当事者へのインタビューから「介護離職」の具体的な事例を浮き彫りにしていく本シリーズ。今回ご登場いただいたのは、ソフトウェア開発企業の社員として多忙な中、30代で介護離職を余儀なくされ、大きく人生が変わったと話す50代男性のS.Wさんです。
わだかまりを抱えた実父の介護生活は過酷をきわめ、S.Wさんご自身も十二指腸潰瘍、そしてうつ病を発症したそう。心身を病み、仕事と介護の両立が立ち行かなくなる時、当事者はどんな思いを抱えていたのか。そして、職場にはどのような問題があったのか――。前編は、退職にいたるまでの過程についてお聞きしました。
――お父様の介護はどのようにして始まったのでしょうか?
1998年、僕が30歳のときに、父が脳卒中で倒れました。僕はシステムエンジニアで、ちょうど会社が請け負っている大規模なシステム開発が山場を迎えているときでした。
日々残業に次ぐ残業をしていて、家族から連絡をもらってもすぐに駆けつけられなかったほどです。妹からは、泣きながらなじられましたが、チームで動き、締め切りもはずせない大事な仕事に携わっていましたから、どうすることもできませんでした。
幸いなことに、父は手術によって一命はとりとめましたが、片麻痺や脳への障害など、後遺症が残りました。
当時、父母は私の住まいからかなり遠い、埼玉の外れに住んでいました。近くには妹がいるので、何とかやっているだろうと思っていたのですが、そうでもなかったのです。
ちょうど大規模システムの開発が終盤に差しかかったころ、夜遅くに母親から電話が頻繁にかかってくるようになりました。父親がリハビリを拒否している。看護師を怒鳴ったりしている――。近居の妹も、介護を拒否していたようです。
――拒否……。妹さんにはどのような思いが?
僕は小さいころからやりたくもない英語を習わされ、行きたくもない工学系の専門学校に行かされました。反論しようとすると、怒鳴り、暴力をふるい、ねじ伏せられる。家族なのに、軍隊組織のようです。反論しようにもすごい剣幕で、太刀打ちできません。弟も含め、子どもたち3人、そしてもちろん母も、父の言うなりになるしかありませんでした。
そんな父の介護をすること自体、僕ら家族がどれだけ屈折した思いなのか――。妹が離れたことも、もっともだと思えました。しかし、母ひとりで介護するのは難しい。体も精神面も疲れはてている様子が、電話からうかがえます。だからこそ、僕に助けを求めてきたのだろうと思いました。
平日はどうすることもできませんが、せめて週末は実家に戻り、僕が介護を担うことにしました。父ではなく、母をフォローしなければという思いからです。
――ご家族での介護生活が始まったのですね。家族の手のほかに、介護保険サービスなどは利用されていましたか?
当時は2000年になる少し前で、まだ介護保険制度は始まっていませんでした。ヘルパーさんとか家政婦さんを頼むことはできたのでしょうが、母も私も、そういう知識はまったくなく、だれかに頼む、という発想もありませんでした。なにしろ、ひどい暴君ですから、頼んだ人に迷惑をかけるに決まっている。あんな父を人目にさらしたくない、と言う気持ちも強く働きました。
その分、介護のストレスは家族にのしかかります。怒鳴る父、ひるむ母。まだ父も若かったので、勢いがありました。しかし、こちらも犠牲を払って週末に来ているのです。子ども時代の自分とは違いますから、父を罵倒して、力づくでリハビリに行かせたりしました。
――そうなると、平日はハードな仕事、週末はハードな介護と、身体が持ちませんね……。
まさに、そうでした。仕事面でも、大規模なシステム開発のプレッシャーは相当なものでした。年休も取れず、納期が厳しい中、父の体調が悪化したときには平日でも夜中に病院へ飛んでいき、徹夜で会社に行く日もありました。
毎週の会議ごとに仕事の進捗状況を確認するのですが、自分だけが遅れているのを見せつけられる感じでした。もちろん、なんとかしようと、努力するのです。でも、疲れているし、睡眠不足で効率がよくない。ミスもおかしてしまい、ストレスと申し訳なさがたまっていくばかりです。
実際、体調はひどいものでした。当時は、鼻血が頻繁に出ていて、仕事中に鼻血が出てきて、口を押えてトイレに駆け込んだこともありました。寝ている時に口から血があふれ出てきたときは、ティシュに吐き出しました。朝見ると、ベッドの周りが血の付いたティッシュでいっぱいになっていたこともありました。十二指腸潰瘍と慢性胃炎を併発していました。
――社内のだれかに「介護している」と言いましたか?
会社や上司には言えませんでした。結果が予想できたからです。というのも、職場は過酷なスケジュール進行の案件、いわゆるデスマーチが常で……。会社にはうつ病の患者もいましたが、チームからはずされ、重要な仕事も与えられず、退社となりました。過労死と思われるような人もいました。そのような余裕のない組織で、介護の話を言えるような空気は、まったくありませんでした。言ったとしても、理解してもらえないのも明らかでした。
そんな私を見て、親しい先輩は、”顔色が悪いよ”、”目つきが怖いと社内で言っている人がいるよ”と心配してくれました。このときは、「介護でつらいんです」と口から出かかりました。この先輩なら、わかってもらえるかもしれない――。でも、言葉を飲み込みました。
やっぱり、言えない。言ったって、父がまともになるわけではない。それに、介護をしているというのが知れ渡り、「だから仕事ができないんだ」とダメの烙印を押され、左遷されたりしたら、もっと落ち込むと思ったのです。
その分、感情を爆発させることが増えました。通勤電車で足を踏まれ「いてーなー、このやろう!」と大声で怒鳴ってしまったことがあります。不思議な話ですが、自分が怒鳴ったことに本当に驚きました。そんなこと、かつてはしたことがなかったのです。
――それだけ多くのストレスをため込んでいたということですね。そんな生活はどれだけ続いたのでしょうか?
実家との行き来をしてから半年後には、自分がうつだという自覚が出ていたんです。何をやってもうまくいかない、むなしい、だからますますうまくいかない、という悪循環でしたから。
“自己都合”で辞めました。労災が出ないとか、失業保険が少ないとか、そんなことは考える余裕もありませんでした。とにかく、ここから静かに去りたい――。最後まで、介護で離職することは、誰にも言えませんでした。
***
激務の職場と、ストレスの多い家族介護の板挟みになり、誰にも相談できず職場を離れたSさん。次回は、離職後の生活と、仕事に復帰された現在についてお伺いします。
後編はこちら
女性誌や子ども関連雑誌・書籍の執筆を長年手がけ、現在も乳児や幼児のママ向けフリーペーパーで食育の連載を担当。生涯学習2級インストラクター(栄養と料理)。近年は介護・福祉・医療関連の記事、書籍編集も数多い。社会福祉士資格を取得し、成年後見人も務める。福祉住環境コーディネーター2級。
三輪泉さんの記事をもっとみるtayoriniをフォローして
最新情報を受け取る