「人生100年時代」と言われる今の時代。ところが、寿命をまっとうする以前に多くの人に「健康寿命」が訪れ、体や精神がままならない晩年を過ごすことが一般的だ。
どうせなら死ぬまでいきいきと暮らしたい。そのためには、会社を退職しても、家族と死別しても、絶えず居場所や生きがいを持つことが重要だと言われている。
そんなとき、何かの趣味に熱中し、そこに居場所を見つけた人の生き方は、人生100年時代を楽しく過ごすヒントになるのかもしれない。
第2回は、ザ・タイガース時代から52年間に渡って沢田研二を追い続け、『沢田研二大研究』の著書を持つ國府田さんにお話を聞いた。「ジュリー教の信徒」を自認する女性ファンがみすえる、老後とは?
――半世紀以上にわたる沢田研二ファンの活動記録でもある『沢田研二大研究』を上梓されましたが、初めてジュリーに出会ったときは、どんな感じでしたか? 最初の頃は、まさかこんなに長くファンを続けるとは思ってもいなかったと思うんです。
中学1年生のときにテレビでザ・タイガースを見てジュリーのファンになったんです。やっぱり最初は顔に惹かれたんでしょうね。当時のジュリーは、マスコミに歌が下手だと揶揄されていたんですけど、歌が下手でもいいやって思ってました。なぜなら当時のファンは熱病に浮かされたようにキャーキャー叫んでいて、歌なんて聴いてなかったんですよ。ファンはジュリーに対して星の王子様みたいなイメージを作っていたけど、本当のジュリーはもっと男っぽい人で、内心では「オレは違う」と思っていたでしょうね。
――ファンクラブの会報誌への投稿がきっかけで、ジュリーへの想いを“書くこと”に目覚めたようですね。
15歳のときにジュリーの私設ファンクラブ「JFC」に入ったんです。そしたら毎月『JULIE』という会報誌が送られてくるわけです。当時のザ・タイガースはジャズ喫茶でよく演奏していて、ステージの横に会報誌『JULIE』を置いていたそうです。ジュリーが「いつも楽しみにしている」と言って持っていくという話だったので、ジュリーが読んでるんだから、書かなきゃ!って(笑)。
――ザ・タイガース解散後も熱は冷めなかった?
ジュリーがソロになってからは、渡辺プロダクション友の会の「沢田研二ファンクラブ」に変わりました。私は広島支部の副会長になって、会報誌『LIBERTY』を作ったり、コンサートの物品販売を手伝ったりしていました。スタッフとしてジュリーに会えるかもしれないという姑息な考えだったんですけど、絶対に楽屋には入れてもらえなかった。入れてもらう、という発想もなかったです。うどんの出前があると、「今、ジュリーはうどんを食べてるんだ」と思ったり、リハーサルの音が聴こえてくるだけで満足してましたね。
――結局、ファンクラブ経由ではジュリーに会えなかったんですか?
1977年に「勝手にしやがれ」が日本レコード大賞を受賞したんですけど、その4日前に広島公演があったので、宮島まで行って必勝しゃもじを祈願したんです。そしたらマネージャーが私たちの長年の功績を認めてくれて、楽屋に入れてくれたんですよ。そのとき初めてジュリーに直で会って、祈願しゃもじを渡しました。「おおきに」と言ってくれましたね(笑)。
――やはりファンとしては、プライベートのジュリーに会いたいものですよね。
やっぱりそばにいたかったですね。追っかけをしていた頃もあるんですけど、新幹線のグリーン車でバースデーサインをお願いしたり、松山行きの水中翼船の出発待ちの時間に2ショット写真を撮ってもらったこともあります。あの頃は追っかけがすごくて、ジュリーがバスで移動すると、タクシーが4、5台続くんですよ。私も2回ほど空港からタクシーで追っかけたことがある。運転手さんに「すぐ後ろに付けて! 危険手当払うから!」って(笑)。当時は広島に住んでいたので、ジュリーと同じホテルに泊まったり、駅や空港で追っかけができるのはジュリーが中国地方に来る3、4日くらい。四六時中追っかけができる東京のファンがうらやましかったですね。
――それまでファンクラブ会報誌に寄稿していたのが、90年代末から國府田さんの個人ファンサイト『Julie’s World』へ、書く場所が変わっていったようですね。
ずっと会報誌に書き続けていたわけですけど、紙は朽ちていくじゃないですか。それでインターネットに残そうと思ったんです。1997年にパソコンの使い方もよくわからないまま始めたんですけど、ホームページの作り方も一から自分で調べて、会報誌の原稿をhtmlに直接書き写していたんですよ。その作業が1年かかって、やっているうちにブラインドタッチもできるようになった。自分の想いを残したい一心でしたね。
――ファン歴52年という人は他にもいるかもしれませんが、ファン活動の記録を52年間書き続けている人は國府田さんだけだと思います。そう思うと、貴重な記録ですよね。
もはやライフワークですよね(笑)。コンサートの後、ファンはオフ会をやることが多いんですけど、私は一刻も早く帰って書きたい。広島にいた頃、東京のコンサートの様子を一刻も早く知りたかったけど、当時は1カ月後に送られてくる会報誌しか知る手段がなかった。今はネットの時代だから、私が帰ってすぐ書けば、コンサートに行けなかった人もすぐ知ることができるじゃないですか。私だったら知りたいと思うから、早く教えてあげたいって思うんです。
――広島から上京されたのは、やはりジュリーの活動拠点が東京だから?
16年間ほど広島の呉で結婚生活を送っていたんですけど、離婚を機に48歳のときに上京することにしました。それまでも広島から東京までコンサートを観に行ったりしていたんですけど、旅費を考えると東京で家賃を払ったほうがいいんじゃないかって思ったんです。
――何のアテもなく48歳で上京・仕事探しという状況は、普通なら不安なものですが、むしろ第二の人生として、ますますファン活動ができると?
最初は貯金を切り崩しながらでしたね。だけど、東京にお友達もいたし、私のホームページを通して親しくなったファン仲間がいたので、不安はなかったです。その頃はジュリーがほとんどテレビに出なくなっていたんですけど、東京でよく音楽劇をやっていたので、生でジュリーを観るほうがいいやって思っていました。
――一番多いときで年間何本くらいコンサートや音楽劇を観ましたか?
音楽劇『大悪名』などををやっていた会場が、私が勤めている会社から徒歩5分だったんですよ。2017年には全22公演のうち10本観て、その年はコンサートも10本行ったので、合わせて年間20本です。最近はジュリーが平日にコンサートをやるので、有休を使って行くんですよ。私は会社でもジュリーファンだと公言しています。今年(2019年)の全国ツアー「SHOUT!」も全部で11本行きます。
――ということは、ここ数年がもっともファン活動が盛んなわけですね(笑)。年を重ねると、心の底から楽しめることがなくなってきそうなものですけど、國府田さんのように大好きなものがある人がうらやましくなります。
コンサートに行くたびに感動があるんですよ! 遠くの席からジュリーを観ているだけですけど、私としてはジュリーに会いにいくつもりで、必ずオシャレをして行こうと思う。ブラウスでもいいし、ハンカチでもストッキングでもいいから、何かひとつは新しいものを身に着けて行くようにしていて、それがドキドキすることでもあるんですよね。
――2018年に、ジュリーがさいたまスーパーアリーナ公演をキャンセルした騒動が話題になりましたが、昔ながらのファンとしては、どう受け止めていますか?
あのとき私は会場にいて、なぜ客入れしないんだろう?と不思議に思っていたんです。そしたらスタッフが拡声器で「契約上の問題で」と説明していたので、むしろほっとしましたね。一番心配だったのは、転んで怪我をしたとか、心臓麻痺で倒れたといったトラブルで、ジュリーが元気なら中止になってもいいやって思いました。その後、世間的にバッシングされましたけど、私からすると、「あなたたちに言われる筋合いはない」と思いましたね。それで、テレビの取材に応じて、ファンの気持ちを話すことにしたんです。
――何年もテレビでジュリーの姿を見ることがなかったので、むしろジュリーが70歳現役でコンサート活動をやってることがわかって、逆に僕は感心しましたよ。
あのドタキャン騒動で初めてジュリーを知ってファンになったという若い人がたくさんいるんですよ。YouTubeで昔のきれいな頃の映像を見たりするらしくて、今もコンサートをやってるなら観に行こうとなるみたいです。20代30代の新しいファンができたことで、ジュリーもなかなか辞められないだろうし、私も若い子たちには負けたくない(笑)
――52年間ファンである國府田さんから見て、最近のジュリーはどんな印象ですか?
やさしくなりましたね。私が知っている範囲で言うと、昔のジュリーはファンへ感謝の言葉を口にすることもそんなになかったし、ステージから降りたら笑顔で手を振ってくれることもなくて、ファンには冷たい人だというふうに若い頃は感じていました。それが今回のドタキャン騒動の記者会見で、「ファンに甘えました」と言ってるのを聞いて、「ついに甘えてくれたんだ!」と思って、とにかくうれしかった。ジュリーは教祖様で、私はジュリー教の信徒ですから、ジュリーが「やりたくない」と言えば「はい、わかりました!」……極端に言うとそんな感じなんですよ(笑)。
――あらためて、國府田さんにとってジュリーとはどんな存在ですか?
癒やしなんでしょうね。何か辛いことがあっても、ジュリーのライブに行って発散すればすっきりするんです。始まりから終わりまでずっとスタンディングですし、今でもキャーキャー言いますよ。仕事がしんどかったとしても、3日後にジュリーに会えると思うと頑張れる。目の前にぶら下がったニンジンみたいなものですよ(笑)。
――かつて、ジュリーが「88歳まで歌い続ける」と話していて、当時、その話を聞いた國府田さんが「82歳までファンを続ける」と思ったそうですが、人生100年時代と言われるようになって、現実味を帯びてきましたね(笑)。
あの人は、自分が生きていくにはライブしかないと思っている根っからの表現者ですから、たぶん死ぬまで歌い続けるでしょう。そしたら私も死ぬまでファン活動を続けます。年上の人が先に逝くと決まっているわけじゃないから、どっちが先にくたばるか、勝負ですよ(笑)。ジュリーには88歳と言わず、100歳まで元気に歌い続けてほしい。もちろん私も書き続けていきます。ジュリー教の信徒として(笑)。
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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