離れて暮らす70代の両親の介護が、ある日いきなり現実に。困り事だらけの中、本当にやるべきこととは?

親が高齢になってきたとしても、本人がまだ元気なうちは、近い将来必要になるかもしれない「介護」の問題について、なかなか実感がわかないのではないでしょうか。

ブロガーのいぬじんさんは、共働きで小中学生2人の子どもを育てながら、実家で暮らす70代の両親の様子を見守ってきました。

数年前から自分たちで積極的に終活に取り組む両親の様子を見て安心していたそうですが、あるきっかけで状況が一変。仕事をしながら子どもと親両方の面倒を見るという「ダブルケア」の必要に迫られました。

「親の介護」問題が突然現実となった中で見えてきた「大変な時だからこそ大事にしたいこと」について、つづっていただきました。

親の「介護」問題が、いきなり他人事じゃなくなった

それはいきなり、やってきた。

ある日実家の母から「骨折した、しばらく入院することになった」という連絡が来たのである。その間、持病のある父が一人で家にいることになるので、父の様子をこまめに見に行ってくれないか、という話だった。

こまめというのがどのくらいなのかよく分からないが、詳しい話を聞こうとすると「あまり病院で電話を使っていると怒られるから」と言われて、通話は切れた。

自分の中で「これはどうも、今までとはちょっと違う面倒なことが起こったようだぞ」というとまどいと「しかしあまり動揺しても良い結果にならない気がするぞ」という両方の思いがめぐった。

結論から先に言えば、その予感は両方とも正しかった。

その後、母はリハビリも含めて何週間も入院することになり、この文章を書いている今もまだ退院していない。

さらには、その間家に1人で残されている父の状態がけっして良いものではなく、本人がかなり悩んでいるということも分かった。

こういうことは、両親にとってもぼくにとっても初めてだ。

ほんの数カ月前まで、自分たちの終活に向けてあれこれ進めている両親の様子を見ながら、「とはいえ、実際の介護はまだ先かな」と思っていたのだ。

そうか、ついに自分にもこういう時がやってきたんだな、と思った。

親の面倒、子育て、仕事のピーク。これがダブルケアか……

「それにしても困ったなあ」というのが最初の感想だ。共働きで、まだまだ子育て中のわが家は、平日に他の人の面倒を見るような余裕はない。

妻は早朝から子どもの弁当を作ってそのまま仕事に出かけないといけないし、ぼくはこのところ仕事が異常に忙しく、おまけに出張も増えたので、日中は父に電話をかけることすら難しかったりする。仕事を一定片付けて、そこから夕食を終えるまではとにかくバタバタだ。

そのあとゆっくりしたいのは山々なのだが、放っておくと子どもたちは何時になっても寝ないので、テレビも電気も消して寝かしつける。

疲れ切った妻も、その頃には気を失ったように寝てしまう。ぼくはみんなが寝静まってから、残った仕事を片付ける。とても父の様子を見に行く余裕なんてない。

それに、最近の父は携帯電話の操作に手間取ることがあり、電話をかけても出ないことがある。たとえ出ることができても、体調がよくないときは話す内容が聞き取りづらく、会話にかなり時間がかかることもある。そうなると空いた時間でちょっと電話しようかな……という気持ちになりづらく、つい後回しにしてしまうこともあった。

それと同じか、それ以上に厄介なのは母からの連絡だ。内容がコロコロ変わるのである。

急に何かを持ってくるように言ってきたかと思えば、やっぱりいらないとか、やっぱり持ってきてくれとか、思いつきで連絡をしてくる。

こちらは忙しい中で、困っているだろうからと思って無理をして対応しているので、腹が立つ。なぜ腹が立つかというと、頼み事の内容がどう考えてもそれほど重要なことじゃないし、急ぐ話でもないからだ。

そんなもの今はなくても困らないだろうと思いながらも準備をしていたら、もういらないと言われ、頭に血が上る。一人で入院している心細さやストレスを解消したくて頼ってきているのだろうけど、そういうことに付き合う心の余裕がいつでもあるわけではない。

そうこうしているうちに、ぼくの仕事はこれまでにないほど忙しくなってきた。

こういう時は経験上、気をつけないといけない。子どもたちの中で何かあまり良くない変化が起きていることを見逃す場合があるからだ。

そうならないためには、できるだけ子どもたちと一緒にいて話を聞き、様子を気にかける必要がある。しかしこっちもトシだから、常に神経を研ぎ澄まして、注意深く観察してもいられなくなってきた。

親のことは心配だが、子どものことも当然おろそかにはできない。これが世に聞く「ダブルケア」の始まりか…と思った。

大変な時だからこそ、必要なのは「視野の広さ」かもしれない

大変な状況に振り回される中で、だんだんと「これは始まりにすぎないし、焦っても仕方がない」とも思うようになった。

ここから急に、父や母の状態が回復することは難しいだろう。人間は誰でも年老いて、弱って、いずれはいなくなるのである。

おまけにこちらはまだまだ子育て中で、仕事はわけが分からないほど忙しい。

しかし今焦って走り回ったところで、状況はたいして変わらないのだ。

ぼくがそんなふうに冷静さを取り戻すことができたのは、妻のおかげが大きい。妻は週末には少し多めに夕食を作って父の分を用意してくれたり、ぼくが出張している間は、その夕食を子どもたちに届けさせたりして、父の様子を気遣ってくれた。

そのたびに妻は「平日は何もできないし、週末の差し入れも気まぐれでやっているだけだから」と言う。

気まぐれというのは彼女流の言い回しで、要は「いつもいつもそんなことができるわけじゃないし、思いつきでやっていることだから、気を使わないでくださいね」という意味だ。

そうだな、そういうことでいいんだな、と思った。

母から連絡をもらってすぐの頃のぼくは、「普段あんまり親孝行できていないなあ」といううしろめたい気持ちから、つい目の前の要望に応えることで何とかしようと思っていた。

でも、ぼくらは精一杯生きているし、できることはやっている。だから何もうしろめたいと思うことはないのである。

幸い日本の医療体制にはまだ余裕があり、母をリハビリが終わるまで入院させることもできるし、そこでの生活で必要なものは全部そろっている。父もまだまだ自分のことは自分でできているし、そこに下手に介入して自立を妨げる必要もない。

ただまあ、母も父もそれぞれ寂しいだろうから、余裕があるときは様子を見に行って、少し話をすればいい。そういうふうに思えるようになった。

こちらがそうやって落ち着きを取り戻したあたりから、母からの連絡も減った。向こうもようやく冷静になったのだろう。

とにかく、こういう時は、慌ててはいけない。困ったときほど落ち着いて、あたりを見回し、視野を広くすることが大事なのである。

親の老後と向き合う上で大切なことは、仕事や子育てで身についている

そんなふうに思えるようになったことで、父に会いに行くのも、母と連絡を取るのも、今はそれほど面倒だとは感じなくなってきた。

リモートワークができる日には、実家に行って父の様子を見ながら自分の仕事をしたり、外出のついでに母から頼まれていた買い物をしたりする。母のリハビリも順調のようだ。

まあ退院した後も、これまでのようにはいかないだろう。しかし、そうやって事態は変わり続けるし、それを受け入れながら、こちらも変わり続けていけばいい。

今回のことで、いやあ、やっぱり視野の広さって大事だなあと思った。

そして視野の広さというのは、実はこれまでの日々の生活の中でちゃんと養われていて、今回のようないざという時に役立つのだ。

まずは仕事

仕事ではトラブルがしょっちゅう起こるが、いちいち焦っていても仕方ない。仕事においては、目の前で起きていることと、全体で起きていることを、両方見るクセがついている。

それから子育てだ。

子どもが小さい頃は、熱を出したり、保育園でトラブルを起こしたりするたびに、焦ってばかりいた。でも、焦ったところですぐに対処できることは限られている。

本当になんとかしたいことがある場合は、急ごしらえではなく、腰をすえてじっくりと向き合うことが大事だ。そういうことが分かってきたので、最近はようやく落ち着いて、広い目、長い目で子どもの成長を見守ることができるようになった気がする。もちろんまだまだダメだなあと思うことはたくさんあるけれど……。

あとはコロナ禍だ。

あの経験の中で、ぼくは他の多くの人たちと同じように「答えがすぐに出ないこと」「簡単に解決できないこと」に向き合う力がついたと思う。

そういうとき、どうすればいいか? それは「待つ」ことである。

先日、能登半島地震の支援に行った方から「待つのも仕事」という言葉を教わった。

支援に行くと、みんな初めは、今すぐ助けたい! 役立ちたい! という気持ちで焦っている。でも、まだ自分たちが役に立てる状況ではない場合、実際に復興のために必要なのは「自分たちの支援が必要な場面が来るまでじっくりと待つ」という態度なのではないか、という話だった。

待つのも仕事。それは今のぼくには、すごくしっくりとくる言葉だった。すぐに解決しないのも仕事。答えの出ないことに向き合い続けるのも仕事。

ここでの「仕事」は「人生」と置き換えても、きっと同じだろう。

「スッキリしない時代をじっくり生きる」ための入門編かもしれない

さて、そんなわけで心がまえは少しできたけれども、解決すべき問題は多くあって、なんともスッキリしない感じで日々を暮らしている。

それと同時に、こういった経験を通して、両親からはまだまだ学ぶことがあるんだなあと感じる。

さあいよいよ仕事が面白くなってきたぞという時期に子育てが始まって寝不足の日々が続き、ちょっとは眠れるようになってきたかな、という頃に、そのまま親の介護に突入だなんて、おお、なんて不自由な人生なんだ……と思う。

でも、なんて学びのある人生なんだろう、とも思うのだ。

これからの世の中はもっと複雑になり、もっと答えが出ない難しい問題が、ぼくたちの前に立ちはだかるのだろう。でも、そういう「解けない問題」だらけの世界を生きていくための知恵と心構えを、いま学んでいるんだと思うと、面白いなあと感じる。

スッキリしない時代をじっくり生きる。

介護の問題は、そのための入門編なのかもしれない。

編集:はてな編集部

イラスト:caco

いぬじん
いぬじん

犬のサラリーマン/共働き研究家。中年にビミョーにさしかかり、いろいろと人生に迷っていたころに、はてなブログ「犬だって言いたいことがあるのだ。」を書きはじめる。言いたいことをあれこれ書いていくことで、新しい発見や素敵な出会いがあり、自分の進むべき道が見えるようになってきた。今は立派に中年を楽しんでいる。妻と共働き、小学生と保育園児の子どもがいる。コーヒーをよく、こぼす。

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