「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
今回は、トレジャーハンター歴46年という作家の八重野充弘さんにお話を伺いました。たとえ埋蔵金が発見できなくても、探し続けることに面白味を見出すその生き方は、「埋蔵金ファン」と言えるかも。宝探しをライフワークとする彼の人生哲学とは?
――日本を代表するトレジャーハンターとして、HPで宝探しにのめり込むことの危うさを警告しているのが印象的でした。まずは宝探しの心構えから聞かせてください。
これまでにいろんな例を見て教えられたことなんです。本気で発掘しようとする人はだいたい10年か20年で潰れるか、辞めていきます。最初はそれなりに資金があって、援助してくれる人や協力してくれる仲間がいても、やっぱり結果が出ないと人は引いていく。お金の面で厳しくなるのもあるけど、社会から見放されていくわけです。
それでも諦めきれなくて、最後は食うや食わずで独り寂しく山の中で死んでいったという人がけっこういたんですね。一歩間違えると、非常に危険な世界だというのは、やり始めた頃から僕も肝に銘じてました。
埋蔵金探しは本当にあるという保証が一切ない世界です。実際はない可能性の方がずっと高い。だから100%信じて探すのは間違いだろうと思います。どこまで掘るか、どこで引き際を見極めるか、この判断が非常に難しい。「そのくらいにしといたら」と肩を叩いてくれるもう一人の自分を持つべきだ思いますね。
ただし、100%ないとも言い切れないのが、この世界の面白さでもあるわけです(笑)。
――たしかに完全に疑いながら宝探しをしても面白くなさそうですね。
ぜんぜん面白くない。僕は現場では「本当にある」と思って発掘します。あの面白さは自分でやってみないとわからない。あとは自分のできる範囲で無理をしないことが大切です。
資金援助を申し出る人がけっこういるんですけど、一切お断りしています。それを受けてしまうと結果を出さなくてはいけなくなって、自分の楽しみではなくなってしまいますから。
――八重野さんが宝探しに目覚めたきっかけを教えてください。
子供向け雑誌の編集者をしていた頃、埋蔵金研究の第一人者である畠山清行さんの本を読んで、天草四郎の埋宝伝説を知ったんです。郷里の熊本にそんな伝説があるなんて知らなかったから、これは面白いと思って記事にしようと考えたんです。それで実地調査をして一応は記事にしたんですね。
僕の中ではそれで終わりだったんだけど、後日、地元の知人から古文書にある「三角池」を見つけたという連絡があって、ひょっとしたら……と思って行ったのがきっかけでしたね。水田に穴を掘るようなもので、どうやって探すの?と途方に暮れましたけど、地元の仲間を集めて、みんなで汗をかきながら宝探しをするのが楽しかったんですね。
――いったん打ち切りにしても、後から「あそこ掘ってないな」と気になりそうですよね。
そうなんです。それが次の動機になって、どんどんハマっていく(笑)。それから天草にたびたび通うようになって、それが4年ほど続きました。
その後も一カ所だけ気になっていた場所があって、今年の3月に関西のテレビ企画で調査してきました。三角池の奥の一番目立たない場所なんですが、そこは昔、イタリア人の神父にダウジングで見てもらったときに示された場所でもあって、ずっと気がかりだったんです。十数年前にもNHKのローカル番組でその場所を調査しようとしたんだけど、そのときは水びたしで奥まで行けなかった。今回は探知機で調査することができたんだけど、やっぱりダメでしたね(苦笑)。
そんなふうに今でも可能性が残っていると思う場所が、天草を含めて5カ所あるんです。
――全国各地の埋蔵金探しをするようになるのは、どういう経緯なんでしょうか?
天草の埋宝探しを記事にする際、この伝説を知るきっかけになった畠山先生に監修を頼んだんです。天草に通いだしてからもその都度、手紙で報告していたんですが、それまで一切返事をくれなかったのが、日本旅行記賞を受賞した掲載誌を送ったところ、便箋10枚くらいの手紙が届いたんです。
当時20代の僕がこの世界にのめり込んでおかしなことにならないかと畠山先生は心配していたそうです。それが旅行記を読んで安心したと。
その後、「徳川埋蔵金を掘るから手伝いに来ないか」と畠山先生から連絡があったんです。埋蔵金研究の第一人者である先生からのお誘いで、しかも一番有名な徳川埋蔵金ですから舞い上がりましたね。
――徳川埋蔵金というと400万両が隠されたともされるケタ違いの伝説ですが、見つかると信じていましたか?
畠山先生はトレジャーハンターというより研究者として文献を調べることが中心だったんですが、晩年になって一つくらいは自分で見つけたいと思うようなり、何カ所か自分で発掘しているんですね。その一つが群馬県の永井なんですが、これまで本にも書かずに取っておいた情報だと言うんです。
畠山先生がそうおっしゃるくらいだから、90%くらいは「ある」と信じてましたね。だから、ずいぶん会社も休みましたよ(笑)。
昭和37年に道路工事によって昔の横穴が見つかったんですが、すぐに埋め戻されたんです。畠山先生はここが徳川埋蔵金の隠し場所だと推測していました。しかし、12メートルも縦穴を掘ったんですが、これがなかなか見つからない。
それが調査2年目に国道脇を掘ることになって、ついに横穴を発見したんです。畠山先生も絶句してましたね(笑)。
――人生でそこまで胸おどる瞬間もなかなかないですよね。結果はどうでした!?
真の闇の中、人が一人通れるほどの細い穴が延々続くんですが、この先にお宝が眠っているかと思うと、冒険小説の主人公になったような気分でしたね。結局、手にするものは何もなかったけど、そのときの経験がその後の調査の参考になります。
埋蔵金とは銀行がなかった時代に一時的に保管するために埋められたもので、ほとんどはすぐに掘り出されて使われたと思うんです。その横穴は、一時的に埋蔵金の隠し場所として利用されたのかもしれないけど、直後に取り出されたとも考えられます。
徳川埋蔵金については多くの伝承があって、それらしき痕跡もたくさん残っているんですが、僕の推測では、4、5年前から準備を始めたものの結局、お金が集まらず計画倒れに終わったのだろうと思います。
だけど、まったくなかったわけではなく、僕の計算では50万両前後が分散されて隠されたと考えています。それでも現代の価値だと数百億円から数千億円になるんですよ。
――これまでに30カ所以上を踏破して、13カ所を発掘調査したそうですが、お宝発見にもっとも近づいた思える場所は?
やはり一番は永井の徳川埋蔵金ですね。その次が群馬県片品村の金井沢金山です。この話を教えてくれたH氏はすでに亡くなっていて、今となっては本当か作り話かわからないのですが、昭和30年代にH氏は山仕事仲間と金山の坑道に入り、徳川埋蔵金の一部と思われる千両箱16個を発見したそうです。1個は回収できたけど、仲間が誤って穴に落ちて死んでしまったそうなんです。
それがまったくの嘘とは思えないのは、H氏はネパールに学校を5校寄贈していて、その千両箱を役立てたのではないかと考えられるんです。半信半疑ながらも一部は真実が含まれていると感じて、金山の坑道があるという場所を掘ることにしました。いくら掘っても坑道の入り口が出てこなかったんですけど、ついに見つけたときは万々歳ですよ(笑)。
――実際に千両箱を見たという人の情報ですから信憑性がありますね。
本当にH氏に教えられたとおり、坑道を70メートルほど進んだところで二手に分かれていて、左側に10メートルほど行ったところに立て坑がありました。その穴の底に15個の千両箱があるという話なんですが、立て坑に水が溜まっていたんです。一日がかりで水を抜いて穴の底を調べたんですが、結局、千両箱は見つからなかった。
もしかしたら穴に落ちて亡くなったとされる人が生きていて、残りの千両箱を回収したのかもしれません。というのも、遺言で亡くなった方の供養を頼まれていたので線香を持って坑道に入ったんですが、結局、遺体はなかったんですね。
――それまで出版社に勤めながら埋蔵金探しをしていたわけですが、やはり退職後から本格的にトレジャーハンターとして活動するようになったんですか?
退職直前からですね。1990年に畠山先生がお亡くなりになってから、埋蔵金がらみの話が僕に集中するようになったんです。その頃、僕は雑誌の編集は若手に任せて、役職を付けられていました。そうすると僕が一番嫌いな会議とお金の計算ばかりの仕事になって、そろそろ潮時だと思って44歳のときに退職しました。
退職後はとにかく忙しかった。徳川埋蔵金の本を一冊書く仕事と埋蔵金探しのテレビ特番が決まって、ロケ先の旅館で原稿を書いてましたね。
――当時、TBSで糸井重里さんの徳川埋蔵金の番組がブームがなってましたね。
僕はTBSの番組には関わっていなくて、むしろ「素人騙し」だと主張していました。重機で大きな穴を掘って、いくつか横穴が見つかったと騒いでましたけど、僕たちはそれが何であるか知っていました。
昭和13年頃に軍隊が埋蔵金を探すためにあの辺を掘りまくっていて、その跡を見つけたにすぎないんですよ。あんな所をいくら掘っても見つかるわけがない。ところが番組は高視聴率を取って埋蔵金探しがブームになった。それでテレビ朝日から同じような番組をやりたいとオファーがあったんです。
それなら同じ徳川埋蔵金で、もっと信憑性のあるところを発掘しようと考えたんです。それで群馬県昭和村のある場所を発掘調査することになったんだけど、結局、地主の許可が降りなくて失敗に終わりました。だけど、その番組に出演したことで、各地からいろんな情報が寄せられるようになったんです。そのひとつが金井沢金山の千両箱の話だったんですね。
――他にも信憑性のありそうな話はありましたか?
大半は疑わしい話なんですが、中には驚くような話が舞い込んできましたね。あるとき電話がかかってきたんです。その人は高齢になるまで敦賀の山中で宝探しを続けてきたんですが、諦めきれなくて跡を継いでくれる人を探していると言うんです。それは戦争中に日本軍が隠したとされる大陸からの略奪品という話でした。
最初はあまり興味が持てなかったんですが、探索記録の写真を見て、これは!と思いましたね。戦後に地元の有力者が仲間と何年も探して見つからず、鉱山技師に協力を頼んだところ、土で埋め戻されたトンネルが見つかった。最初に探していた人たちは亡くなって、一人だけ残ったのがその人だったんです。
――それで実際に発掘に向かったんですか?
1998年から年4回くらい4年ほど通いました。トンネルの奥に石垣のように岩を重ねた場所があって、その奥に隠し場所があると推測されるんですが、トンネルがどこから崩れてもおかしくない状態だし、酸素も薄くて危ないので今は中断しています。そこにたどり着くまでの山道が2時間以上かかるので、一回入ると3泊ほどキャンプをするんですが、大きな荷物を担いで行くので体力的に厳しくなったというのもありますね。
――一時中断ということは、まだ諦めてないわけですか?
ないほうがおかしいくらいなんですよ。昭和15年に日本軍が凱旋帰国して、山の麓にある陸軍駐屯地に略奪品を保管していたんだけど、戦況が悪くなり、略奪品が見つかると戦後に問題になると判断して山に隠したという話なんです。美術工芸品が主らしいんですが、隠した昭和19年当時で3億円相当の値打ちだったというから、骨董的価値や文化財的価値からすると、今だと1千億円はくだらない。方法さえ見つかればまた再開したいと思っていますね。
――ぜひ見つけてほしいです! 最後に46年間に渡るライフワークとなった宝探しの醍醐味を聞かせてください。
「こんなに面白いことはない」というのが一つの答えですよね。僕は3つの要素と説明しているんですが、まず知的好奇心を満足させてくれること。結局、宝探しは“真実を知りたい”ということなので、それを知るためには様々な知識が必要になってきます。埋蔵金探しを通して知り得たことは本当にたくさんあって、知識量が増えて自分自身が向上できたと思いますね。
2つ目が、身体を使うこと。機械で掘ったり人に任せるのではなくて、自分で動かないとつまらないわけです。僕は73歳の今も自分で掘るんですが、若い頃に比べると体力的に辛いけど、やっぱり自分で掘らないと気がすまない。穴掘りで身体が鍛えられて、それがいまだに財産として残っていると思います。3つ目が、引き際を見極めなければいけないこともあって、強い精神力が養われること。宝探しを通して人間修行をやっているようなものだと今にして思いますね。
これからも一生続けるんじゃないですか(笑)。
――本日はありがとうございました!
取材・文・撮影=浅野 暁
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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