がんの大手術から生還し、余生を寅さんファンに捧げる75歳。葛飾柴又には、今も寅さんが生きている

「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。

どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。

そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。

今回お話を伺った狩野さんは、映画『男はつらいよ』の舞台となった柴又で、自作の寅さん冊子を無料で配布し、柴又を訪れる寅さんファンを楽しませています。75歳にしてファン活動を続ける想いとは?

今回のtayoriniなる人
寅さんファン歴52年 狩野壽初郎さん(75歳)
寅さんファン歴52年 狩野壽初郎さん(75歳) 東京都江戸川区出身。保険会社の事務職を経てお客さん相談室に携わり、57歳で退職。葛飾区高砂に40年以上暮らし、2015年より隣町の柴又で、映画『男はつらいよ』に関する見所案内をボランティアで行っている。柴又駅で『みんなの寅さんin柴又』という冊子を無料配布し、フェイスブックで「みんなの寅さんin柴又グループ(https://www.facebook.com/torasaninsibamata/)」として活動中。
柴又駅前の寅さん像の左足を触ると「運気が落ちない」とされ、左足だけピカピカになっている。寅さん記念館にある寅さん像の右足の雪駄が床に落ちていることから、修学旅行の女学生が「(受験に)落ちない」という願掛けで、もう一方の左足を触りはじめたという説があるそうだ。

本当の寅さんを知ってほしくて、自費で冊子を配布

――映画『男はつらいよ』の舞台となった葛飾柴又で、寅さんガイドのような活動をされていますが、どういったきっかけで始められたのですか?

狩野

50代の頃に脊柱管狭窄症がひどくなって、歩かないでいると本当に歩けなくなるということで、リハビリを兼ねて散歩をするようになったんです。私は40年以上、葛飾区の高砂に住んでいるのですが、『男はつらいよ』が好きなこともあって、当然のように隣町の柴又に足が向かうわけです。

それで帝釈天のあたりを杖を頼りに散歩していると、街の人だと思われてよく場所を尋ねられたんですよ。そこまで案内して寅さんの説明をするようになったのがきっかけでしたね。

――『みんなの寅さんin柴又』という冊子を配布されていますが、これは狩野さんが個人的に作っている冊子なんですよね?

狩野

柴又のあちこちに「寅さんふるさと名言集」という映画の台詞があるんだけど、意外と柴又の人は知らなかったりするんです。最初は私が一緒に行って説明していたんだけど、だんだん足腰が悪くなってきて、そこまでできなくなってきた。それで紙で説明したほうが早いとなって、名言集だけの冊子を作ったんです。

2015年から柴又駅前で冊子を配るようになったんだけど、いろいろ聞かれているうちにどんどんページ数が増えていったんですよね(笑)。

マニアックな寅さん情報満載の『みんなの寅さんin柴又』。毎月10日(寅さんの日)と毎週金曜の10時半~11時頃から昼過ぎまで柴又駅前で配布している。

――累計発行部数3330冊とありますが、個人的な活動でこの部数はすごいですね。

狩野

寅さんの日の毎月10日と毎週金曜日に活動しているんですが、毎回15冊配るんですよ。最初の頃は家のコピー機で作っていたんだけど、コピーしすぎて家のコピー機が壊れた(笑)。インク代や紙代が大変なので、今は印刷にしているんですが、千部刷って30万円ちょっと。それが3333冊だから100万円は使ってますね。

――足腰が悪いのに柴又駅に立ち続けて、しかも自費で冊子を配布する、その情熱の源泉はどこからわくんですか?

狩野

みんなが笑顔になってくれるのを見るのがうれしい。ただそれだけですよ(笑)。それと、寅さんの本当のことを知ってもらいたかった。「寅さんふるさと名言集」にはなんの説明もないし、説明する人がいたとしても、間違った説明をしていたりして、私はそれが納得できなかった。だから、ちゃんとしたことを伝えたかったんですよね。

――それにしても、これだけマニアックな寅さん情報を調べるのは大変だったのでは?

狩野

名言集はどのシーンの台詞か半分くらいはわかったけど、さすがに全部はわからなくて、映画を見直して調べたり、『男はつらいよ』の研究者の方が作っているサイトを参考にさせていただいたりしました。

ロケ現場めぐりのページは、柴又のお店を片っぱしから取材して書いてます。面白い話がいっぱい出てきましたよ。寅さんのお母さんは柴又の芸妓でしたけど、昔は柴又にも置屋があったとか、タコ社長の印刷所があった設定の場所は、実は路地のある高木屋さんのひさしの角に撮影の都度、看板を打ち付けていただけとかね(笑)。

――フェイスブックで「みんなの寅さんin柴又グループ」という活動もされてますが、ファン仲間のつながりも増えたみたいですね。

狩野

立ち上げてからまだ1年も経ってないんだけど、参加者が200人を超えました。それとは別に実際の活動を手伝ってくれる人が5、6人いるんです。私が一人で活動してると、寅さん好きな人がどんどん集まってきて、手伝ってくれるようになった。寅さんの格好でおもてなしをしているものまね芸人の野口寅次郎さんや50代のカメラマン、88歳の人もいます。みんな人に喜んでもらいたいという想いでつながってるんですよね。

『男はつらいよ』のテーマソングが流れる「寅さんおみくじ」。中には寅さんの名台詞が書かれている。

寅さんの生い立ちが、「俺の人生に似てる」と思った

――『男はつらいよ』は1968年から始まった長寿シリーズですが、ファンになったきっかけは?

狩野

高校卒業後、保険会社に勤めたんだけど、会社から映画の株主招待券がもらえたんです。巷の評判が良かったから『男はつらいよ』の第1作を観たんですが、「俺の人生によく似てるなあ」と思いましたね。

寅さんと同じように私も両親がいない複雑な境遇で、祖母に引き取られて育ったんです。小さい頃は何かあると江戸川の土手に寝転がって空を眺めたりしていて、テレビドラマの『少年寅次郎』と同じような少年時代でした。寅さんと同じように、雲になりてえな……と思ってましたね(笑)。

――自分の生い立ちと重ね合わせて映画を観ていたんですね。フーテンの寅さんの旅がらす的な生き方に憧れたりは?

狩野

当時は高度経済成長期でみんなすごい働かされてたから、寅さんみたいな自由な生き方に憧れる人も多かったでしょうけど、私の見方は違ってましたね。私は小さい頃から孤独でしたから、みんなを喜ばせるために一生懸命な寅さんが「素晴らしいなあ」と思って観てたんです。

もともと私は人に喜んでもらうのが好きな性格なんだけど、複雑な境遇で育ったせいか、引っ込み思案でね。寅さんみたいにどんどん前に出ていって、みんなを楽しませることができなかった。だから、人を笑顔にする寅さんの生き方に憧れたんですよね。

家族というものを知らなかった狩野さんは、『男はつらいよ』を観て、家族の温かさを知ったという。

――第1作からリアルタイムで観ているということは、23歳から52年間も観続けているわけですね。狩野さんの人生に寅さんが影響したことは?

狩野

20代の頃、結婚相手を探そうと思って男女交際サークルに入ったんですよね。ところが、自分の恋人探しはそっちのけで司会ばかり引き受けるようになったんです。人を喜ばせることに一生懸命になって、なかなか恋人ができないところも寅さんに似てましたね(笑)。

――寅さんは惚れやすいんだけど、ずっと独り身ですよね。狩野さんはどうでしたか?

狩野

そろそろ本気で結婚相手を見つけなくちゃいけないと思って、当時、好意を持っていた女性を『男はつらいよ』に誘ったことがあったんです。そしたら「こんなくだらない映画を観てるんですか?」と言われて、その女性は諦めた……。自分とは価値観が合わないと思ったし、私は祖母と同居していたから、年寄りの面倒をちゃんと見てくれる人がよかったんです。

その後、26歳で結婚したんだけど、今の嫁さんはすごく面倒見のいい人だし、寅さんが好きだったんですよね。一緒に『男はつらいよ』の映画に行くと、ゲラゲラ笑って喜んでましたよ

――『男はつらいよ』は日本各地を渡り歩く寅さんを見ることで、ちょっとした観光気分が味わえますよね。柴又以外のロケ地に行ってみたりは?

狩野

実は夫婦で旅行に行くとき、妻には内緒で『男はつらいよ』のロケ地を旅行先に選ぶんです。妻には「日本三景は絶対に行こう」と誘ったけど、松島、天橋立、厳島の3カ所とも寅さんが訪れた場所なんだよね(笑)。他にも寅さんが叩き売りをしていた伊勢の観光名所に行ったり、寅さんが訪れた長野県の別所温泉に行ったりしました。

本当はロケ地を全部めぐりたいくらいんなんだけど、歩くのが不自由でなかなか行けないですよね。去年、天橋立に行ったときも、タクシーの運転手さんに頼んで車椅子で周ったくらいですから。

柴又の「寅さん記念館」に訪れてほしいという思いもあり、冊子でルートを案内している。ぜひ寅さん像の右足の雪駄を確認してみよう。

がんの大手術から生還後、余生を寅さんファンに捧げる

――『男はつらいよ』は1995年まで48作公開されていますが、欠かさず観てこられたんですか?

狩野

お盆と暮れに株主招待券が手に入ると、必ず観てましたね。ところが、事務職からお客さま相談室に異動になって、映画を観る暇もないほど忙しくなったんです。しかも、定年まであと数年というところで、2001年のアメリカ同時多発テロが起きて、勤めていた保険会社が破綻したんです。苦情が殺到し、1年間はずっとお客さま対応に追われました。

結局、会社は某大手保険会社に吸収されたんだけど、企業年金もパーになったし、給料も半分以下になった。やっと落ち着いてきたと思ったら、「そろそろお辞めになってもいいんじゃないですか?」って会社から電話がかかってくるんだから、やりきれなかったですよ(苦笑)。

――寅さんの世界とは真逆で人情の欠片もないですね……。それで退職されたんですか?

狩野

いや、その頃から脊柱菅狭窄症がひどくなってきて、おまけに頚椎の狭窄症も悪化して、歩くこともままならなくなったんです。転籍した会社まで通勤で2時間以上かかったから、とてもじゃないけど無理だとなって57歳のときに辞表を出しました。会社を辞めてからは、もう一度ちゃんと『男はつらいよ』を観ようと思って、録画を見直したりしてましたね。

寅さんの口上から間とテンポを学んだことが、面白おかしく寅さんの説明をする際に生きているそうだ。

――脊柱菅狭窄症のリハビリのために柴又を散歩するようになったことが、今の活動につながっていくわけですね。

狩野

その前にもうひとつ大きな出来事があった。60代半ばで前立腺がんが見つかったんですよね。医師から「脊柱菅狭窄症もあるから、5年くらいなら今さら痛い思いをして治療や手術をすることもないでしょう」と言われて、「要するに余命5年ということですか?」と聞いたら、まあそういうことだと(苦笑)。

それから腹腔鏡手術ができる先生を見つけて手術することにしたんですが、成功率が50%と言われたんです。こりゃもうダメだ……と思いましたね。

――今こうして僕と話しているわけですから、手術は成功したんですね。

狩野

手術してからもう9年経ちます。この間の検査でも陰性でした。だけど、手術前はどうなるかわからなかったから、それまで集めていた寅さんグッズを、形見分けとしてファン仲間にあげてしまったんですよ。手術が成功してから、あげなきゃよかったって思ったりしてさ(笑)。

――余命5年と告げられたのが、こうして生き続けることができて、どんな心境ですか?

狩野

あと5年と思ってたのが、もう9年も生きてるんだから、元は取れたと思ってますよ。それから先は生きてるだけで丸儲け(笑)。手術から生還後は、余生をすべて寅さんファンのみなさんに捧げようと思いました。寅さんを知らない若い人が『男はつらいよ』に触れるきっかけを作りたいですよね。私も含め年寄りのファンはいずれ居なくなるから、若いファンが育たないとね。

――生きていたおかげで、50作目の『男はつらいよ お帰り寅さん』を観ることができて、本当に良かったですね!

狩野

自分の記憶と交錯させながら真剣に観ましたね。『男はつらいよ』のいいところは、流行歌と同じで、自分の世代のことを思い出せることなんですよね。批評的にいろいろ言う人もいるけど、寅さんにまた会えただけでいいじゃない。楽しもうよっていうさ(笑)。

――渥美清さんもまさか死後に映画に出演するなんて思ってもいなかったでしょうね。今なお大勢のファンが柴又を訪れるなんて、すごいことです。

狩野

渥美さんが亡くなっても、寅さんは生きてるんですよ。今もこうしてしゃべっていると、そばに寅さんが居て、「おかしなこと言うなよ」って笑われそうな気がする。そういうのって理屈じゃないんですよね。特に柴又に来ると、よけいにそう感じる。ここでは寅さんは生きてる。だからみんな柴又に来るんだから(笑)。

柴又の景観は『男はつらいよ』の世界がそのまま残っている。今にも寅さんがひょっこり顔を出しそうな雰囲気だ。


取材・文・撮影=浅野 暁
 

浅野 暁
浅野 暁 フリーライター

週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。

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