「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
今回は、究極の鉄道の旅ともいえるJRと私鉄を合わせた9649駅の全駅下車を達成し、二度に渡ってギネスに認定された杉原さんにお話を伺いました。杉原さんは日本最大級のライブSL作りがライフワークという機関車好きであり、鉄道ファンというより「機関車ファン」なのです。
――日本の鉄道全線全駅下車(※2003年当時9649駅)を達成し、二度もギネスに認定されていますが、まさに究極の鉄道の旅ですね。まずは鉄道の旅に惹かれるようになったきっかけから聞かせてください。
大学で観光事業の研究会に入ってから、だんだんのめり込んでいった感じでしたね。鉄道研究会とは違い、旅行好きが集まる同好会だったのですが、日本各地を旅行するうちに鉄道に興味を持つようになったんです。もともと旅好きから始まっているんですね。
ただしその研究会には1年半しかいませんでした。裕福な子息のような人が多くて、自分の旅行スタイルとはちょっと違う気がしたんです。
それからは一人旅をするようになりました。もともと電気機関車が好きだったのですが、その頃ちょうど蒸気機関車がなくなるということでSLブームがあり、写真を撮っているうちに次第に写真を撮ること自体が旅の目的になっていったんです。
――機関車のどんなところに惹かれたんですか?
重量感ですね。一両だけで客車や貨車をけん引するのが機関車というもので、重量も馬力も普通の電車とはまるで違います。今は本線で貨物列車が走っている程度ですけど、当時はずいぶん走っていたんですね。
機関車の中でも「C62形蒸気機関車」に憧れましたね。国内最大最強の旅客用蒸気機関車なんですが、デコイチ(※D51形蒸気機関車)が1100両ほど作られたのに対し、C62形は49両しか作られていないんです。保存機関車が5両くらい残っていて、今でもマニアの間で一番人気があります。
――蒸気機関車は普通の電車とは違う圧倒的な迫力がありますよね。
煙と汽笛がすごいですよね。特にC62形は大きさが圧倒的で、その力強さとたくましさに惹かれました。鉄道ファンにもいろんな種類がありますけど、私の場合はあくまで機関車の愛好家であって、普通の電車への興味は一般の人と同じレベルです(笑)。
――当時はC62形蒸気機関車がまだ走っていたんですか?
70年代までは地方でわずかに走っていました。大学4年生の頃に広島の呉線にC62形に乗りに行ったりしていて、当時はなんとか普通に乗れたんです。ところが1975年末に室蘭本線の運行を最後にSLは全廃になってしまいました。お別れ会で岩見沢まで行ってきたんですが、それはもう寂しい気持ちでしたね。
――社会人になってからもその情熱は続いたんですか?
私が鉄道写真を一番撮っていたのが大学3、4年の頃なんですが、就職してからは仕事の方が忙しくなってしまって、以前ほど鉄道写真を撮りに行くこともなくなりました。
1970年にC62形の運用が全廃になった後、今度は1/9スケールのC62形のライブSLを製作するようになりました。
30歳で結婚して子供ができ、今度は子育てに専念するようになったこともあって、1985年から10年くらい鉄道とは一切縁を切っていたんですよね。
――鉄道への情熱が復活するきっかけがあったんですか?
子供が中学生くらいになると、一緒に旅行に行こうと誘っても「行かない」と言うようになったんです。それで昔を思い出して、一人で駅巡りを始めたのがきっかけでしたね。
そんなとき、JRや私鉄の全駅下車というちょっと変わった挑戦をしている人がいることを知りました。ただ電車に乗ってるだけじゃ面白くないし、どうせなら自分も挑戦してみたいと思いました。
最初はJRと私鉄の全線乗車に挑戦しました。1996年から始めて、最後は1999年9月9日9時9分の9並びに阪急電車に乗って全線乗車を終えました。これがわりとあっさり終わってしまって、それほど大変じゃなかったんです。それで今度は、「いっちょう全駅下車に挑戦してみるか」となったわけです。
――全駅下車のルールとして、改札の出入りにこだわったそうですね。プラットホームに降りるだけなら一本の電車でも可能ですが、改札を出ると、次の電車を待たなければいけない。ローカル線は便数も少ないので、大変さが10倍くらい跳ね上がると思うんです。
ぱっとプラットホームに降りてまた同じ電車に乗るのは、下車とは言えない。やっぱり下車というからには、改札を出るか入るかのどっちかだという定義のもとでやりました。
乗車だけなら始発駅で乗って、あとは寝ていようが景色を見ていようが電車が終点まで運んでくれますけど、いったん改札を出ると、次の電車が来るのを待つことになります。それが数分のときもあれば、1時間待ちのときもあって、最長で4時間55分待ったこともあります。
JRの場合、首都圏に近いところだと1日15駅くらいは回れるんですが、便数が少ない北海道なんかだと1日11駅か12駅くらいが限度でしたね。
――しっかり時刻表を確認してスケジュールを立てないと、とてもじゃないけど回れそうにないですね。
行き当たりばったりでやるのは不可能でしょうね。私の場合、家で時間をかけて時刻表を調べて、綿密に計画を立ててから行くようにしていました。そうしないと無駄が多くなって逆に大変になるんです。一方で怖いのは、その計画がパーになることです。
九州の駅を回る計画で、博多駅の地下鉄の乗り換え時間が7分しかなかったことがありました。大きな駅だから迷いやすいし、人も多いし、切符も買わなければいけない。博多駅に着く前からハラハラして、駅に着いた瞬間に大急ぎで地下鉄まで走ったことが印象深いですね。
――長時間待って電車に乗っても、数分乗って次の駅で降りるわけですよね。それを考えると、気が遠くなりますね。
気が遠くなりますよ(笑)。北海道の石北本線なんて1日1便のところもあります。そういう場合は、上りの便と下りの便を上手く使うんです。たとえば一駅オーバーして下車して、今度は反対の便に乗ってその間の駅で下車するわけです。あとは歩ける距離であれば、次の駅まで歩きます。そうすると1日1便の路線でも、5駅くらいはいけるんですね。
3kmくらいなら歩いて次の駅まで行くこともよくありました。北海道では3、4回に分けて1日30km近く歩いたこともあります。ところが夕方から疲労で気持ち悪くなってきて、帰りの特急列車で座席を二席使って横になって帰ったこともありました。混んでいたので他の乗客には申し訳なかったですが、それくらい具合が悪かったんです。
――他にはどんな困難がありましたか?
暑さと寒さですね。大阪は夏によく行ってたんですけど、地下鉄の階段を上がったり降りたりするのが、暑いし人は多いしで大変で、疲れきっちゃいましたね(苦笑)。
逆に冬の寒い夜、駅で1時間待ちが3本続いたことがあって、あれも堪えましたね。寒い時期に北海道に行くときは、冬用のシュラフを持っていくんですが、それでも足がじんじんするほど寒くて寝られない。あれもちょっと辛かったですね(苦笑)。
――宿には極力お金を使わないようにしていたんですか?
宿はほとんど使わなかったですね。青春18きっぷを使って夜行列車で寝たりしていました。
駅のそばで夜を過ごさざるをえない場合、地べたにシュラフを敷いて寝ることもあるんですが、夏はまだしも冬は堪えますね。朝食に弁当を用意しておいたら、朝になって弁当が凍っていたこともありましたね(笑)。
お金はほとんど電車代と食事代にしか使っていません。食事はスーパーで弁当や菓子パンを買って食べるようにしていて、駅弁は一回食べたくらいです。
――特に印象深かった路線を教えてください。
北海道の石北本線と宗谷本線ですね。一日数便しかない駅で、降りても周囲に何もない。大変だっただけに印象深いですね。
逆の意味で大変だったのが、飯田線です。ローカル線で便数も少ないというのに、とにかく駅の数が多くて100駅近くあるんですよ。4、5回通ってやっと終えましたね。
風光明媚だったのが、JR西日本の三江線です。2018年に廃線になったのですが、当時は古い駅舎もかなり残っていたし、山間を縫うように走る景色が素晴らしかったですね。
――当時は会社勤めをしていたわけですよね。それを考えると、よく約4年半で達成できたものだなと。
休みの日はほとんど使ってました。夕方、会社が終わってすぐに新幹線に乗れば、その日のうちに京都か大阪に着きます。当時は夜行の普通列車があったので、京都か大阪から乗れば翌朝には九州に着いたんです。連休をフルに使って九州の駅を回って、月曜の朝には定時に出社していました。お盆休みや正月休みといった長い休みが取れるときは、北海道や九州に遠征するようにしてましたね。
――全駅下車に挑戦してみたい人への参考として、トータルの費用を教えてください。
JRも私鉄もそれぞれ200万円ずつの計400万円です。
ときには現地まで新幹線を使ったこともありますが、原則は青春18きっぷを使って各駅で行くようにしていました。
私鉄も必ず割引切符を使うようにしていて、大阪の私鉄だと1日乗り放題のフリー切符があって非常に助かりました。そういうのを上手く使ったおかげで安く達成できたんですね。
お金に余裕があればもっと楽にできるのかもしれないけど、それじゃあ面白くない。節約するからこそ面白いのだと思いますね。
――全駅下車を4年139日で達成し、「最速記録」としてギネスに認定されています。9649駅を下車するだけでも偉業だと思いますが、会社勤めをしながらこの期間で達成できたことにも驚きです。
「最速記録」には理由があるんです。最初は“初の全駅下車”でギネスに申請したんですけど、証明できないこともあって、基本的に“初”という申請は通りにくいらしいです。それでギネス社から「日数で申請してほしい」と要望があったんですね。時間や回数といった測れるものがあれば、次の挑戦者がそれを目指せるというわけです。
私は9649駅すべての詳細をメモしていたのですが、ギネス申請の際に先方から「全訳してほしい」と言われて途方に暮れました。申請をボツにしようという策略なのかと思ってしまったほどです。幸い京都のギネス申請を代行してくれる会社が引き受けてくれたんですが、訳すのに3カ月かかって、最初のギネス申請が認定されるまでに1年半、二度目のギネス申請も認定されるまでに1年半かかりました。てっきりボツになったと思っていたので、ギネス社から認定書が届いたときはビックリしましたね。
――早く全駅下車を達成しようとした理由として、他にやりたいことがあったそうですね。
C62形蒸気機関車のライブSL(※本物と同じように蒸気圧で動くミニSL)を作りたかったんです。製作に何年かかるかわからないから、先に全駅下車を達成してから、余生はじっくりライブSL作りに取り組もうと考えていました。実際、ライブSL作りに20年以上かかっていますから、これが逆だったらとても全駅下車は達成できなかったでしょうね。
――自宅が町工場のようになっていますね。旋盤やフライス盤まで購入されて、かなり費用がかかっているのでは?
これまでに都内で中古のワンルームが買えるくらいの費用がかかっていますね。
実は今ある旋盤やフライス盤は2台目なんですよ。二十歳過ぎの頃、1/9スケールのC62形のライブSLを10年間ほど作っていたわけですが、そのとき最初の旋盤とフライス盤を買いました。ところが、ある人から「小さいのを作っても後で大きいのを作りたくなるから、最初から大きいのを作った方がいい」と言われて、中断してしまったんです。その後、50代になってから1/5スケールのC62形を作り始めたわけですが、これが終わったら、1/9もじっくり作ろうと思っています。
――杉原さんはずっと経理・総務の仕事をしていて、技術的には素人だったわけですよね。一からライブSLを作るのは大変だったのでは?
好きなことだからそれほど苦痛でもなかったですね。最初はほとんど知識がなかったですから、町工場を訪ねてベテランの職人さんに聞いたり、実際に機械の使い方を教えてもらったりして徐々に知識を付けていきましたね。
たとえば鋳物屋さんに頼んでも、まったく知識がないと相手にもされないんですよ。だからこちらも勉強せざるをえない。何十年も職人仕事をやっている人と対等に渡り合うには、自分もそれなりの研鑽が必要だということですね。でも、やっていることを説明すると、ほとんどの人から「頑張って」と言われました。
――20年以上作り続けているわけですが、完成のメドは立ちましたか?
9割方できていて、今年中に組み立てて完成させたいですね。
完成後は自分一人で見ているだけでは惜しいので、駅の待合室や工業高校、あるいは鉄道関係の博物館などに寄贈しようと思ってます。日本の工業力の低下が防げるように多くの人の目に触れるところに置いてもらえれば本望と思って邁進しています。
――会社員時代は全線全駅下車に挑戦し、定年後はライブSL作りに打ち込んでいて、常にやりたいことがあるというのが素晴らしいですね。
会社の同期は65歳まで働いてましたけど、私は早くライブSLが作りたくて60歳で定年を迎えたんですよね。
実は他にもやってみたいことがあって、定年後に海外の地下鉄の全駅下車に挑戦したんです。62歳のときにニューヨークの地下鉄468駅を制覇したのを皮切りに、香港、ロンドン、パリ、ローマ、ベルリン、ミュンヘン、マドリードなど8都市の地下鉄全駅下車を達成しました。
これは誰もやったことがないと思いますね。
――それはスゴイ! 国内の全駅下車に飽き足らず、海外でも挑戦するとは!
いろんな海外の街を見られて面白かったですね。
ひと言でニューヨークといっても、ニューヨーク市にはマンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクスなどの地区があって、全駅下車でひと通り見て回ると、各地区の特色がわかるわけです。それまではニュースで「ブロンクス」という地名が出てきても何とも思いませんでしたけど、今では懐かしく思います。やっぱり実際に行ってみないとピンと来ないですよね。
――それはスゴイ! 普通の人がやらないような偉業を杉原さんは3つも4つも達成しているんですね。目標を持つことの人生の意義をどんなふうに感じていますか?
目標を持つことは、半分は楽しみでもあるし、半分は苦痛でもある。私の場合は苦痛の方が多いのかもしれないけど(笑)。苦痛があるから面白いし、達成感もあるんでしょうね。
水前寺清子さんの唄で「人のやれないことをやれ」という歌詞がありますけど、その気持ちは常に私の中にあって、それは結局、新たな自分への挑戦なんですよね。名誉やお金が目的なのではなく、「自分の精一杯のことをやってみたい」という気持ちなんでしょうね。
――本日はありがとうございました!
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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