ロバート・デ・ニーロ―老後に効くハリウッドスターの名言(11)

誰だって歳をとる。もちろんハリウッドスターだって。
エンタメの最前線で、人はどう“老い”と向き合うのか?
スターの生き様を追って、そのヒントを見つけ出す。

インタビュアー
「一躍スーパースターの座につきましたね。様々な試練や苦難を乗り越えてきたと思いますが、その事について話していただけますか?」

ロバート・デ・ニーロ
「だめだ」

――1977年に、米プレイボーイ誌のインタビューにて

ハリウッドの生きる伝説、ロバート・デ・ニーロ。
狂気の役作りでも知られる名優が、
今なお輝き続けることができる理由とは?

NYのシャイ・ボーイ!ロバート・デ・ニーロ伝説の名優になる

ロバート・デ・ニーロは、現代ハリウッドの生きる伝説である。代表作を上げ始めるときりがない。壮絶な役作りも有名だろう。時には太り、時には痩せて……数十キロの体重増減は日常茶飯事。こうした肉体改造は“デ・ニーロ・アプローチ”という演技手法にもなった。そしてマスコミ嫌いでも知られ、冒頭に引用したような記者泣かせな発言もかましている。

数年前にもインタビュアーに怒って退席したこともあった(ちなみに同じくベテランのモーガン・フリーマンはインタビュー中に寝たことがあります)。強面で堅物な狂気の名優……デ・ニーロといえば、そんなイメージがある。

けれど実際のところ、その人物像は全く違う。色々な証言をまとめていくと、デ・ニーロは不器用で真面目なシャイ・ボーイなのである(今回の記事の為に色々な資料を読んだが、総じてデ・ニーロを取材した人々は、彼の物静かさ、優しさに驚いたと語っている。時には「デ・ニーロのジョークが面白くなかった」などと普通にダメ出しを受けていることも)。

そのハリウッドの歴史に燦然と輝く経歴を振り返っていくと、一歩間違えば、デ・ニーロは不器用なシャイボーイとしてNYの片隅で人生を終えていたかもしれないと思えてくる。しかし、そうはならなかった。それは何故か? 今回は彼の人生を振り返りながら、成功への秘訣について考えていきたい。

【10代~20代】寂しい少年時代…。ロバート・デ・ニーロと演技との出会い

デ・ニーロは1943年にニューヨークで生まれた。両親は共に画家だったが、特に売れているわけでもなく、彼が2歳の頃に別れている。離婚後も両親の仲は悪くはなく、幼いデ・ニーロは両者の間を行ったり来たりして過ごしたそうだ。一応は円満離婚ではあるが、決して豊かな少年時代ではなかったらしい。当時のことを彼はこう振り返っている。

「父が夢中でカンバスに向い、創作に精を出すが、その裏でやはり画家だった母が絵をやめ、町で働く姿を見て、(中略)貧乏生活はやはり耐えられなかった。美術に対する興味なんてその時まったく失われてしまいました」

そんなデ・ニーロ少年だが、演技との出会いは早かった。母親のアート畑での繋がりで演劇のワークショップに参加すると、たちまち演技に魅了される。非行に走ったこともあったそうだが、数年後には演技への想いが再熱した。16歳で高校を中退し、名門俳優養成所「アクターズ・スタジオ」の門を叩く。ここで3年間に渡って演技の基礎をみっちり学び、20代を迎えると本格的に役者として活動するためオーディションを受け始めた。脇役として俳優デビューしたが、最初の数年は苦労が続いた。

役者としての高いポテンシャルを持ちながら、当時からデ・ニーロはシャイ・ボーイであり、押し出しが弱かった。俳優の成功に必要なものは、演技だけではない。セルフ・プロデュースやコネクションを作りも成功には必要だ。その点がデ・ニーロは苦手だった。

若手時代の彼を知る映画監督ブライアン・デ・パルマはこんなふうに語っている。「彼が生き生きしているのは演技をしている時だけだが、才能を発揮できる機会が少なかった」

苦労は続いたが、しかし後に“デ・ニーロ・アプローチ”と呼ばれる役作りも、この頃には既に片鱗が見えていた。19歳のデ・ニーロは、オーディション用に自分の写真を何十枚も撮っていたというが、その写真を目撃した人物はこう証言している。「そのうちの1枚が、80歳の老人に扮した写真だったけど、衝撃を受けたよ」つまり19歳の時に80歳の役が来ても引き受ける気だったのだ。その完成度は不明だが、とにかく大物の到来を予感させるエピソードである。

若きデ・ニーロは圧倒的な実力を持ち、実際に評論家や業界人からの注目も集めていたが、決定的なブレイクに至らぬまま30代を迎える。しかし、30になるやいなや運命的な出会いが待っていた。映画監督マーティン・スコセッシとの邂逅、正確に言うと再会である。
 

【30~40代】運命の出会いと“デ・ニーロ・アプローチ”の完成

マーティン・スコセッシ、御年78歳にして現代アメリカを代表する映画監督の1人である。デ・ニーロを語るとき、スコセッシの存在は無視できない。2人は1人であると言っても良いだろう。

スコセッシはニューヨークの出身で、デ・ニーロと同年代であり、実家も近所で、何なら子どもの時には一緒に遊んだ仲だった。そしてスコセッシはデ・ニーロとは真逆の非常に押し出しの強い人物だったのである。2人は互いの足りない部分を補うように、『青春アミーゴ』を超える地元じゃ負け知らずコンビとして才能を爆発させた。

最初のタッグ作『ミーン・ストリート』(1973年)を発表すると、スコセッシはデ・ニーロを天才だと絶賛して回った。この話題を耳にしたのがスコセッシと仲の良かったフランシス・フォード・コッポラ、言わずと知れた『ゴッドファーザー』(1972年)の監督である。噂を確かめようと『ミーン~』を見たコッポラは、即『ゴッドファーザー PART2』(1974年)の主演にデ・ニーロを抜擢する。

彼が演じるのは前作でマーロン・ブランドが演じたマフィアのボスの青年時代、イタリアのシチリア島に住む若者役だ。この役を演じるにあたって、デ・ニーロは自腹でイタリアに飛んで、現地の人々を徹底的に研究した。そして映画が公開されるや、世間はデ・ニーロの演技に仰天する。シチリアの方言まで完璧に再現したイタリア語で喋り、それでいて前作のマーロン・ブランドの面影を残しつつ、デ・ニーロ本人の魅力も加味されていたのだ。

彼の熱演は高く評価され、その年のアカデミー助演男優賞を受賞。間違いなく人生が変わった瞬間だが、本人は相変わらずのシャイ・ボーイっぷりを炸裂させた。授賞式を欠席し、こんな素っ気ないコメントを発している。「オスカーは、相応しくない人もたくさん受賞しているから、あまり素直になれない。興奮? さあ……でも人生は変わるだろうね」あまりのシャイっぷりに、伝説的に自己中心的だったマーロン・ブランドも「彼は自分の素晴らしさに気づいているんだろうか?」と心配する始末だった。

この成功でデ・ニーロのもとに次々と仕事が舞い込むが、数多くの大作を押しのけて、彼は1本の企画に魅了される。その企画を持ってきたのは、またしてもスコセッシだった。その企画こそ『タクシードライバー』(1976年)だ。ニューヨークを舞台に、孤独なタクシー運転手が狂気と暴力を爆発させて……。予算は少なく、出演料も安い。内容も過激で挑発的だった。さらに同時期には『遠すぎた橋』(1977年)の出演依頼も来ていて、そっちは『タクシードライバー』の5倍のギャラを出すと言う。しかしデ・ニーロは盟友を取った。

『タクシードライバー』への出演を決めると、全力投球で役作りを開始。タクシー運転手の免許を取り、2週間に渡ってニューヨークを流した。「あ、デ・ニーロだ」と気がつく客もいて、「去年オスカー取ったのに、もう落ちぶれたのか?」と心配もされたという。そしていざ撮影が始まると、現場でスコセッシと即興で台本に無かったシーンも追加していった(作中屈指の名台詞「You talkin' to me?」も台本にはなかった)。こうして完成した映画は、公開されるや世界中で旋風を巻き起こした。

デ・ニーロとスコセッシは時代の寵児となり、その後もコンビで傑作を連発する。デ・ニーロの徹底した役作りもエスカレートしていった。実在のボクサーの生き様を描いた『レイジング・ブル』(1980年)はその集大成だろう。デ・ニーロはボクサーとしての現役時代と、引退後の肥満体形を再現するため、27キロの増量を決行。この熱演は高く評価され、アカデミー主演男優賞を受賞。さらに過酷な肉体改造を伴う演技が“デ・ニーロ・アプローチ”という呼び名で世間に定着した。

【40~50代】脱“デ・ニーロ・アプローチ”とスターへの道

40を超える頃、デ・ニーロは俳優としての転機を迎える。少し肩の力の抜けたエンターテインメント作品にも顔を出すようになったのだ。大ヒット作『アンタッチャブル』(1987年)、アクションコメディの佳作『ミッドナイト・ラン』(1988年)、火災パニックの金字塔『バックドラフト』(1991年)、強面なイメージを逆手に取ってデ・ニーロに新婚の挨拶に行く!という設定だけで、ひと笑い起こせる『ミート・ザ・ペアレンツ』(2000年)などなど。主演、悪役、脇役、コメディと、演じる役の幅が広くなってゆく。

また40を迎える頃には明確に脱・デ・ニーロのアプローチを掲げている。『ミッドナイト~』の来日インタビューでは「あなたみたいな役作りは並の役者にはできませんよ」と水を向けられると、こんなふうにアッサリと答えている。「うん。君にいわれるまでもなく、体重を増やすなんてことは、もうできないし、やるつもりはないね

かくして脱デ・ニーロ・アプローチ方向へ舵を切ったが、とは言えやはり俳優として生真面目さは変わりなく、『アンタッチャブル』では髪を抜き、犯罪アクションの金字塔『ヒート』(1995年)では6~8週間に渡って銃を撃つトレーニングに参加。スコセッシとの仕事も絶好調で、『グッド・フェローズ』(1990年)は映画史に残る1本になり、サイコサスペンス『ケープ・フィアー』(1991年)では脱デ・ニーロ・アプローチ宣言もどこへやら、筋トレでバキバキに体を仕上げて世間を驚かせた。

他の監督との仕事も全力投球だったが、スコセッシとの相性は群を抜いている。やはりスコセッシはデ・ニーロにとって特別な監督なのだろう。実際、この頃にはこんな発言も残している。「昔、彼(スコセッシ)が『タクシードライバー』を撮ることになって準備を進めていたとき、トラブルがあって中止になりかけたことがあった。同じ時期に、当時のハリウッドの大物監督から“次回作に出て欲しい”という話があり、それを断ったとき私はマーティンに言ったんだ、“頂点に立つ大物と組んで仕事をするより、これから頂点を目指して進む人と一緒にトライするほうがずっと楽しい。もしも失敗するようなことがあるなら、一緒に歩く友だちとしたい”って」

【60~70代】ロバート・デ・ニーロと盟友たちとの老後

還暦を超えても、デ・ニーロの仕事のペースは一向に落ちない。もう若い頃のような肉体改造はできないし、露骨に予算の少ない映画にも出ている。しかし定期的に賞レースに顔を出し、不在の感は全くない。そして中身も若い頃と全く変わっていないようだ。

『マイ・インターン』(2015年)で共演したアン・ハサウェイも、デ・ニーロがあまりに現場で謙虚だったので「知ってるかしら? あなた伝説的な人物よ」と気を遣っていた。世紀を跨いでマーロン・ブランドとアン・ハサウェイに心配されるあたり、あまりのブレなさっぷりに驚くばかりである。

さらに先日「77歳になった今も映画に出まくっているのは、離婚した妻が金を使いまくっているから」なるニュースも入ってきた。デ・ニーロは間違いなく伝説の俳優だが、中身は不器用なシャイ・ボーイのままなのだろう。

それは久々にスコセッシとタッグを組んだ『アイリッシュマン』(2019年)でもよく分かる。同作はマフィアの暗殺者の一代記を映像化した作品なのだが、ここでデ・ニーロは特殊効果によって中年から老人までを演じきっている。そして共演のジョー・ペシ(彼もまたスコセッシ組である)とアル・パチーノ、そしてスコセッシと語り合う特番が製作されているのだが……。番組内ではスコセッシがペシとパチーノを圧倒して喋りまくる一方で、デ・ニーロはほとんど言葉を発していない。高速で喋りまくるスコセッシを笑顔で見守っているだけだ。2人のプライベートでの付き合いも、きっとこんな感じなのだろう。

デ・ニーロがデ・ニーロたりえたのは、自分に無いものを持った親友スコセッシがいたからだ。スコセッシという押し出しの強すぎる親友が、デ・ニーロを単なるシャイ・ボーイではなく、ハリウッドスターへ導いた。もちろん、その逆も言える。デ・ニーロという忍耐強く真面目な俳優がいたらこそ、スコセッシはエキセントリックな若手監督では終わらなかったのだ。まさに「持つべきものは友」そんな手垢のついた、しかし普遍的な価値観が、デ・ニーロの経歴からは見えてくる。ちなみにスコセッシは現在も、デ・ニーロを迎えて新作を撮影中だという。

それでは最後にデ・ニーロがスコセッシ制作、リュック・ベッソン監督作『マラヴィータ』(2013年)での来日時に残した発言で、今回の記事を終わりたい。本作はマフィアを題材としたコメディだ。この来日会見の場で、記者は「スコセッシ監督とあなたも、ある種、ひとつのファミリーのように思えます」と尋ねた。それに対してデ・ニーロは、こんなふうに答えている。

「ひとつ言えるのは、どんな職業でも同じで、一緒に仕事する仲間がいる。
 どんなビジネスでも、どんなコミュニティでも、当然のことだね。
 グループなしでは、仕事は成り立たないと思っているよ」
 ――2013年 MOVIE Collection
「『マラヴィータ』ロバート・デ・ニーロ インタビューより」

▽参考資料
『キネマ旬報 1981年3月号、1989年10月号、1994年8月号、1996年4月号、2007年9月号、2014年4月号』
『ロバート・デ・ニーロ 都会派のニューロマン シネアルバム61』
(1978年 責任編集・梶原和男 芳賀書店)

『ロバート・デ・ニーロ 挑戦こそ我が人生』
(1997年 著・ジョンパーカー 訳・中神由紀子 メディアックス)

『ハリウッドインタビューズ』
(1998年 小峯隆生 銀河出版)

・アン・ハサウェイ&ロバート・デ・ニーロ「共演して学んだこと」。
https://www.youtube.com/watch?v=4dsKnNugOw0

・『マラヴィータ』ロバート・デ・ニーロ インタビュー
https://www.moviecollection.jp/interview/25890/

・「明日にも病気になる」ロバート・デ・ニーロ、元妻の贅沢欲のために多忙を強いられていると主張
https://front-row.jp/_ct/17447748

イラスト/もりいくすお

300年続く日本のエンターテインメント「忠臣蔵」のマニア。

加藤よしき
加藤よしき

昼は通勤、夜は自宅で映画に関してあれこれ書く兼業ライター。主な寄稿先はweb媒体ですと「リアルサウンド映画部」「シネマトゥデイ」、紙媒体は「映画秘宝」本誌と別冊(洋泉社)、「想像以上のマネーとパワーと愛と夢で幸福になる、拳突き上げて声高らかに叫べHiGH&LOWへの愛と情熱、そしてHIROさんの本気(マジ)を本気で考察する本」(サイゾー)など。ちなみに昼はゲームのシナリオを書くお仕事をしています。

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