「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
今回は、大衆演劇のファンブログを運営する阿部さんにお話を伺いました。横浜に暮らす彼は、家の近くに三吉演芸場を見つけて通うようになり、役者やファン同士の交流を通して大衆演劇の世界に魅了されていったといいます。人生を豊かにする大衆演劇の魅力とは?
――大衆演劇をレポートするブログを運営されていますが、定年後は大衆演劇が生活の一部になっているようですね。まずは大衆演劇との出会いから聞かせてください。
私は秋田県の生まれなんですけど、娯楽の少ない田舎だったので、楽しみといえば大衆演劇だったんですよ。当時は東北を中心に周っている劇団が年に何回か来て、小学校の体育館とかで上演してたんです。子供から年寄りまで観ていて、浪曲大会から女相撲までやってたけど、やっぱり人気は大衆芝居。怪談ものなんかもあってワクワクしてましたね。芝居が前編と後編に分かれていたりして、これからというときに前編が終了して、次を観たければ明日も来いというわけです(笑)。そういうのを観て育ったので、自然と大衆演劇が身近だったんですね。
――昭和30年代はまさに庶民の娯楽だったんですね。今は横浜にお住まいですが、その後はどんな人生を歩まれたんでしょうか?
大学で上京して、卒業後いったん会社員になったんですけど、北海道に転勤だというのですぐに辞めてしまったんです。そのとき家内と結婚するつもりでしたから、神奈川県内で仕事を探したところ神奈川県庁の募集があって、それから定年まで地方公務員として勤めました。定年退職後も半官半民の団体に5年、純民間団体で4年ほど勤めて、70歳近くまで仕事をしてましたね。
――大人になってから大衆演劇を観るようになったきっかけは?
横浜に大衆演劇の劇場があることを知ってからです。神奈川県庁に勤めていた30代の頃、県庁から家まで歩いて30分ちょっとかかるんですけど、あるとき川沿いを歩いて帰ることにしたんです。そしたら川沿いに古びた芝居小屋らしきものが見えて、それが三吉演芸場でした。
これはいいと思って家内に聞いたら、「あんなところには絶対行かないで」と言われましたね(苦笑)。いまだに偏見が残ってますけど、大衆演劇というとガラが悪い、品がないという印象があって、周辺の人はあまりよく思っていなかったんです。私の田舎では決してそんな印象はなかったけど、こっちでは客層も良くないと思われていたわけです。
だけど、行くなと言われるとよけいに行きたくなる(笑)。「今日は残業だから食事はいらない」と嘘をついて、家内に隠れて三吉演芸場に行くようになったんです。しょちゅう行ってるとバレるのでほどほどにしてましたけど、それでも月2、3回は行ってましたね。
――子供の頃に観るのと、大人になって観るのとでは大衆演劇の楽しみ方も変わりますか?
ビールとおでんを食べて芝居を観るんですが、これがたまらなく面白味がありましたね。お客さんはほとんどおばあさんで、当時の私はまだ若かったからモテました(笑)。品が悪いと言われていたけど、私はまったくそういう印象を受けなかった。人懐っこいというか、人情味があるというか、私がおでんを食べていると、おでんを買ってきて差し入れてくれるんですよ。昭和50年代の話で、今はお酒を飲みながら観る人も少なくなったけど、今でもそういう気楽さや人情味は残ってますね。
私にとって大衆演劇は仕事のストレス解消にもなってました。たとえば歌舞伎は、台詞もわけがわからなくて難しいですよね。だから気楽に観る感じでもない。それに比べると、大衆演劇は単純明快だから、頭を空っぽにして観ることができる。とにかく面白い、楽しい、それだけなんですよ。ときには人情もので泣いて、ときには悪を懲らしめる爽快感もある。高倉健の映画みたいにイジメ抜かれて最後に立ち向かうという展開にスカッとしてましたね(笑)。
――大衆演劇というと、80年代に梅沢富美男がテレビで大人気でしたね。僕くらいの世代だと、あれで大衆演劇というものを知った感じでした。
テレビに出るもっと前から梅沢富美男が三吉演芸場に出ていて、生で観てましたよ。お兄さんが座長を務める梅沢武生劇団の座員として梅沢富美男がいて、その頃はすらっと痩せていて、化粧をするとピーターみたいな二枚目になるんです。よくギャグでやってたのが、「兄貴は引退して、早くオレを座長にしろ」っていうやりとり(笑)。芝居では三枚目をやって、舞踊ショーではものすごくきれいな女形に変身するんですよね。
――笑いの要素がふんだんにあることが、大衆演劇特有の魅力なんでしょうね。
舞台と客席が一体となって楽しめるんです。必ずといっていいほど、台本通りにいかないハプニングが起きるものなんですが、役者さんはそこでどんどんアドリブをきかせて、客を巻き込むんです。ファンからすると役者さんはアイドルみたいなもので、それが身近な感じで話しかけてくるわけだから、その喜びは大きいですよね。
私は大衆演劇を“体臭演劇”だと思っているんですが、それこそ体臭を感じるくらい身近なことが魅力なんです。そうした人との近さが、老人にとっては孤独感を癒やしてくれるわけですよね。
――奥さんに隠れて三吉演芸場に通う日々は、定年まで続いたんですか?
途中でバレました。秋田の母が横浜に来ると三吉演芸場に行きたがったんです。それで「あんたも行ってるんじゃない?」と家内に言われまして(苦笑)。それからは家内も行くことを認めてくれるようになったんですけど、まだ日陰の身という感じでしたね。
ところが、あるとき大衆演劇を毛嫌いしていた家内が三吉演芸場に行くことになったんです。その頃、息子が新劇の役者をやっていたんですが、大衆演劇の面白さを知って家内を誘ったわけです。家内からすると、息子が大衆演劇の役者になるつもりなんじゃないかって気が気じゃなくて、しぶしぶ行くことにしたみたいですね。
そしたら、いきなり舞踊ショーで演歌が流れたんです。家内は演歌アレルギーなので立ち上がって帰ろうとしたらしいのですが、息子が引き止めるので仕方なく観たところ、「とても愛嬌があるし、心が癒やされた」と言うんです。客層にしても品が悪い印象ではなかった。それから家内の大衆演劇の印象が変わったんですよね。
――ようやく奥さん公認で大衆演劇ファンを名乗れるようになったわけですね。
三吉演芸場の近くにファンと役者が集まる「樹林」という喫茶店があったんですが、そこを教えてくれたのが家内なんです。あるときNHKの番組で樹林が紹介されているのを見て、「あなたも行ってらっしゃい」と言うので、さっそく行ってみたんです。樹林に通いはじめてから、大衆演劇の見方も変わりましたね。
樹林には夜の部を終えた役者さんたちが化粧を落として食事に来るんですよね。そこで役者さんとの交流が始まって、これまで役者とお客という関係だったのが、人間対人間になって、私たちと同じ生活者として応援するようになったんです。家内も私と一緒に樹林に通うようになって、役者さんやファン同士の交流が深まっていったんですよね。
――高齢になると新しい人間関係がなかなかできないものですが、阿部さんの場合は、大衆演劇を通して新たな交流が広がっていったんですね。
ええ、全国に交流が広がりましたね。定年後は親交のある役者さんや劇団を観るために地方の劇場に遠征するようになったんですが、これまでに大衆演劇が盛んな大阪、九州はもちろん、関西、東北、中国地方、四国など全国各地に行きました。そうすると私のブログを読んでいる人と出会って、夜は食事をしましょうとなるわけです。それで観光地も周らず帰ってきちゃうんです(笑)。逆に地方から関東に遠征する人と友だちになることもあります。定年前は想像もしなかったような楽しい世界を生きてるんだなあと実感しますね。
――演劇や映画はたいがい一方通行の娯楽ですけど、大衆演劇は双方向の娯楽という感じですね。役者さんとの交流で印象深いエピソードはありますか?
女優の浅井ひかりとの出会いですね。当時14歳だった浅井ひかりが三吉演芸場で公演したんですが、その後、家内が遠征してその劇団を観に行ったんですね。この世界には役者にお金を渡す「お花」という習慣があるんですが、家内が初めてお花に挑戦しようと思って舞台に近づいたところ、座長に渡しそびれてまった。すぐに次の女の子が出てきたので、咄嗟にその子にお花を渡してしまったんですね。
家内がそのとき渡したお花は1万円でしたが、中学生の女の子からするとけっこうな金額ですから、本人もビックリしたわけです。きっとこの人は私のファンなんだ!と思ったらしくて、舞台の後、家内に電話番号を書いた紙を渡してきたんです。それから交流が始まって、家内は浅井ひかりの成長を見るのを楽しみに劇団を観に行くようになりました。そのうちだんだん情が深くなっていったんですよね。
――奥さんも遠征して観劇するようになるとは、夫婦そろって大衆演劇ファンですね。
私は定年後も仕事をしてましたから家内が一人で遠征することもありましたけど、休みのときは旅行がてら二人で遠征したりしてましたね。
70歳になる前に仕事は辞めたんですが、実は家内が脊髄損傷の大怪我をしまして、介護もあってのことなんです。家の階段から転げ落ちて、あと数分遅れたら命が危うかったという大事故だったんですが、幸い一命はとりとめたものの首から下が完全に麻痺してしまって……。退職後はいろんな劇団を観るために二人で全国を旅行する計画を練っていたんですが、結局それもできなくなってしまいましたね。
――それは本当に辛い状況ですね。今はどんな介護の日々を送られていますか?
以前はほとんど毎日、病院に行って5、6時間は一緒に過ごしてました。まずお昼ごはんを一緒に食べて、それから家内がオーディオブックを聴いたり、ドラマを観ている間、私は横で居眠りをしたりね。だけど、家内は私がそばに居るだけでうれしいようで、私のそんな姿を見てほっとしてるみたいですね。
毎年、浅井ひかりが見舞いに来てくれていますね。お見舞いというと普通は2、30分のものだけど、舞台の話をしたり、兄弟の話をしたりして2、3時間は普通にいるんです。本当に肉親みたいな感じで、家内も孫のように感じていると思います。
他にも個人的な付き合いのある役者さんが、電話をくれたり果物を送ってくれて、私が応援している女優の水木利子は、噛まずに食べられる患者用のおせち料理や九州のソフトドリンクを送ってくれました。あとは私のブログを読んでいた人が、浅井ひかりの舞台動画をネットで送ってくれて、家内も一生懸命、観てましたね。大衆演劇の世界を知ったことで、情の厚い人たちと出会えて本当に良かったと家内も実感していると思います。
――そうした状況で、大衆演劇に心が救われたりすることは?
以前は週2、3回は観に行ってましたが、病院の面会時間もあるので前ほど回数は行けなくなりましたね。ただ、それもあるけど最初の頃は気持ちが入らなかったですね。やっぱり大衆演劇は気分がいいときに観るとどんどん元気になるものだけど、気分が沈んでいるときに観て元気になるかというと、そう簡単にはいかないですよね。
だけど、医者から余命3年から5年と言われていたのが7年目に入って、ここ2、3年は気持ちも落ち着いてきたので、家内に「三吉演芸場に行ってもいい?」と聞いて、また行くようになりました。病院を4時半くらいに出れば、夜の部に間に合うんです。
でも、今は新型コロナの影響で月に1回しか家内に会えなくなっているんです。しかも直接面会はできなくて、オンライン面会です。そういう状況だから気分も晴れないですけど、もし大衆演劇がなかったら、もっと気分が沈んでいるでしょうね。
――そういうときこそ、息抜きになるものや夢中になれるものがあるといいですよね。
大衆演劇がなかったら今頃つまんない人生だったと思いますよ。大衆演劇の役者さんたちは、なんとか来た客に楽しんで帰ってもらおうという気持ちが非常に強いから、観に行くと活力が湧くんですよ。それに加えて個人的な付き合いがある役者さんが励ましてくれるし、ファン友だちが全国にできて、家内と一緒に大衆演劇から生きる活力をもらってます。
夫婦で大衆演劇みたいな人生を送っているなあと感じますね。
――本日はありがとうございました!
取材・文・撮影=浅野 暁
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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