ヤングケアラーとは、「本来、大人が担うと想定されている家事や家族の世話を、日常的に行っている子どもや若者」を指す言葉だ。日本では、一般的に18歳未満の子どもがヤングケアラーとされる。
国が実施した「ヤングケアラーに関する調査」では、公立中学2年生の5.7%(約17人に1人)・公立の全日制高校2年生の4.1%(約24人に1人)がヤングケアラーに該当するという結果が出た。これは、1クラスに1~2人ほどのヤングケアラーがいると推測される。そして、家族のケアを日常的に担うことは、学業や友人関係に大きな影響を与える可能性がある。
社会保険労務士であり、社会福祉士でもある山本武尊(やまもと・たける/45歳)さんもまた、かつてヤングケアラーだった一人だ。今回は自身の体験を語ってもらった。
山本さんは、東京都中央区月島の風呂のない長屋に生まれ育った。2歳年上の姉と4歳年下の妹の間に産まれた待望の男児だった。母の生家に、父が一緒に暮らす7人家族。父は、カラオケボックスやディスコなどのミラーボールの制御盤を設置する電気工事士。母は、父の会社で経理として働いていた。そんな家庭環境の中で、山本さんは祖母に可愛がられて育った。
「母は19時頃に帰宅したので、学校から帰ると祖父母が迎えてくれました。祖父は、定年まで勤めあげた真面目なサラリーマンだったそうです。大正生まれで、いつも着物と草履を履いて、タバコと野球と相撲が大好きな無口な人でした。僕は、祖母の作った肉じゃがが好きでした。」
姉弟ゲンカすると、「お姉ちゃんは女の子なんだから」とひっぱたかれ、やんちゃな妹とケンカすると「お兄ちゃんなんだから」と怒られた。
「逆差別ですよね。小学生の頃は、姉の方が体も大きく、必死に対抗していました。でも、結局は僕が怒られるんですよ。だから、周囲からは物腰が柔らかくて、優しいと言われる子に育ちました。遊びはおままごとばかりでした。もし男兄弟だけの環境で育っていたら、介護・福祉の道には進まなかったのかもしれません。」
そんな暮らしに転機が訪れたのは、中学校1~2年生の頃だった。
「祖父が趣味のパチンコに出かけ、帰ってこられなくなったんです。健脚だった祖父を探し回るようになりました。」
祖父は認知症を発症し、身体機能よりも認知機能の衰えが顕著だった。タバコの灰で着物を焦がすなど、火の扱いも危うくなっていった。
「当時、僕はバスケットボール部に入っていましたが、家にいる時間が長かったんです。姉はアルバイトで忙しく、家にいることが少なく、妹は興味を持ちませんでした。僕は祖母を手伝う形で、祖父のケアをするようになりました。」
高校生になると、祖父の症状は進み、徘徊と失禁をするようになった。足も弱り、転んでケガをすることも多くなり、そのたびに、警察や救急車のお世話になるようになった。
「失禁はありましたが、おむつは嫌がって拒否しましたね。風呂がなかったので、ステテコが尿と便で汚れると、桶にお湯を入れて拭き、着替えさせました。警察からの連絡は母にいくんですが、父の仕事にも迷惑がかかると思って、できたら自分と祖母の2人で納めたかったんです。」
同時期に、祖母も身体機能が衰えていった。母と連携しながらも自分が中心となり、率先して2人のケアを担うようになった。
祖父は85才、祖母は88才で亡くなった。1990年、山本さんは祖父母の介護経験を通じて福祉制度に興味を持ち、大学は福祉系の学科に進学する。その後、2000年に介護保険制度が創設されることになる。
山本さんは総合大学の福祉系学科に進学した。当時、男性が介護・福祉職を目指すことは珍しく、クラスの生徒80人のほとんどは女性。男性は1割にも満たなかった。
「総合大学に進学したのは、就職氷河期の最後の頃に卒業する世代だったからです。 “介護・福祉職で食べていけるのか” という不安が強かったですね。」
しかし、入学してみると、授業は実務に直結しない学問重視の内容だった。思っていたものと違い、次第にモチベーションが下がっていった。
「僕が今、介護・福祉職を経て、介護業界特化型の社会保険労務士をしていると言うと、大学の同級生は驚きます。それくらい、授業に身が入らず、テニスばかりしていました。」
周りの同級生は卒業時に社会福祉士の資格試験を受験したが、山本さんはしなかった。卒論の時期になり、医療ソーシャルワーカー(MSW)についてまとめるために、高名な大学病院を訪れたが、そこで予想外の言葉を浴びせられた。
「医療ソーシャルワーカーは代々女性だからね」
幼い頃と同様に、ここでも逆差別に直面した。当時はまだ、「介護・福祉は女性の仕事」という風潮が根強かった。
最終的に、山本さんは福祉業界ではなく、教育系の会社の営業職に就くことを選んだ。
教育系の営業職に就いた山本さんだったが、仕事にやりがいを感じられず、1年で退職。その後、父のアシスタントを試みるも興味を持てず、介護・福祉への思いを再確認した。
1人暮らしをしながら安定を求め、25歳で社会福祉士を受験し、合格する。その後、大病院なら食いっぱぐれないだろうと考え、埼玉県の病院で事務当直兼MSWの求人に応募し、再就職した。
MSWとして3年勤務した後、同法人内で地域包括支援センター(以下、包括)が立ち上がるタイミングで異動になり、そこから15年間、ケースワーカーとして生活上の困難や課題を抱える個人や家族の支援に携わった。
また、居宅介護支援事業所の併設病院で、退院患者の在宅介護支援に携わる中で、病院では聞けない利用者の本音や意向を知り、その魅力に目覚めた。
包括での仕事を通じ、地域のケアマネジャーや事業所の所長たちの悩みを聞いていると、労使間の問題がとても多いことに気づいた。
「ケアマネジャーは社会的資源だと考えています。高齢者に良いサービスを提供したい気持ちは、事業者側にも従業員側にもあるはずなのに、職場の環境次第で『辞める・辞めない』という話になってしまう。そのたびに心がざわつきました。もっと職場が平和になって欲しい。だけど、そこには労使間の問題があって、解決するための知識がなかったんです。だったら勉強しようと思い、社会保険労務士を目指すことにしました。」
山本さんは、2020年に7回目の受験で社労士試験に合格。2022年に、“ケアする人をケアする”を理念とした社会保険労務士事務所「 おかげさま社労士事務所」を東京都豊島区に開業した。現在は、介護施設の人材定着支援に力を入れ、介護業界全体の発展を目指している。
現在、そしてこれから介護業界で働く人たちに向けて、山本さんはこう語る。
「僕のベクトルは、“高齢者をケアする人をケアする” ことに向いています。いまだに低賃金で介護職の人の善意が利用される“やりがい搾取” 的なところは、介護が女性中心の世界だった名残だと思います。そもそも、お金だけが目的なら介護業界にはいませんよね。介護は尊い仕事。だけど、賃金が安いのが当たり前だと思わないで欲しい。経済的に安定していなければ、心も安定しない。心が安定していなければ良いケアはできません。だからこそ僕は、経営者・労働者のどちらに対しても、利用者さんにいいサービスを提供できるよう全力でサポートします。」
介護保険制度が創設されてから25年が経過した2025年。日本の高齢化はさらに進む。介護ニーズは高まる一方で、ヤングケアラーとして幼少期を過ごした山本さんのような人々が、業界の課題に立ち向かっている。
山本さんの歩みは、個人のケア体験から始まり、やがて社会全体の仕組みを支える専門家へと成長した一つの象徴だ。
彼が目指すのは、介護業界で働く人々が、利用者に質の高いサービスを提供できる環境作り。ヤングケアラーとして家族をケアする苦労を知っているからこそ、「ケアする人をケアする」という視点が生まれたのだろう。
今、介護業界は転換期にある。賃金の低さや過重労働といった課題は根深い。しかし、山本さんのように、実体験を糧に、新たな価値を生み出そうとする人々が現れていることは、希望の光だ。彼らのような存在が、介護の未来を変える第一歩となる。
「介護業界は、もっと誇りを持てる場所になるべきです。そこに僕が貢献できれば。」と笑顔で締めくくった山本さん。その言葉には、月島の長屋で祖父母を支えた少年の純粋な想いが、今も息づいているように感じられた。
マイノリティWEBあいである広場編集長兼ライター。2023年4月に「認知症が見る世界 現役ヘルパーが描く介護現場の真実」原作者として竹書房より出版。主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。日刊SPA!で連載や週刊プレイボーイ等に寄稿している。
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