定年後はシニア演劇がライフワーク。舞台俳優として、自分とは別の人生を演じる元会社役員79歳

「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。

どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。

そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。

今回は、定年後からシニア演劇を始め、今では芝居が生き甲斐になっているという「かんじゅく座」の舞台俳優・渡部さんにお話を伺いました。ステージ4の直腸がんを患いながら奇跡的に舞台に復帰した芝居への想いとは?

今回のtayoriniなる人
演劇ファン歴13年/渡部俊比古さん(79歳)
演劇ファン歴13年/渡部俊比古さん(79歳) 1943年福島県生まれ。早稲田大学卒業後、一部上場の総合商社に入社。大阪副支店長、名古屋支店長を経て、取締役を務めた後、系列会社の社長としてマンション・ビル管理の事業に携わる。定年後、2009年に60歳以上のシニアによるアマチュア劇団「かんじゅく座」に入団。毎年5月の定期公演をはじめ、保育園や高齢者施設などへの出張公演、三宅島や大島などの島しょ部公演、全国シニア演劇大会の出場など、かんじゅく座の劇団員として活躍中。

シニア演劇のドキュメンタリー映画を観て、入団を決めた

――60歳以上のシニアによるアマチュア劇団「かんじゅく座」の座員として活動されていますが、もともと会社役員をやられていたそうですね。かんじゅく座に参加しようと思った経緯を教えてください。

渡部

65歳で定年退職してから追憶の旅をしてみようと思いまして、生まれ育った場所やサラリーマン時代の思い出の場所を訪ねていました。それで大学時代に住んでいた東中野に行ってみたんです。馴染みだった蕎麦屋で昼飯を食べて駅に戻ろうとしたら、ポレポレ東中野で『つぶより花舞台』というかんじゅく座のドキュメンタリー映画が上映されていました。
「へえ、こういう世界があるんだ。なかなかいいね」と思って観ていたら、上映後に監督の鯨エマさん(かんじゅく座の主催者・企画・作演出)と旗揚げメンバーの舞台挨拶があって、話の中で「男優がたいへん少ないので大事にしますよ」と言ってたんです。そのときメンバーの女優さんと目が合ったような気がして、すぐに入団を決めました(笑)。

――定年前の人生遍歴についてお聞きしていいですか。

渡部

大学卒業後、総合商社に入社して、30代後半までは営業に携わり、その後は人事課長や経営企画部などの管理部門です。51歳で取締役になったのですが、新たに就任した社長と大喧嘩をしましてね……。
その社長は、これからはITの時代だから東京本社の機能を充実させて、各地区の責任者を本社勤務にしようとしたんです。重要なときだけ責任者が各支店に出向けばいい、支店長は飾りでいいという考えです。それも一つの考え方ですけど、支店長を経験してきた私からすると、「メーカーと違って商社の支店長は地域に根差して仕事をしなければいけない」という思いがありました。
そうした考え方の違いから社長と対立しまして、子会社に出されてしまったんです。それからマンションとビルを管理する会社の社長として定年を迎えたというわけです。

かんじゅく座の他にも渡部さんは下北沢演劇祭の世田谷区民による演劇に参加したり、学生映画に出演。芝居を続けていくうちに、どんどん活動範囲が広がっていくのが楽しい。

――商社とマンション管理では、まったく違う仕事ですよね……。

渡部

違いますね。でも、結果的に出されて良かったと思ってます(笑)。
それまで一部上場企業の取締役として、肩で風を切って歩いているような感じもあったかもしれないけど、社長と対立した途端、仲間だと思っていた先輩・同僚のほとんどから背を向けられて、地位や肩書きというものが本当に儚いものだと気づかされましたね。小説でそういう話を読んだことがあったけど、自分がそれを体験したことは、すごい学習でした。それからは健康で食べていけるなら、「自分の好きなことをやった方がいい」と思うようになったんです。
また、取締役時代は秘書がついて事務的な仕事をお願いできましたけど、小さい会社の社長になると、一から十まで全部自分でやらないといけない。それも勉強になりましたし、仕事のやり甲斐が感じられて楽しかったですよね。

――人生の分岐点だったわけですね。

渡部

子会社に出されたことが、今の演劇活動にもつながっています。
その会社では新たに受託したマンション管理のためにマンションの管理人を毎年3、4人採用していて、ハローワークから紹介された定年過ぎの方々を受け入れていました。履歴書を見ると、大企業の元課長や元部長など、本当に素晴らしい経歴の方ばかり。当時は60歳定年でしたから、62、3歳の人が多かったんです。

渡部さんは台詞のない場面も大事にしている。台本に「……」とあった場合、ただ黙っているのではなく、何を思って「……」になったのかを真剣に考えて演じているのだ。

――定年して2、3年もすると、また働きたくなるものなんですかね。渡部さんの場合はどうでしたか?

渡部

私も定年を迎える前は、退職したら仲間と麻雀をしよう、釣りをしよう、ゴルフ三昧だって思ってましたけど、実際は続かないものですよ。お金が出ていく一方だし、麻雀にせよゴルフにせよ人数が揃わないとできないですから。まして、仕事のストレスがあるから遊ぶのが楽しいわけで、定年後はストレスがないから遊びに積極的にならない。さらには奥さんからジャマ者扱いされたりして、「また働きに出たい」となるものだと思います。
再就職したいという方々を面接していて、俺も定年後はこうなるんだろうな……と思いましたね。それで「第二の人生に向けて準備をしなければいけない」と考えるようになったんです。そして定年後、何に打ち込むかを決めかねていたとき、東中野でかんじゅく座と出会ったというわけです。

サラリーマン時代の鎧兜を脱いで、「恥をかく」ということ

――演劇の世界とは無縁だったのが、初めて芝居をすることに抵抗はなかったですか?

渡部

芝居というより、最初は価値観の違いに戸惑いましたね。民間企業は儲けることが目的で、効率を重視しますけど、アマチュア劇団は儲けや効率ではなく、芝居の質をいかに上げるかを重視しますよね。そんなふうに会社員時代とは一つひとつ価値観が違うんです。
芝居に関していうと、私にとっては“恥をかけるかどうか”が大きかったです。
やっぱり男としてはカッコよくしていたいじゃないですか。それが演技指導ではけちょんけちょんに言われるわけですよ。これは今でも続いています(苦笑)。

――人生初の舞台はいかがでしたか?

渡部

忘れもしません、クリーニング店の店主の役でした。私はあがるタイプではないので、拙いなりにわりと練習どおり芝居ができたと思います。
私には子供が3人いて、長女は高校時代にモダンダンスの全国大会に出場し、次女は今でもベリーダンスを教えています。演劇ではないですが、二人とも舞台の先輩なんですよ。だから私が初めて舞台に立ったとき、「お父さんもようやく舞台を踏めるようになったんだね」って言われました(笑)。
80近い父親と娘が、オヤジの舞台の話をするというのは、我ながら芝居をやる醍醐味だと思います。娘は最初の舞台から観てくれていて、「1回目と比べて、今は台詞がなくてもちゃんと役を演じているよ」と評価してくれたのがうれしかった。以前は台詞を言ったら、その後ひと休みしていたんです。

台詞を覚えるコツは「100回練習すること」と渡部さん。散歩をしながら台詞を練習し、さらには書いて覚えるそうだ。そうすることで自然と台詞が口から出てくるようになる。

――どのように役作りをしていますか?

渡部

プロの役者さんが「役が自分に降りてくるときがある」とおっしゃっていて、そうなるのが最高なんですが、私の場合は役に近づくしかありません。役に近づく方法としては、鯨エマさんの指導なんですが、自分の役の履歴書を書いてみるんです。
たとえば今度の芝居で市議会議員と高校2年生を演じるんですが、自分ではあまり動かずに人に指図してやらせるタイプの議員という設定に対して、生まれたときから今に至るまでの経歴を書いて、なぜそのような議員になったのかを自分に納得させる。そうすることで役に近づくという努力をするんです。

――高校2年生も演じるわけですか。必ずしも近い年齢の役ばかりじゃないんですね。

渡部

子ども役も多いですよ。他には動物の役を演じることもあります。
困ったのが、カラスの役。カラスだから履歴書なんて書けない(笑)。市長選挙で二人の候補が争っているのを俯瞰して見ているカラスという役だったんですが、カラスについて調べたところ、ヤタガラスに行きついたんです。日本神話で神武天皇を熊野から大和に道案内したのがヤタガラスですから、迷っている人を道案内するカラスというふうにすればいい、と考えました。
あとは『ねこら』という芝居で、オネエの猫をやることになったときも悩みました。そのときは鯨さんから「スカートを履いて日常を過ごしてください」と言われて、自宅にいるときは履きました(笑)。スカートを履くことで股を広げなくなり、自然と内股になるという訓練です。

毎週金曜にかんじゅく座の稽古に通う日々。その他にも隔週土曜に「おとこの台所」という料理教室に参加するなど、定年後は充実した趣味ライフを送っている。

――シニア演劇というと、カルチャースクールみたいなものをイメージしがちですけど、かなり本格的ですね。

渡部

単なる趣味の集まりとはまったく違いますね。
なにしろ毎年5月の定期公演では入場料をいただくわけですから、いい加減なものはお見せできない。しかも毎年、台本は書き下ろしの新作なんです。必ず歌の場面があるんですけど、曲はプロの作曲家に頼んで、稽古もプロの講師を呼んで発声練習や歌唱指導があります。
素人芝居に毛が生えた程度だと思って観に来る人もいると思いますけど、衣装も音響・照明も大道具・小道具もすべて本格的なことにみなさん驚かれます。

――これからシニア演劇に挑戦してみたい人にアドバイスをお願いします。

渡部

やっぱり「恥をかけ」ということですね。
これまで背中に背負っていた看板を降ろして、鎧兜を脱ぐことです。だけど男の場合、なかなかこれが脱げない。鎧兜を脱ぐことができれば、恥をかけるものですよ。

かんじゅく座を運営するNPO法人シニア演劇ネットワークは「全国シニア演劇大会」を主催し、全国からシニア劇団が参加。シニア演劇を始めたい人は、まずは近くのシニア劇団を探してみるといいだろう。

舞台を目標にすることでステージ4のがんから奇跡の復活

――「定年後、何をやろう?」というところから始まったのが、今では渡部さんの生き甲斐になっているわけですが、演劇のどんなところに魅了されたのですか?

渡部

ひとつは仲間です。昨日までまったく知らなかった人たちと一緒にひとつのものを創り上げていくということ。それで上手くいったら拍手喝采いただけることは、素晴らしいことだと思います。
もうひとつは、毎年、新作をやるので「今度はどんな役だろう?」という新鮮さがあることです。
芝居の醍醐味は、自分以外の別の人生を味わえることなんですよね。それこそオネエの猫なんて実生活では絶対になれないですから(笑)。

渡部さんがオネエの猫を演じるにあたって悩んでいたところ、娘さんの「美味しい役だよ」という一言に背中を押されたそうだ。

――定年後に新たな仲間ができて交流が広がることを思うと、シニア演劇は格好の場かもしれないですね。

渡部

座員同士の交流だけでなく、私のファンクラブが4つあるんですよ。
ひとつは小学校の同級生7人なんですけど、私がオネエの猫を演じたのが印象深かったらしくて、「猫の会」というファンクラブを作って必ず観に来てくれるようになりました。それから商社時代の同僚が集まったファンクラブが2つと、名古屋に転勤していた頃の支店長仲間もファンクラブを作ってくれてます。
芝居を観に来てくれることをきっかけに、みんなで食事をしたり飲んだりすることが目的かもしれませんが、本当にありがたいと思いますね。

――認知症の予防のためにシニア演劇を始める人もいるそうですが、芝居を続けることで健康面の影響は感じますか?

渡部

実は2年8カ月前にステージ4の直腸がんを宣告されたんです。
定期公演中に日頃とは違う疲れを感じていて、最終日の朝、大変な下血をしたんですね。しかし、不思議なもので、舞台に上がるとぴんしゃんするんですよ。でも、翌日になっても状態がおかしいので病院で診てもらったところ、直腸がんが見つかって、それが肝臓に転移していたんです……。

今朝、完成したばかりだという台本の本読みをする渡部さん。台本ができるたびに、「どんな役だろう?」と毎回楽しみにしている。

――ステージ4というと、5年以内の生存率が十数パーセントという話ですよね。

渡部

がんの宣告を受けて「頭が真っ白になった」とよく聞きますが、私はなんとかなるんじゃないかと思ったんです。楽観主義者です(笑)。
6月にがんを宣告されたんですが、私が芝居をやっていることを主治医に話して、「来年の1月から稽古に復帰したい」とお願いしたところ、そこから逆算して治療のスケジュールを組んでいただきました。
6月中に直腸がんの手術を受けて10日ほど入院し、その後、転移していた肝臓がんも手術をし、抗がん剤治療も受けました。私はあまり副作用が出ないタイプだったんですが、それでもやっぱり辛かったですね。

――それで1月からの稽古には復帰できたんですか?

渡部

復帰できました。病いにかかったときに目標を持つことの大切さを実感しました。
1月にどうしても芝居の稽古に復帰したいという気持ちがあったから、苦しい治療も乗り越えられたんです。やっぱりネガティブに考えず、ポジティブに考えることが大事だと思いますね。
今ではがんを患ったことで、神様が私にプレゼントをくれたように受け止めています。「キャンサーギフト」という言葉がありますが、大袈裟ではなく、日常の細やかなことに喜びを感じるんです。朝、目が覚めると「今日も生きていた。今日も一日がんばろう!」ってね。

左がかんじゅく座の代表であり、企画・作演出を務める鯨エマさん。お芝居をやりたいと思っているシニアをサポートしたいと考え、2006年にかんじゅく座を旗揚げした。

――第二の人生をシニア演劇に捧げているわけですが、あらためて人生を振り返ってみて、どう感じますか?

渡部

人生にはいろんな浮き沈みがあるじゃないですか。それをどう受け止めて乗り越えていくかが大事だと思いますね。
私の場合、会社役員のときに社長と大喧嘩して子会社に出され、多くの仲間から背を向けられるという悲哀を味わいましたが、そのかわり、一から十まで自分でやる仕事のやり甲斐を味わったり、定年を迎えた人の面接を通して、第二の人生で生き甲斐を持つことの大切さに気づけたわけですよね。
がんを患ったことにしても、最初は大ショックでしたけど、キャンサーギフトをいただいて謙虚さややさしさが得られたと思います。だから今の私はハッピーなんですよ(笑)。

――最後に今後の抱負をお聞かせください。

渡部

かんじゅく座と鯨エマさんに出会えた縁を大切にして、気力体力が続く限り芝居を続けていきたいです。芝居は実利や損得を求めない贅沢な時間と空間です。
今はがんが体から消えている完全寛解の状態です。完治ではないので再発の可能性がありますから定期的にがん検診を受けています。他にも去年、加齢で背骨を圧迫骨折してしまって……。こちらも今年5月の公演を目標にリハビリを受けていて、日に日に良くなっています。
やっぱり目標があることが気持ちの張りになっていると思いますね。

――今後も舞台での活躍を期待しています。本日はありがとうございました!

定年後、芝居の他に古文書解読を始めた。実家の蔵にある古文書を研究しているのだが、クセ字が多くて判読が難しく、前後から推測するのがまるでパズルを解くようで面白いという。定年後は、演劇のようにみんなで楽しめる趣味と、一人で没頭できる趣味の2パターン選ぶのがオススメだそう。
浅野 暁
浅野 暁 フリーライター

週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。

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