長い間、介護は家族がすべきものとされてきました。それは制度を含む助けがとにかくなく、「何かあっても家族の責任」という考え方が当然だとされてきたからです。そうした時代を経て近年では、まだまだ十分ではないにせよ、介護に関する制度やサービスも少しずつ整備されてきました。
にもかかわらず、現代でも介護家族は介護の負担や苦労を抱え込みがちです。
身体的、精神的な限界が来るまで家族で介護し、専門職の力を借りられたとしても「このケアで合っているのか」「施設へ入居させてよかったのか」と思い悩む介護家族は少なくありません。
また、サービスを利用しても施設への訪問や、ケアの専門家へのサービス内容申し立てを含めた介護は継続して担っており、その負担は決して軽くはありません。
家族はなぜ介護をしてしまうのでしょうか。家族にのしかかる負担を減らす方法はないのでしょうか。
そうした問いにひとつの答えを与えてくれるのが、『家族はなぜ介護してしまうのか』(世界思想社)です。
本書は、様々な家族介護者のインタビュー調査で得たエピソードと社会学的な分析を介護の進行になぞらえながら紹介する社会学の専門書で、プロの社会学者はもちろん、「家族が認知症だと気付けなかった」「家族が施設に入ったが、これからどんなかかわりがもてるだろうか」といった介護家族の悩みにも答えるような構成になっています。
同書の著者で、高齢者介護における社会規範を研究する木下衆(きのしたしゅう)さんに、家族が介護してしまう理由や、家族介護の困難や負担を減らす可能性について、改めてお話を聞きました。
――介護制度・サービスが整ってきた中でも、多くの家族の方が何かしらの形で認知症介護に携わっているのは、なぜでしょうか。
「新しい認知症ケア時代だからこそ、家族は介護してしまうんだ」というのが、ひとつの答えです。「新しい認知症ケア」とは、単純に言えば、できるだけ認知症の人の「その人らしさ」を尊重しましょう、という介護の理念です。
ただ、介護の専門職も、医師も、患者さんが認知症になってからお付き合いがスタートすることがほとんどです。つまり、「その人らしさ」がわからない。では、誰が知っているんだろうとなったとき、家族が頼りにされてしまう。
家族は、「奥さんはどんな歌が好きでしたか?」という日常的な事柄から、延命治療などのシリアスな問題まで、認知症の人について知っていることを聞かれたり、介護の方針について意見を求められたりする。そんな経験を重ねていくなかで、「この人について、やっぱり私(たち)しか知らないことがある」と、家族自身も責任をどんどん抱え込んでしまうわけです。
――家族の方が、認知症の人の「その人らしさ」を大切にしようと思うようになったからこそ出てきた新しい問題、ということですね。
ただ、誤解しないでいただきたいのは、「その人らしさ」を尊重するようになった新しい認知症ケアの流れが悪い、ということではありません。「その人の症状がどれだけ進行しても、その人らしい生活を全うしてもらいたい」と考えることは良いことですよね。
そしてこの問題は、介護保険制度ができ、介護に関わる多様な専門職が身近になったからこそ生じた、とも言えます。現在の家族介護には、介護保険制度のもと、多様な専門職が関わるのが普通です。つまり家族には、自分とケアを比較する相手ができた。比較対象がいなかったら、「私のほうが」とは思わないわけです。
私は高齢者介護を家族が担うべき、とは思いません。私の調査に協力してくれた家族も、介護保険を最大限利用しようとしています。にもかかわらず、介護を担い、しかも悩んでいる家族が存在するのは、認知症の人の「その人らしさ」を大切にしようとした、ひとつの、そして思わぬ結果だと言えると思います。
――現状では、患者について「家族しかわからないこと」が家族の負担感を大きくしてしまっているわけですね。
ただ、家族のすべてを把握しておくのはそもそも無理です。
家族と言っても、結婚する前のその人を知っているきょうだいと、結婚後にその人を知っている配偶者とでは当然違いもあります。あるいは、子どもに見せていた姿と配偶者に見せていた姿が違う、ということもあるでしょう。
だからこそ、介護を通じてかかわりを持てば持つほど、「私はこの人を理解できていたんだろうか」と思い悩んでしまう。
――どんなに結びつきが強い家族であってもすべてを知ることはできない、ということですね。
さらに、認知症の人が過去にどんな出来事を経験したか知っていたとしても、本人がそれを人生の中でどう意味づけていたか、というのは本人にしかわかりません。あるいは、本人にもわからないかもしれない。
本の中では、認知症の患者さんが長男の話に反応せず、「わかりませんね」「子どもは一人ですけど」と話す事例を取り上げました。この事例では、彼女が認知症になる前、親族間で訴訟が起きているんですよね。だから、長男に対して嫌な思い出を持っているのか、本当に忘れてしまっているのか、家族からみてもわからない。ご本人にとっても、割り切れるものではなかったかもしれないですしね。
こんなケースもありました。妻を在宅で長年介護していた夫が、妻に胃ろうを造設するか、判断を委ねられたときの話です。夫は胃ろう造設を決断し、妻はその後数年間、在宅で介護を受け、亡くなりました。ところが夫は、「介護者の私が長く生きてほしいと望むことは、本人の意思とは離れたところにあって、本人の意思がわからないままの胃ろう造設ではなかったのか」と思い悩みます。妻が亡くなった後もです。
なぜ、こんな悩みが生じるのか? 胃ろう造設は、日本では2000年ごろから普及したとされています。ところが、妻が認知症を発症したのは、1994年頃でした。つまり彼女が元気だったころ、そんな技術はなかったのです。だから、夫が過去をいくら遡っても、「妻の胃ろうについての考え」が分からない。しかも今は、意思疎通が難しい状況になっている。
どちらのケースでも、家族は認知症の人の思いがわからないことに、罪悪感を覚える。でも、相手の思いを辿れないのは、家族が悪人だからでも、勉強不足だからでもない。「相手のその人らしさを尊重したい」「できるだけ良いケアを提供したい」と願う中で、だからこそ、相手の思いが「わからない」という限界に直面してしまう。
――でも、すべての出来事について自分がどう思っていたかを共有し合うのは無理ですし、不自然ですよね。
家族のすべてを知らなくて当たり前です。「家族にすべてを曝け出して生きる」なんて、仰るとおり、「不自然な家族」とも言えます。
――「家族のすべてを知らなくて当たり前」と聞くと、安心する方は多そうですね。
ところが、認知症の早期発見ができなかったり、患者の意思をうまく汲めないことがあったりしたとき、「それまでの家族関係があまり良くなかったんじゃないか」とか、「仕事ばかりしていて家族に向き合えていなかったことが関係しているんじゃないか」と、後悔される方もいます。
認知症発症を機に、「家族とはこうあるべきだ」という社会規範を意識してしまい「自分たちはおかしい家族だったんじゃないか」と捉え直してしまうわけです。
現在、政策的に「早期発見や予防が大切」と言われていることも、家族が悩む要因のひとつになり得ます。それは「早くから対応すれば、改善の余地があるよ」という希望を込めた意味合いのはずなんですが、「早く発見してあげられなかった」とかえってご自身を責めるメッセージとして受け取ってしまう人もいる。
たとえば、「今から思えばおかしかった場面」として、「母は家計簿を完璧につけていたのに、計算が合わない日が出てきた」という例を挙げてくれた人がいました。それは、すごく些細な変化です。そして、生活の中の些細な変化は、至るところにあります。こうして家族は「今から思えばおかしかった場面」を、いつまででも遡れてしまいます。
だからこそ、介護家族に対しては「気づけなかったのは、あなたのせいじゃない」ということを、ずっと言い続けなければいけないと思います。
――新しい認知症ケアの視点に立って「その人らしさ」を尊重しようとすると、家族が思い悩んでしまう。この葛藤は葛藤として受け入れるしかないのでしょうか。
そもそも、悩むことは悪いことではないと思います。症状がどれだけ進行しても「その人らしさ」を尊重しよう、とすれば、悩みは必ず出てきてしまうわけですから。「この人たちには生産性がないから」「どうせ何も思ってないから」と言ってサポートしない社会に比べると、葛藤のある社会の方が良いと思います。
ただ、「その人らしさ」を尊重しながらも、家族の負担を減らす余地はあります。例えば、介護に関わる専門職には、「家族が認知症だと早く気づけなかったとしても、家族の全てを知らなかったとしても、あなたのせいではない」と伝える役割も担ってほしいと思います。
認知症の人の「その人らしさ」を尊重するというのは、徹底して個人に注目したケアのあり方です。だから、「こうすれば解決できる」という万能な方法はありません。だからこそ、多様な立場の人が、みんなで支えることが大切なんじゃないかと思っています。
――社会全体でご家族の介護の負担を減らす、ということでしょうか。
社会のあり方次第では、家族が「私がいないとダメだ」と思ってしまう機会も減らせると思っています。
そのために大切だと思うことが、二つあります。一つは、介護のイメージを社会的にふくらませること。介護は、身体的なものだけではありません。介護には、「その人らしさを記録すること」や「その人の日常生活をよく見ること」も含まれるはずです。認知症の人がどんな生き方をしてきたか情報を集めてくれる人や、その人が今どんな暮らしをしているかを見守る人が、周囲にたくさんいたら、家族の不安は減るはずです。介護専門職には、そうしたニーズもあると思います。
もう一つが、私たちの社会で「認知症になっても、その人は個人として尊重されるべきなんだ」という価値観が徹底されることです。そうした価値観のもと、多様な人たちが、認知症の人のその人らしさを尊重しながら、最後の瞬間まで本人とコミュニケーションを試みてくれる。そう信頼できれば、家族も安心して、認知症の人と共に暮らすことも、離れて暮らすことも、選べるようになるはずです。あるいは、認知症の人を残して、安心して死んでいけるはずです。
介護保険制度も、「認知症になっても一人で生きていけるんだ、大丈夫なんだ」と、誰もが安心できる制度を目指していくべきだと思います。
――認知症の人をみんなで支える仕組みを目指せば、認知症の人も、その家族も、これから認知症になるかもしれない人も、安心して生きていけるようになる、ということですね。
そのためにも、まず大切にされるべきは認知症の人本人なのだということ。認知症の人本人主体で考えることが、結果的には家族の負担も減らすはずです。
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家族はなぜ介護してしまうのかと疑問に思っていたとき、「家族が介護すべき」という規範や制度の不備など、家族に介護が“押し付けられている”のではないかと思っていました。
しかし、その背景には「その人らしさ」を大切にして、最期までコミュニケーションがとれる人として接しようとする家族の気持ちもあるのだと知り、心のどこかで介護を“面倒ごと”と捉えてしまっていた自分を省みることにもなりました。
「その人らしさ」を大切にしようとすることは、認知症の方にも、そのご家族にとっても安心できることでしょう。それだけでなく、認知症になる可能性がある人-社会に生きるすべての人―にとっても安心できることだと、私は思います。
文筆業。「家族と性愛」を軸に取材記事やエッセイの執筆を行うほか、最近は「死とケア」「人間以外の生物との共生」といったテーマにも関心が広がっている。文筆業のほか、洋服の制作や演劇・映画のアフタートーク登壇など、ジャンルを越境して自由に活動中。
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