好きなことをやるのに年齢は関係ない!年250本鑑賞する春園幸宏さんの映画による人生の楽しみ方

「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。

どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。

そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。

今回は、年間250本もの映画を映画館で鑑賞するという春園さんにお話を伺いました。なんと彼はただの映画ファンではなく、エキストラ出演1200本超えという業界ではちょっとした有名人なんです。「映画は私にとって人生そのもの」と語る映画人生とは?

今回のtayoriniなる人
映画ファン歴48年 春園幸宏さん(61歳)
映画ファン歴48年 春園幸宏さん(61歳) 1959年熊本県生まれ。國學院大学卒業後、大手オーディオメーカーに就職。32歳のときに携帯電話会社に転職し、その後、大手通信会社に吸収合併され2020年に定年退職。現在は嘱託社員として仕事を続ける。48歳のときに映画のエキストラに参加し、これまでのエキストラ参加は1200現場を超える。56歳のときに自主映画『CRYING BITCH』を製作。自主映画『ユウカイ犯』『スタブロなんて知らねえよ!』では俳優としても活躍している。

映画館で観ないと映画じゃない。年間250本を観る日々

――映画館で年間250本もの映画を観るそうですが、素朴な疑問として、そんなに映画って上映されているものなんですか?

春園

映画祭やピンク映画などを除いて、東京だけでも年間800作の映画が上映されているそうなんです。私の場合は2度観たり、リバイバル上映を観たりするので250本くらいになるんですね。シネコンだと1日何本もはしごできるので、少なくとも2本は観るようにしていて、1日最大4本観たこともあります。ここ7、8年は毎年200本以上、一番多いときで年間280本くらい観ています。

新鮮な気持ちで映画を鑑賞するためにポスターのコピーを読まないようにするなど、春園さんはなるべく情報を入れないようにしている。寝不足や飲酒を避け、万全の体調で映画館に向かうのだ。

――映画館で観ることに、どんなこだわりを持っているんでしょうか?

春園

“映画館で観ないと映画じゃない”という思いがあります。映画製作者はみんな「スクリーンを意識して背景の隅々まで気を配って作っている」と言うんです。テレビやスマホで観ると、そこまではわからないですよね。それを聞いたらお金を払ってでも映画館で観なきゃって思うじゃないですか。お金を払って観るからこそ、つまらない映画はボロクソ言うし、気に入った映画は徹底して褒めるんですよ(笑)。

――いつ頃から映画にのめり込むようになったんですか?

春園

おふくろが映画音楽が好きで、家でよくサントラのレコードが流れていたんです。いい音楽だなあと思って聴いていたことが映画に興味を持つきっかけでした。それまで親に連れられて特撮やアニメ映画は観てましたけど、13歳のときに初めて自分から映画館に行ったのが、『ポセイドン・アドベンチャー』でした。

それから映画館で観るようになって、当時はパニック映画が流行っていたので、『タワーリング・インフェルノ』『エアポート75』『キングコング』なんかを観てましたね。中でも『燃えよドラゴン』がダントツに好きで、映画館で観ただけでも20回じゃきかないくらい。ブルース・リーは勝手に人生の師だと思っているくらい好きです(笑)。

春園さんの人生ベスト1映画は、高校生の頃に熊本の名画座で観た『ひまわり』(1970年公開)。2年に一度はリバイバル上映で観ているが、何度観ても新しい発見があるという。

――お小遣いを全部映画に注ぎ込むような感じですか?

春園

当時は映画館の学生料金が800円くらいでしたけど、小遣いも多くなかったですから、おふくろの友達が映画館のもぎりをやっていたので内緒で入れてもらったりして、お金をかけずに映画を観るルートを開拓してました(苦笑)。

他にも映画雑誌の『ロードショー』や『SCREEN』を買って貪るように読んでました。高校から『キネマ旬報』を読むようになって、何十年も定期購読していました。私はホラー映画も好きなので『映画秘宝』もずっと定期購読してましたね。

TOHOシネマズシャンテ前にて。シネコンでは新作だけでなく「午前十時の映画祭」で往年の名作もよく観るそうだ。

――大学で上京してからは、名画座やレイトショーに通う日々ですか?

春園

そのつもりだったんですけど、大学で体育会系のクラブに入ったもんですから、練習の後、仲間と飲みに行くのが楽しみで、大学時代はずっと飲んでいた印象です(笑)。映画からちょっと離れていた時期なんですが、それでも年間50本くらいは観てましたね。

大学卒業後はオーディオメーカーに就職したんですが、土日も出社するほど仕事が忙しかったし、25歳で結婚して年子の子供が二人いたので、会社勤めをするようになってからは映画館にはほとんど行けなかったんですよ。

――映画の情熱が復活するきっかけがあったんですか?

春園

32歳のときに携帯電話会社(※その後、大手通信会社に吸収合併)に転職して、40歳までは出世しようと思ってたんです。ところが上の人間と大喧嘩して、レールから外れてしまったんですよ(苦笑)。それで会社のパワーゲームを諦めたわけですけど、ちょうどその頃、介護保険制度が始まって、友達と「独立して介護事業をやろう」と盛り上がったんです。

国家資格を取るために平日は会社勤めをしながら、土日祝日にホームヘルパーの仕事を始めて、休みは年に1日くらいしかないという生活を4年半続けました。ところが44歳のときに身体を壊してしまって……。頚椎症性筋委縮症で腕を上げたり重いものが持てなくなって、ホームヘルパーが続けられなくなったんです。それで休みの日に急に何もやることがなくなって、また映画館に行くようになったんです。

現場を見るのが楽しくて、エキストラ出演1200本超え

――映画鑑賞だけでなく、エキストラとして多数のドラマや映画に出演していますが、こちらもライフワークになっているみたいですね。

春園

初めてのエキストラは『イキガミ』という漫画の映画化でした。連載誌で1000人ものエキストラを募集していたので、「この人数なら受かるだろう」と最初は軽い気持ちだったんです。風吹ジュンさんが選挙演説をするシーンの群衆のエキストラだったんですが、そこへ凶弾が撃ち込まれて群衆が逃げ惑うという設定でした。それが非常に面白くてエキストラにハマってしまって、毎週土日はエキストラに行かないと気がすまないくらいになっちゃって(笑)。

――どうやってエキストラの募集を探すものなんですか?

春園

ネットで募集しているんです。会社から副業を禁止されていたのでボランティアでやっていたんですけど、それなりに人数の多いものばかり応募していたので、ほとんど行けました。
だけど、途中から自腹で行くのもバカらしくなって、エキストラを派遣する事務所に登録したんです。ギャラが出ると言っても交通費替わりに千円や2千円が出る程度なんですけど、それくらいの金額の方が税金の面で都合がよかった。慣れている人は優先されるので、2年目には年間100現場は行くようになりました。

遠方のエキストラ出演では、SABU監督作品『天の茶助』で沖縄ロケに行ったことがある。沖縄に友人がいたこともあり、撮影と観光の両方を満喫したそうだ。

――トータルで何本くらい出演されたんですか?

春園

テレビの現場も含めて1200本を超えます。でも、これでも多い方じゃないんですよ。たとえばご商売をされている方は、仕事の都合をつけて毎日ように現場に出ている人もいます。

――エキストラのどんなところに面白味を感じていますか?

春園

やっぱり撮影現場が見られることです。同じ現場がないですから、常に新鮮なんですよね。あとはエキストラの友達がたくさんできたことです。撮影の後、「今日はぜんぜん出番がなかったね」って文句を言いながら飲むわけですよ。それがまた楽しくて(笑)。

私みたいに現場に興味がある人間もいれば、キャスト目当ての人もいますし、映りたいという人もいっぱいます。まあ、私も映りたくないわけじゃないですけど(笑)。結果的に自分が出た映画を後で観るという楽しみが増えるじゃないですか。たとえば『イキガミ』のエキストラでは長男と二人で参加したんですが、映画を見返すと、若い頃の息子と一緒に映っているので、うれしい記念になりましたね。

ホラー映画好きの春園さんは、以前よくゾンビメイクをしてゾンビ映画に出演していたそうだ。今は日本初のゾンビドラマ『君と世界が終わる日に』のゾンビ役を狙っている。

――思い出深いエキストラ出演というと?

春園

たくさんありすぎてキリがないくらい(笑)。最近だと、映画『記憶にございません』のオーディションを受けたら250人も来ていてビックリしました。台詞もないのにオーディション?と思ったんですけど、主演の中井貴一さんが首相役で、その内閣の15人の大臣役の一人に選ばれたんです。首相役の中井貴一さんが記憶喪失になって国会議事堂に戻ってくるシーンがあるんですけど、左側から拍手しながら近づいていくのが私です(笑)。

それと今年5月に公開される『大綱引の恋』が思い出深いです。昨年亡くなられた佐々部清監督の遺作になるんですが、鹿児島県の薩摩川内市がロケ地だったんです。私は熊本出身なんですけど、本籍が薩摩川内市で小学校3年生まで住んでいたんですよ。佐々部監督とは映画関係者の友達を通じて7、8年来の飲み仲間だったので、「地元なので大勢の一人でいいから出たい」と頼んだんです。そしたら佐々部監督が神主の役を作ってくれて本当に出演することになったんです。

――思い出の地で映画出演とは、まさに運命的ですね。

春園

新田神社という地元で一番大きな神社の神主役で、私も小さい頃に毎年初詣をしていた神社なんですよ。祖父が薩摩川内市で建設会社を経営していたんですけど、新田神社の神主さんと懇意にしていて、神社の建物を建てたり灯籠を寄贈しているんです。撮影の際、神主さんとお話したら、祖父にはお世話になったという話をされて、「私よりあなたの方が神主に似合ってますよ」と言われたりね(笑)。

撮影は2日間だったんですけど、1週間休みをとって親戚の家に泊まらせてもらいました。熊本からおふくろを呼んで、鹿児島を一緒に観光して親孝行もできましたね。

好きな映画は数え切れない。ちなみに元気が出る映画ベスト1は『ロッキー』、ホラー映画ベスト1はジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』、泣ける映画ベスト1は『異人たちとの夏』だ。

映画好きが高じて、ついには自主制作映画に挑戦

――エキストラ出演にとどまらず、自主映画を製作していますが、どういう経緯で挑戦することになったんですか?

春園

再び映画館に通いだしたとき、台東区主催の「したまちコメディ映画祭」が始まって、第2回から第10回までボランティアのサポーターをやっていたんです。ところが台東区が映画祭をやめることがわかって、サポーターのみんなで「記念に残るショートムービーを作ろう」と飲み屋で盛り上がったんです。だけど、具体的になると話がさっぱり進まない。「だったら俺が作る」となって、エキストラで知り合った助監督やスタッフに声をかけまくって作ったのが『CRYING BITCH』なんです。

キャストもまさか女優の佐伯日菜子さんが出てくれるとは思ってもいなかったです。たまたま私がファンでFacebookでつながっていたので、ダメもとでメッセージを送ってみたところ、脚本を読んで快諾してくれたんですよ。

『CRYING BITCH』のフライヤーやエキストラ出演した映画の台本など思い出の品々。

――自ら映画を製作し自ら出演するなんて、映画ファンとしては、究極の映画との関わり方ですよね。

春園

完成試写を観たときは涙が出るくらいうれしかったですよ。それから全国15カ所くらい映画祭を周ったんですが、第20回の「DigiCon6」でSilver賞を受賞したんです。普通に出演するだけとは違って、企画からスタッフ決めまで全部私が関わっているので思い入れが違いますよね。そうやって作った映画は自分の子供みたいなものですから、映画祭で上映して「面白かった」と言ってもらうのが何よりうれしかったです。

――その後、2本の自主映画に俳優として出演されていますね。

春園

角田恭弥さんという助監督さんとすごく仲よくしているんですけど、あるとき打ち上げの席で「今の日本映画は助監督から監督になれない」という話題になったんです。そこで私が「自主制作で撮るべきですよ」と言って角田さんをその気にさせて、『ユウカイ犯』ができたんです。
私は「しょぼくれたおっさんが実は強い」という役どころで、素人にアクションをやらせるというムチャ振りだったんですけど、その役で「渋谷ミクロ映画祭」の最優秀助演俳優賞をもらったんです。みんなから冷やかされましたけど、私が一番ビックリしましたよ(笑)。

自主映画『ユウカイ犯』では俳優としてアクションを披露し、最優秀助演俳優賞を受賞。これで人生の師ブルース・リーに一歩近づいた(かもしれない)。

――自主映画『スタプロなんて知らねえよ!』は映画のオーディションという設定で、春園さんはエキストラの大ベテランという役でしたね。そのまんまですが(笑)。

春園

これも角田さんの監督作なんですが、もともと自主映画のオーディションを兼ねた演技のワークショップを開催したことが元になっているんです。だから私の役も完全に当て書きで、役名も花園幸宏ですから(笑)。

去年の10月に撮影したんですが、コロナ禍で俳優さんたちが芝居に飢えていたんです。それで俳優と監督の全員で一人4万円ずつ出し合って作りました。バイト生活の若い俳優さんからすると4万円は大金ですよ。みんな身銭を切ってでも映画を撮りたかったんです。

私も『CRYING BITCH』の次の作品を3年がかりで準備していたんですが、コロナで延期しているうちに監督とスタッフの都合がつかなくなって、苦渋の決断で製作を中止しました。コロナがいつ収束するかもわからないから、正直なところメゲてしまった……。だけど、映画作りを諦めたわけではなくて、次はどんな映画を作ろうかと考えています。

――あらためて春園さんの人生にとって、映画はどんな意味を持っていますか?

春園

映画がなかったら「俺の人生何だったんだろう?」と思うくらいですよ(笑)。映画から教えてもらったことは本当にいっぱいあって、自分を人間として成長させてくれた“人生の教科書”みたいなものだと思っています。

仕事のストレスを抱えているときに映画を観てスカっとしたり、自分が経験できないことを疑似体験させてくれたりして、映画は一番リーズナブルな非日常だと思ってます。エキストラや俳優らしきことをやるのも、自分とは違う誰かの人生を演じるような感覚で、非日常としての映画を楽しんでいるんです。エキストラを通して映画関係者の知り合いもたくさんできたし、私にとって映画は人生そのものですよ。

――本日はありがとうございました!

自主映画『CRYING BITCH』

<世界共通言語のホラーを作ることで、海外でも通用する作品にしたかったという。>

取材・文・撮影=浅野 暁

浅野 暁
浅野 暁 フリーライター

週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。

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