かつてお笑い芸人の晩年は寂しいものだった。
それをよく示したのが、演劇研究者・笹山敬輔の『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫、2016年刊行)だ。榎本健一、古川ロッパ、横山エンタツ、トニー谷ら、昭和初期から中期あたりに一世を風靡(ふうび)した芸人たちの晩年を丹念に調べ、描いたものだ。それぞれ多額の借金、病気、家族との不和などに苦しめられ、華やかな全盛期とは対象的な晩年を送っている。
翻って、現在のお笑い芸人はどうだろう。
平成になってお笑い芸人の主戦場がテレビとなり、芸人を取り巻く状況は大きく変わった。また、テレビ自体も次第に「安定」「安心感」を求められるようになり、若く新しいものよりも、よく知られた人たちが好まれるようになった。
このことで、テレビに出ているタレントの高齢化が加速度的に広がっていった。結果、よく若手芸人たちが「上があかない」と嘆く状況になったのだ。
明石家さんまはその状況を危惧してか、2011年放送の『さんまのまんま』(フジテレビ系列)で、千原ジュニアから引退について質問された際に「(テレビを引退する年齢は)60歳くらいって決めてる」「年取った芸人がいつまでも出ていたら、テレビが面白くなくなる」と答え大きな話題になった。
だがその後、爆笑問題の太田光から「辞めてもいいけど、落ちてって辞めてください。(『あいつ、もう面白くない』と)見せてから辞めるのが、若手に対する礼儀ですよ!」と反論され、気持ちが変わったのか、60歳を超えた現在もテレビの中心に立ち続けている。
ビートたけしにしても、所ジョージ、タモリ、笑福亭鶴瓶にしても、60~70歳を超えてなお、元気だ。彼らは「老い」に対して、あるいは「死」について、どのように考えているのだろうか。彼らの発言を元に見ていきたい。
「男が老いと付き合っていくということ――それはちょっとカッコつけて言えば、必ずやってくる『さみしさ』とどう向き合うか、ということなんだと思う」
ビートたけしは、自著『「さみしさ」の研究』(小学館新書、2018年刊行)で、このようにつづっている。
本書は、老いと孤独をテーマにした本が続々とべストセラーになっている昨今の状況を踏まえて書かれたものだ。その手の本には「孤独は己と向き合い、成熟させるチャンスだ」とか「家族や友人に囲まれた生活が幸せとは限らない」といった、老後のさみしさを肯定する言葉が並んでいる。
けれどそれを盲信するのはどうか、とたけしは言う。なぜなら、「人間はどんなに頑張ったって『他人から認められたい』という承認欲求を完全には捨て去れない」からだ。70歳を超えたたけしでも、「客からウケる」という快感に勝るものはないという。
「その先に『他人にウケたい』って目的があるから、孤独な作業にも耐えられるし、楽しくなる」と、たけしは語る。金や名誉などは後からついてきたもので、まずは「ウケたい」「評価されたい」という気持ちが先にある。
だからこそ、いまだに「ほぼ単独ライブ」を精力的に行うし、落語にも挑戦する。小説まで書く。それには「孤独」な作業が不可欠だ。そういったことは、何もお笑い芸人に限った話ではないだろう。「ウケる」という言葉は、その人が大切にしている別の何かに置き換えられるはずだ。
何らかのモチベーションがあるから、人は「孤独」に耐えることができる。たけしは「ただ闇雲に『孤独』をありがたがるから、話がおかしなことになる。完全に独りでいてもさみしくないなんて、どんな悟りを開いたって無理」と語る。さらには、「素晴らしい余生」などというのは幻想だと断言する。
「真実は逆だよ。人生は、年齢を重ねるほどつまらなく不自由になっていく。夢のように輝かしい老後なんてない――。それこそが真理だ。老いるっていうことは、想像してる以上に残酷だ。まず、それを受け入れることから始めないと」
(『さみしさの研究』)
たけしは1994年、47歳の時にバイク事故に遭い、九死に一生を得た。その時から、たけしの人生観や死生観が大きく変わった。今でも「オイラはあの事故で昏睡状態になっちまって、それから後の人生は夢を見ているだけなんじゃないか」と思うことがあるという。事故で一度は死んだようなもので、「もらった命」という意識がある。だから「死の間際でバタバタするのはイヤ」だと。
人間は生まれて必ず死ぬ。そのことに過剰な意味を持たせてはいけないというのが、たけしの考えだ。たけしは死への恐怖について、「普通、人が死ぬのが怖いと考えるのは、いわゆる『現世』への未練から死をさみしく思ったり、誰も教えてくれない『死後の世界』に対する不安みたいなものがあるからだろう」と考察する。
たけし自身も「死んだらどうなるか」と考えることはよくあるという。だが、それは「怖い」というより「楽しみ」という感覚に近いのだという。
「死んだら物理とか化学では分からないことが分かるような世界に連れてってくれるのか、と思うとワクワクする気分すらある。 宇宙とか人間とか神とか、生きてるうちに説明つかなかったことが、死んだ瞬間に『あ、こういうことか』ってわかるんじゃないかって。まァ、そういう風に『死ぬ楽しみ』みたいなものを想像することで、死ぬことに保険を掛けてるってところはある」
(『さみしさの研究』)
「生きているだけで丸儲け」というのは、明石家さんまの有名な座右の銘だ。しかしその座右の銘を「ワクワクして死にたい」に変えたと、さんまは2017年に吉田豪によるインタビュー動画「人間、明石家さんま。」(Netflix)で語っている。
ワクワクしながら死ねたら一番いいというのは、たけしとも近い考えだ。「おい、死ってどんなやねん、って思う脳に早く切り替えたい」と話すさんまだが、まだ「(自分の)人間力では無理」と自嘲する。
いつかやってくる自分の「死」に対しては、「いざとなったときどうなるか、俺も不安。怖いのは事実」と漏らす。一方で、「『死』があるのが脳で分かってるからこうして喋ったり、女の子とデートしたりするんだろうと思う」とも語る。
「死」があるから、人間は頑張れる。さんまにとって「死」がない人生なんて面白くないのだ。
その上でさんまは、少しでも若くありたいと「あがく」。年を取るにつれ「花鳥風月」に興味を持ち始めることや、過去を振り返りたがることを拒否する。
「風流を受け入れてそこでかっこよく生きてる人もいるんやろうけど、俺はそれは嫌。いつまでも戦っていたい」
「できる限り野原に咲く花は踏みつけよう、鳥を見たら石投げよう、って心がけてる(笑)」
(「人間、明石家さんま。」)
「死」にまで好奇心を持つことができたら「勝ち」なのだと、さんまは「クアー」と笑いながら言うのだ。
「毎日幸せですよ。朝、目が覚めた時点で幸せだもん。目が覚めたわ、みたいな」
(TBS系列『A-Studio』2014年10月17日)
そう言って、所ジョージは「今が一番面白い」と胸を張る。だからといって、20歳の頃が面白くなかったわけではない。
「20歳くらいの時も面白かったんだけど、今はもっと面白い。20歳の時は10歳の時よりもうんと面白い。年々更新していく。じゃなきゃ生きてる意味ねーじゃん。『昔は良かったな』なんて言ってたらもうやめたほうがいいよ」
(テレビ朝日系列『ももクロChan』2014年12月9日)
若い頃のように体が動かなくなってつまらなくなるどころか、年を取れば取るほど面白い。なぜなら、年を取ると経験や知識が豊富になるからだ。くだらないことが強烈に面白くなる。大人になった方が、(何をやっても)自分に返ってくるものが強烈だと言う。
どういうふうに死にたいか、と問われると「希望はないです。希望したって希望した通りいかないじゃない」と答える。もし寝たきりになったら、と聞かれると、笑ってこう話した。
「車いす改造しますよね。面白くしてあげますよね。届かないロケット砲つけたりとかしますよ、きっと」
(TBS系列『サワコの朝』2014年11月1日)
所は軽妙洒脱で飄々(ひょうひょう)としながら、仕事場兼遊び場の「世田谷ベース」を拠点として趣味に生きている。理想的な生き方だ。一方で、それは飛び抜けた成功者だからこそできるのであって、一般人にはまったく参考にならないという意見もあるだろう。
それについて、所は「面白がれるかどうかに、お金は関係ない」「お金じゃなくて、自分に価値を見出している」と反論する。
「たとえばね、いい時計を買いたい。みんなに自慢したいから。そういう人は100万かかるわ。だけどお金がなくても遊びたい、面白がれる人は(時計の)カタログもらってきてカタログを切るわ。で、腕にセロテープで巻くわ。それで会社に行って、気が付かれたいような、ないようなって遊びをするわ。そこにはお金がかからないでしょ」
「自分に価値を持ってない人はお金かかるわ。お金の方が自分より価値があるんだって思う人は、お金に頼るだろうし。自分の方が価値があるんだって思う人は、お金関係ない。だから何でも面白い。全部が面白い。だから、(自分の)何が他の人より秀でてるかっつったら、面白がれるものを見つけやすいんだと思う」
(Eテレ『SWITCHインタビュー 達人達』2014年4月12日)
タモリは、自分が共感を寄せる人に対して「ジャズな人」という形容をよく用いていた。『ヨルタモリ』(フジテレビ系列)では、「吉原さん」という架空の人物に扮してこのように語っている。
「ジャズな人っていうのは向上心がないんだね。向上心がある人は今日が明日のためにあるんだよね。向上心がない人は今日は今日のためなんだよね」
あくまでも「今」は「今」のためにあり、「未来」のためにあるのではないという考え方だ。だから「夢があるようじゃ、人間終わりだね」とまで言う。
「(夢があると)夢が達成される前の区間はまったく意味がない、つまんない世界になる。これが向上心のある人の生き方なんだよね。悲劇的な生き方」
タモリが「反省」もしない、「目標」も立てないのは、単純な虚無主義だからではない。むしろ逆で、過去の自分を振り返ったり、将来のことを考えたりしてしまいがちな自分を嫌というほど知っているからこそ、あえてその執着を捨てたのだろう。
それは「過去」の自分にも「未来」の自分にも縛られないということだ。過去からも未来からも自由になる。それは短絡的な絶望でも、安易な全肯定でもない。悲観も楽観もせず「これでいいのだ」とありのままに受け入れ、自由に生きることこそタモリの生き方であり、それは70歳を超えた「今」も変わらない。
笑福亭鶴瓶は「生まれるのも日常、死ぬのも日常」という、桂米朝の死生観に感銘を受けている。人の死は決して特別なことではない。一日一日が代替不可能なのと同じで、誕生も死も日常の一場面にすぎない。
鶴瓶は30歳の時につづった自叙伝『哀しき紙芝居』(新興楽譜出版社、1982年刊行)でこんなふうに書いている。
「僕は時々こう思うことがある。人間は、いや、少なくとも僕は、楽しい思い出をつくるために生き、仕事をしているんじゃないかな、と。人間は生まれてくれば必ず死ななければならないし、僕だっていつかは死んでいくのだけど、臨終の間際になって、楽しい思い出ばかりが、たくさん浮かんでくるような、そんな一生を送りたい。そんな仕事をしていきたい」
だからこそ、日常をきっちり生きる。その積み重ねが「今」だ。そして、そんな自分に一番影響を与えるのは他人ではない。「自分」なのだ。
「評価はもういいんです。僕が生きている間に、みんなにいろいろなものを楽しんでもらえたらいい。死んだら、あいついろんなことしよったな、って言うてくれたらええんです。それで口幅ったいけど、生きるのも、人と接するのも、何か全てが一生懸命やった、というのが好きですね」
(新潮社『波』2010年8月号)
年を重ねてもなお、表舞台に立ち続ける彼らに共通するのは「過去を振り返らない」ということだ。常に「今」を生きている。その先にある「死」を横目に見ながらも、「今」をどのように充実させるか。どう楽しむかに命をかけている。
たけしは2019年放送の大河ドラマ『いだてん』(NHK)で、自身が敬愛する落語家・5代目古今亭志ん生を演じている。
志ん生は晩年、脳出血で倒れ、家族に止められながら、ロが回らなくても高座に上がったし、独演会までやろうとした。たけしは自著『やっぱ志ん生だな!』(フィルムアート社、2018年刊行)の中で、「体の調子が悪くたって、自分が元にいた場所で泳ぐことが一番いいし、そこでならくたばったってしょうがないと思うはず」と語る。志ん生にとっては、高座がそういう場所だったのだろう。たけしにとっては、それがテレビやライブだ。
たけしは志ん生について、自分の「老い」までも芸にしたと評している。
「自分が一番好きな場所で、恥ずかしい部分も含めてあるがままの姿をさらけ出せる。それは芸人だけに許された特権なのかもしれない。それはまるで、泳ぐのをやめると死んでしまう魚のようでもある。いわゆる良識ある人から見りゃ、愚かなことかもしれないけど、オイラはそういう生き方を選ぶし、そこに『愛嬌』のようなものを感じる」
(『さみしさの研究』)
芸の道に生きる人でなくても、「愛嬌」は老いと戦いながら生きるヒントになるのではないかと、たけしは言うのだ。
編集/はてな編集部
テレビっ子。ライター。著書に『タモリ学』(イースト・プレス)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』(文春文庫)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)、『全部やれ。日本テレビ えげつない勝ち方』(文藝春秋)など。近著に『売れるには理由がある』(太田出版)がある。
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