男性介護者がとらわれる”男らしさ”の弊害「介護の正解は一つではない」

少子高齢化により近年、親を介護する男性がクローズアップされることが増えてきました。

男性介護者の特徴として「男性介護者は女性よりもケア労働が不得手」「男性介護者は孤立しがち」といったことがしばしば挙げられ、そうした男性像に合わせたサポートに資源が割かれることもあります。

しかし、その見方やアプローチは適切なのでしょうか。あるいは、当事者である「男性介護者」の救いになっているのでしょうか。

ジェンダーの視点から男性介護者について研究する平山亮氏は、「男らしさ」がときとして当事者や、支援者に本当の問題を見えにくくさせていることがあると話します。

介護者がとらわれがちな「男らしさ」の弊害は何なのか。平山亮氏にお話をお聞きしました。

今回のtayoriniなる人
平山亮(ひらやまりょう)
平山亮(ひらやまりょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員を経て、現在、大阪市立大学大学院文学研究科准教授。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房、2017年)気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。

「男らしさ」に囚われることで介護者自身が苦しむケースがある

――昨今、介護をする男性に注目が集まっています。「男性介護者」に対するサポートに力を入れる流れもありますが、こうしたアプローチは当事者の男性にとって有益なものになっているのでしょうか。

男性が男性として生きていくうえで置かれがちな状況というものはもちろんあります。ただ、それは全体的な傾向の話であって、すべての男性が一律に同じような影響を受けているかどうかはわからないですよね。

ケアの場合はとくに、個別のケースに対応して考えなければいけないことが多い領域なので、「男性」という視点にこだわりすぎると問題の本質を見失ったり、他の問題が覆い隠されてしまったりする危険性もあります。

中には「男らしさ」に囚われていることで、介護する当事者自身が苦しむケースもあります。

――具体的にはどんな事例がありますか?

私が以前、出会った男性介護者の方の中に、仕事をしながら同居しているお母様の介護をされている方がいました。仮にAさんとします。

Aさんは有名企業に勤めながら介護もしていて、苦手だった家事も克服して、終業後に急いで帰ってきて食事を作ってと、私からすると立派な介護者で、かなり献身的に介護されている印象でした。

ただ、仕事で疲れてどうしても料理をつくれず、食事を買ってくることがあると自分はダメだと落ち込んでしまうようなんです。私も「仕事で疲れていたわけですし、仕方ないんじゃないですか」などとお声掛けしたのですが、「僕が女性だったら、どんなに疲れていても簡単に料理をつくれるはずだ」と言うんですね。

――疲れて料理をつくれないことはもちろん、料理自体が苦手な女性もたくさんいますよね。

そうなんです。「女性は家事経験を積んでいるから料理や家事をそつなくこなせるはず」という考え方はあくまでAさんの中の「女らしさ」であって必ずしも事実ではないにもかかわらず、「男は女性と違って料理ができない」から派生して「男である自分は無力だ」と自分を追い込んでしまっているんですね。

「男らしさ」「女らしさ」や「男性であること」にこだわりすぎると、介護者自身も追い込むこともあるのです。

同じ「男らしさ」を共有していても同じ行動になるとは限らない

――では、「女性は家事経験を積んでいるから料理が得意なはず」という前提を共有している男性は、Aさんのように自分を追い込んでしまう傾向がある、ということでしょうか。

そうとは言い切れません。同じ前提を共有していても、行動の出方も真逆になるケースもあるからです。

私が出会った別の男性介護者Bさんも、Aさん同様に親御さんと同居しながら介護していました。ただ、家の中は散らかっていて足の踏み場がなく、どこまでがシンクなのかわからないくらいにお皿が積み上がっている。食事はいつも買ってきていて、つくったとしてもうどんかチャーハンなど栄養の偏りがあるものばかりと、Aさんとは対照的な方でした。

しかも、Bさんは心からのんびりしていて、それらを問題だと思っている雰囲気が全くないんですね。私も「困っていることはないか」とか「こうしたいなと思うことはないか」という訊き方で改善するポイントがないかどうかを尋ねてみたのですが、その中で何度か「だって男だもん」と話されていたのが気になりました。

これは「男なんて女の人ほど家事もできないし、清潔感もない。それなのに、これだけやっているのだから合格点だ」と現状に満足しているということですよね。AさんとBさんは一見対照的で、全く別のケースに見えますが、実は「男は家事ができない」「女性は家事ができて当たり前」という前提が共通しているんです。

――同じ前提を共有しているのに、行動にここまで違いが出ることもあるんですね。

そうなんです。だから、一定の「男らしさ」「女らしさ」を身に着けていると、ケースが同じになるだろうという一律解釈をしない、という姿勢が大切です。

支援者が「男らしさ」に囚われることでリスクが見逃されるケースも

――「男性とはこうあるもの」という見方をしてしまうことによる弊害は、ほかにもありますか?

男性が働きながらケアをしていると、周囲が大絶賛することがありますが、そのおかげで、何か問題が起きていても見過ごされてしまうケースがあります。

たとえば、介護しているお母さんの運動機能が衰えないようにと無理やり歩かせたり、認知機能を維持するためと言って、自分でドリルをつくってやらせたり。介護されている方は表情を見ると明らかに嫌そうですし、そもそも身体・認知機能上無理なことをやらせている。ほとんど虐待として危険視されるようなことが「あの息子さんは一生懸命だから」と「愛情の現れ」としてスルーされてしまうことがあります。

――たとえばこれが、部屋が荒れ果てているなど、ネグレクトが疑われる家庭で起こったことであれば、すぐに問題視されそうです。

そうですよね。もちろん、「素晴らしい息子」の全員が虐待すれすれの介護を行っているというわけではありません。ただ、素晴らしく見えているからこそ、何か見落としていないかにまで気を配ることが大切だと思います。

また、虐待自体は介護者が男性でも女性でも起こり得ますが、「立派な息子」という存在が問題を覆い隠してしまうことは男性介護者特有の現象と言ってよいと思います。男性が働きながら“妻に任せず”介護をして褒められることはあっても、女性が働きながら子育てしたり、介護したりしても「働きながらケアもしてすごい!」とは言われませんからね。

先ほど紹介した例は「男性介護者」に注目しすぎることで、被介護者への虐待が覆い隠されるケースでしたが、女性が抱える苦しみを見えにくくするケースもあります。

――具体的に教えていただけますか?

たとえば「男性は助けを求めにくいがゆえに孤立しがち」とよく言われますよね。

でも、ジェロントロジー(老年学)の研究では、家族介護者の社会的なサポートのありつき方に関する男女差はそれほどないと言われています。男性の誰もかれもが孤立しやすいわけでもないし、女性の誰もかれもが孤立しにくいわけでもない。にもかかわらず、「男性のほうが孤立しやすいんだ」という考えが先行してしまうと、サポートの資源が男性に傾いていってしまう危険性があります。

私も介護者支援をする方から「男性介護者のサポートグループに人が集まらない」という相談を受けることがあるのですが、そうしたときは「女性の方はサポートグループにたくさん参加されていますか?」と訊いています。女性介護者がサポートグループに殺到するわけではないことを考えると、男性介護者がサポートグループに来ない理由は「男性だから」では必ずしもないことがわかります。

――確かに「男性が孤立しやすい」と言われ続けると、「女性は孤立しにくい」という錯覚を起こしてしまいそうになりますね。

また、男性の孤立しやすさと女性の孤立しやすさは、意味合いが少し違います。女性の場合は「女性はケアが得意」という前提がある中で「ケアがうまくできない」と助けを求めなければいけない。つまり「自分が女性としてあるべき能力を満たせていない」ということをアピールしなければいけないことがつらくて言い出せない、という人もいるでしょう。

このようにジェンダーと性別による困りごとは関連していることも多いのですが、一定の「男らしさ」「女らしさ」に当てはめて考えてしまうと、問題の本質を見誤ることもあるので、注意が必要なのです。

「こうすべき」というゴールドスタンダード以外にも選択肢はある

――それにしても、どうして私たちは介護において「男らしさ」「女らしさ」に囚われてしまうのでしょうか。

私たちって規範というレンズを通さないと物事を捉えられないと思うんです。だから、何かのレンズを通して一定の見方をしてしまうことが、ダメだということではない。

とくに、育児や介護といったケアは、失敗したら人の命にかかわることなのに正解がわからない領域ですよね。「これで本当にいいのかしら」と迷いながらやるものなので、「どこかにたった一つの正解があるはず」と、ゴールドスタンダードを求めるのは当たり前だと思います。

ただ、「スタンダード」から外れた”例外”だと感じると、何を信じたらいいのか分からなくなってしまう。私がお会いした男性介護者の方にも、認知症のお母さんに対して「これをすれば暴れなくなるはず」とお手本となるケアの仕方を信じてやっていた方がいましたが、うまくいかなかったときの絶望感の大きさはかなりのものだったようです。

「男性介護者はこうすべきだ」と、男性介護者が介護をしやすくなるようにという目的でつくられる本やノウハウ記事も、フィットする人にとっては救いになりますが、そうでない人もいるという意味では功罪があると思います。

――具体的にはどのように行動したらよいでしょう?

いろいろなケースに触れて、その中から自分の役に立ちそうなことを探したほうがつらい思いをすることは少ないんじゃないかなと思います。自分の本の話で恐縮ですが、『迫りくる息子介護の時代 28人の現場から』(光文社新書)という本を書いたときは、何か特定の男性像を示すのではなくて、なるべく多様なケースを取り上げることを意識しました。ゴールドスタンダードとされるものは、多くのケースを元にして導かれているのでうまくいくことも多いのですが、そうでないこともあるので。

――ゴールドスタンダード以外の選択肢があることさえ知らずにいる人が多そうですよね。

そうですね。「『名もなき家事』の、その先へ」という山根純佳さんとの連載では、介護には正解がないからこそ一緒に考えてくれる人を探すことが大切だという話もしました。いくら知識を得ても正解がないわけだから、「これでいいかわからないけど、こうするしかないよね」と話せる相手がいることのほうが重要なんじゃないかと。

――介護者を支援する立場の人ができることはありますか?

これは介護する当事者にも通じる話ですが、意見が合っている少数の人だけで状態を見ないことですね。たとえば「男の人ってこうだよね」と同じ見方をする人が集まると、同じ見方しかできず、それ以外の可能性が見えなくなってしまいますよね。

私たちは満場一致で答えが出ることがいいことのように思っているのですが、それは問題や原因を見落としたり見誤ったりする点では、ときどき危険なことにもなり得ます。最終的には答えをひとつにしなくてはいけないのですが、揉めることを恐れずに、いろいろな人がニーズや状況を判断する視点を持ち寄る機会があるのはすごくいいことだと思います。


介護は個別のケースに対応して考えなければいけないことが多い領域である一方で、人の命にかかわることであるがゆえに「男性介護者によくある」「唯一の正解」を求めたくなる領域でもあります。本や記事に書かれた通りの介護をして、想定とは違ったときに大きな絶望を抱くというお話を聞いて、「男性介護者向け」などと属性を限定することに、情報を発信する側はもう少し慎重になってもいいのかもしれないと感じました。

想定とは違うことによるダメージを少しでも軽減できるよう、さまざまなケースに触れたり、一緒に考えてくれる人を探したりと、より多くの選択肢を知ってもらう。本記事がそのきっかけになれたら幸いです。


 

佐々木ののか
佐々木ののか

文筆業。「家族と性愛」を軸に取材記事やエッセイの執筆を行うほか、最近は「死とケア」「人間以外の生物との共生」といったテーマにも関心が広がっている。文筆業のほか、洋服の制作や演劇・映画のアフタートーク登壇など、ジャンルを越境して自由に活動中。

Twitter@sasakinonokanote佐々木ののか 佐々木ののかさんの記事をもっとみる

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