしてるとボケちゃうしさ。だけど、趣味という芯があると、それを支えに生きられるし、趣味仲間と連絡を取り合ったりして行動も広がるよね。

私にとってサバイバルゲームは、人生の肥やしみたいなものですよ。もしサバイバルゲームがなかったら、ずいぶん違う人生を送っていただろうね(笑)。

地域の防犯パトロールをしたり、高齢者向けパソコン教室の講師をするなど増田さんは実に活動的。他にも仏教勉強会や瞑想道場に参加し、多忙な毎日を送っている。

取材・文・撮影=浅野 暁

浅野 暁
浅野 暁 フリーライター

週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。

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