トム・ハンクス-老後に効くハリウッドスターの名言(15)

誰だって歳をとる。もちろんハリウッドスターだって。

エンタメの最前線で、人はどう“老い”と向き合うのか?

スターの生き様を追って、そのヒントを見つけ出す。

「どうして僕が成功したのか、まるで分からない」
  ――『トム・ハンクス スターダムへの軌跡』(1996年より引用)

アメリカの良心を体現し続ける男、トム・ハンクス

代表作『フォレスト・ガンプ/一期一会』の再公開に合わせて、そのユーモラスかつ実直な俳優人生を振り返る!

ハリウッドを代表する大衆の顔――異常なまでの親しみやすさを持つトム・ハンクス

普通、スターとは手が届かない存在だ。現実離れした容姿で、現実離れした大活躍をスクリーンで繰り広げる。彼らは雲の上の人、まさしくスター(星)だ。観客は彼らの活躍を「カッケー!」と見上げるしかない。

しかし、それと真逆のタイプのスターも存在する。「カッケー!」と見上げるのではなく、観客に「まるで自分みたいだ」と秒で感情移入させるタイプだ。このタイプの代表者がトム・ハンクスだろう。彼のキャリアはそのまんまハリウッド名作劇場だが、しかし彼が雲の上の人になったことはない。来日時には伝説のカラオケ番組『THE夜もヒッパレ』に出演したり、近年は神田の蕎麦屋で普通に日本の中年男性らと集合写真を撮ったりと、異常なまでの親しみやすさを見せてくれている。

そんなハンクスの代表作にして、今や不朽の名作となった『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994年)が4K版でリバイバル公開されるのに合わせて、今回は彼のキャリアを総まくりしつつ、65歳にして今なお輝き続ける魅力と、若き日に彼本人が分からないと語った成功の秘密に勝手に迫ってみたい。

【10代~20代】早々に訪れた修行時代――酷評、打ち切り、門前払いのトム・ハンクス

トム・ハンクスは1956年に生まれた。両親は離婚と引っ越しを繰り返し、幼い頃から一つどころに留まることはなかったという。なかなか厳しい家庭環境だったが、当の本人は「むしろ、いつも新しい発見があったから、引っ越し好きになったくらいだよ」と、その状況を楽しんでいたという。冗談を言うのが好きな性格で、行く先々で人々を笑わせた。

やがて高校を卒業したトムは、大学に通いながら演劇の世界に足を踏み入れる。そして宿題で演じた舞台がトムの人生の分水嶺となった。

「僕には大道具でも小道具でも、照明係でも役者でも何でもいい。何らかの形でその世界の人間になることが重要だった。そうすれば自分は幸せになれるんだ、って悟ったんだ」

本格的に演劇の世界に入ったトムは大学1年生の時にチェーホフの戯曲『櫻の園』を演じ、劇団にインターンとして参加する。そして5月から11月半ばまでの1シーズンの公演に参加するが、ウッカリ3シーズンも過ごしてしまった。当然ながら大学は中退、トムは舞台俳優としての活動に専念する。

この頃の彼の主戦場はシェークスピアなどのガチガチの古典だ。この時期はまさに修行の時期で、トムも「僕は若干二十歳で、最近のアメリカの俳優には経験できないようなトレーニングを積めた。本当に運がよかったと思うよ」と振り返っている。

古典演劇の世界で着実に腕を磨いたトムは、最初の結婚をして、子供も授かった。そして俳優としての大成を目指してNYへ出かける。生活は苦しかったが、それでも脇役の仕事を続けるうちに、24歳にしてTVコメディ『ブザム・バディーズ』(1980~81年)の主役を勝ち取る。女性専用アパートに女装して潜入するという、どう考えても出オチのコメディで、実際のところ酷評が相次いだ。トムは共演者やスタッフとアドリブを考えまくって番組を続けたが、結局は2年で打ち切りになる。カルト的な人気を得ることはできたが、人生を変えるほどの成功は残せなかった。

この時期のトムはかなり厳しい状態に置かれていて、オーディションどころか台本すら読ませてもらえない、いわゆる門前払いを受けていたという。しかし三十路を目前にした28歳のとき、トムは映画『スプラッシュ』(1984年)の主演を勝ち取る。人魚と若者が現代社会を舞台に恋をするドタバタラブコメで、本作がトムにとって最初の大ヒット作となった。こうしてトムもスターの仲間入り、かと思われたが……世の中は厳しかった。

【30代~40代】大ブレイクと大失敗と再びの大ブレイク――歴史的な大ゴケからハリウッドスターへ名を連ねたトム・ハンクス

『スプラッシュ』の成功によって、トムのもとへ次々とオファーが舞い込むようになった。邦題のバブル感が堪らない『独身SaYoNaRa! バチュラー・パーティ』(1984年)やスピルバーグがプロデュースした『マネー・ピット』(1986年)など、コメディ映画に立て続けに主演する。しかし、そのどれもが「そこそこ」の評価で終わってしまう。

私生活でも29歳で離婚を経験。30代の始まりは決して明るくはなかったが、そんなとき主演したのが『ビッグ』(1988年)である。12歳の少年が魔法の力で大人になってしまうファンタジーコメディで、ここでトムはゴールデングローブ賞を受賞、アカデミー主演男優賞にもノミネートされた。

私生活でも再婚をして、一気に人生が上を向くかと思いきや……再びそこそこの映画が続き、さらに悪名高い『虚栄のかがり火』(1990年)に主演してしまう。制作費6000万ドルの超大作だったが、現場は混乱し、トムも「時々『これで全部まとまるのかな』と不思議に思ったよ」と疑問を胸に日々の撮影に臨んでいた。主演がそう思うくらいだからもちろんまとまるワケもなく、歴史的な大ゴケをしてしまう。

ベストを尽くした映画が大失敗に終わったことで、これまでがむしゃらに頑張ってきたトムも、初めて立ち止まって己の人生を見直した。エージェントを変え、まとまった休暇を取ることにする。そして2年ぶりの復帰作品に選んだのは女子プロ野球映画『プリティ・リーグ』(1992年)だった。ジーナ・デイヴィスやマドンナと言ったコクのあるメンバーをまとめる監督役で、助演的な立ち位置ながら、今までのナイスガイとは異なる粗野な中年男を好演してみせた。それはまさに原点回帰だった。

トムはコメディ映画でブレイクしたが、出発点はコメディアンではなく俳優なのである。この三十路半ばからのトムの仕事は、まさに名作劇場だ。メグ・ライアンとの恋愛映画『めぐり逢えたら』、ゲイを理由に解雇された弁護士が正義を求めて戦う『フィラデルフィア』(1993年)、そして1人の若者の成長を通じてアメリカの歴史を描く『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994年)、実際の事件を描いたSFサスペンスの傑作『アポロ13』(1994年)、さらに『トイ・ストーリー』(1995年)ではウッディの声優を務めた。これらの快進撃によって、トムは一気にハリウッドスターへ名を連ねた。

ブレイクと大失敗と再ブレイクを経験した95年、来日したトムはインタビューにこんなふうに語っている。「今まで15本の作品に出たけれど、そのうち3本のみが売れただけだ。僕にとって、売れる、当たるの判断は全く予想がつかない。『虚栄のかがり火』だって、結構、良い出来だと思っていたし(笑)」

【40~50代】助演から主演まで、演技派俳優としての成熟――さらに活動の幅を広めるトム・ハンクス

40代を迎えたトム・ハンクスだったが、その勢いはまったく衰えなかった。『すべてをあなたに』(1996年)では、企画・監督・脚本に助演とマルチな才能を発揮。宣伝で訪れた日本では『THE夜もヒッパレ』で歌った。そして戦争映画の歴史を変えた傑作『ブライベート・ライアン』(1998年)に、ファンタジードラマ『グリーンマイル』(1999年)、無人島漂流映画の傑作『キャスト・アウェイ』(2000年)、再びスピルバーグと組んだ『キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン』(2002年)、空港から出られなくなった男を描いた『ターミナル』(2004年)……トム・ハンクスの名は知らなくても、これらの映画のタイトルは聞いたことがある人が多いだろう。

ちょうど50歳を迎える頃にはベストセラーの実写化『ダ・ヴィンチ・コード』(2006年)に主演し、この映画で演じたロバート・ラングドンは新たな当たり役となった。完全なスターとなったトムだが、しかし一方でスターであることの限界も感じ始めた。『プライベート~』の来日時には、すでにこのように語っている。

「ハリウッドでは、スターは例外なくパッケージ取引の資産扱いを受ける。ロン・ハワードとトム・ハンクス、プラス誰それを売り出したいから加えて、はい、パッケージで企画を進めて行こうね。僕はパッケージになってしまった

この発言から読み取れるのは、彼はあくまで1人の俳優として活動したかったのであって、スターになることは本意ではなかったのだ。広く認知されたことが、かえって俳優としての活動の幅を狭めてしまう。成功者ゆえの苦悩である。

しかしトムは、そんな窮屈さを跳ね返すように、さらに活動の幅を広める。プロデュース業にも乗り出し、俳優としてはさらに色々な作品に顔を出すようになった。ちなみに久々の監督作品『幸せの教室』(2011年)の来日時には、こんなふうにも語っている。

「正直なところ、プロジェクトに誘われたら『ノー』というのはとても難しい。どんな作品にだって魅力的な側面があり、何より経済的不安を取り除いてくれる

ハリウッドのトップスターでありながら、何とつつましく、生活感のある発言だろうか。トムの発言を漁っていくと、映画俳優だって普通に「仕事」なのだと痛感させられる。何年もかけた努力がパァになることもあるし、良かれと思ってやったことが失敗することもある。上手くいかないこともあるし、成功しても、そのせいで忙しくなって大変な目に遭うこともあるのだ。

【50~60代】「分からない」と素直に言えること――多くの人が共感できるハリウッドスター、トム・ハンクス

そして現在。60代を迎えた今でも、トムはハリウッドの一線で活躍を続けている。クリント・イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』(2016年)、スピルバーグ監督『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017年)といった一流監督とのコラボレーションから、脚本を担当したドラマシリーズ『グレイハウンド』(2020年)、今年もマネージャーを演じたエルヴィス・プレスリーの伝記映画『エルヴィス』(2022年)が公開されるし、『ピノキオ』(撮影中)ではゼペットじいさんを演じている。さらに俳優として多忙を極める中で、小説まで出版した。

こうして振り返ってみると、トム・ハンクスは30代後半からずっと全盛期だ。そんな彼の成功の秘訣の最大の秘訣は、単純に頑張ったからだろう。とんでもない大失敗も経験して、努力が報われないことも承知のうえで、それでも腐らずに映画俳優という目の前の仕事でベストを尽くし続けた。そして彼が愛される理由は、少なくとも観客に見えている範囲では私たちと同じように、何が正解か分からない不安を抱えつつも、その不安をあっさりと口にして、仕事と趣味に励んでいる。

多くの人と同じような生活を送っているのだから、親しみやすくて当然だ。そして信念や美学はあるが、いい意味でイイ加減なのである。撮影現場でベストを尽くしつつ、一方で「この映画は大丈夫かなぁ?」と考えてしまう。このへんは仕事をする多くの人が共感できる感覚ではないだろうか。ハリウッドNo.1スターでありながら、決して偉ぶることなく、分からないことは分からないと言ってしまうし、失敗も素直に認める。それが彼の強みだ。

最後はトムが小説を書き上げた際のインタビューを引用して、この記事を終わろう。前半に書いた通り、彼の出発点は舞台演劇だ。チェーホフの『櫻の園』を演じているが……。

インタビュアー)チェーホフを意識しましたか?
「そうだな、チェーホフは昔から理解できたためしがないね」
 ――the New York Times Style Magazine:Japan
「ハリウッドNo.1のナイスガイトム・ハンクスが語るエンタメ、政治、歴史」より引用

▽参考・引用元

  • トム・ハンクス スターダムへの軌跡」ロイ・トラキン著 大橋雅子訳 近代文芸社
  • 「巨大な夢を叶える方法 世界を変えた12人の卒業式スピーチ」佐藤智恵訳 文藝春秋
  • キネマ旬報

1995年2月上旬号、1995年7月上旬号、1997年2月下旬号、1998年10月上旬号

2000年3月下旬号、2001年3月上旬号、2002年10月上旬号、2004年6月上旬号、

2005年1月上旬号、2006年6月上旬号、2008年5月下旬号、2009年5月下旬号、

2009年11月下旬号、2012年5月下旬号、2016年10月上旬号

・the New York Times Style Magazine:Japan

「ハリウッドNo.1のナイスガイトム・ハンクスが語るエンタメ、政治、歴史」

https://www.tjapan.jp/entertainment/17196032/p3?page=1

イラスト/もりいくすお

300年続く日本のエンターテインメント「忠臣蔵」のマニア。

加藤よしき
加藤よしき

昼は通勤、夜は自宅で映画に関してあれこれ書く兼業ライター。主な寄稿先はweb媒体ですと「リアルサウンド映画部」「シネマトゥデイ」、紙媒体は「映画秘宝」本誌と別冊(洋泉社)、「想像以上のマネーとパワーと愛と夢で幸福になる、拳突き上げて声高らかに叫べHiGH&LOWへの愛と情熱、そしてHIROさんの本気(マジ)を本気で考察する本」(サイゾー)など。ちなみに昼はゲームのシナリオを書くお仕事をしています。

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