映画『選ばなかったみち』:認知症だからこそ内なる境界線を越えることができる

フリーアナウンサー・町亞聖氏による映画レビュー企画。

第3回はサリー・ポッター監督が実体験をもとに脚本を書いた『選ばなかったみち』を紹介します。

認知症になったとき、人は「選ばなかったみち」に再び向き合うのかもしれません。

ニューヨークに住むメキシコ人移民レオ(ハビエル・バルデム)は作家であったが、認知症を患い、誰かの助けがなければ生活はままならず、娘モリー(エル・ファニング)やヘルパーとの意思疎通も困難な状況になっていた。

ある朝、モリーはレオを病院に連れ出そうとアパートを訪れる。モリーが隣にいながらもレオは、初恋の女性と出会った故郷メキシコや、作家生活に行き詰まり一人旅をしたギリシャを脳内で往来し、モリ―とは全く別々の景色をみるのだった―。

引用元:公式HP cinerack.jp/michi/

パラレルワールドを生きる父親の“心”は何処に……

メキシコからアメリカに移民してきた作家のレオ。ニューヨークで1人暮らしをしているが認知症と診断され今は誰かの助けがなければ生活が出来ない。

彼のアパートメントは線路脇にあり、列車が通過する時の騒音、救急車のサイレン、車のクラクションなど耳障りな音が部屋の中まで聞こえてくるが、そんな喧騒の中でまるで心ここに在らずの状態で静かにベッドに横たわっている。

忙しい仕事の合間に父を病院に連れて行くために駆けつけた娘のモリー。父親のレオは言葉を話すこともままならず、「沢山」「色々」「全部」「今」「そこ」「俺」……など意味を成さない単語をぽつりぽつりと呟くだけで意志疎通も難しい。

不安そうな様子の父親をタクシーに押し込み、まず向かったのは歯医者。口を開けるのを嫌がったり、うがいするための水を飲みこんでしまったり、しまいには失禁してしまう……。

そんな認知症の父と娘が過ごすドタバタの1日を描きながら、同時にレオが“選ばなかった道”がパラレルワールドとして展開されていく。

別の人生を生きるレオの姿は認知症が見せる幻覚なのか……

以前、認知症の視点から見た日常がいかに混乱に満ちたものであるかを描いた映画『ファーザー』を紹介したが、この『選ばなかった道』は若年性認知症と診断された弟との経験に着想を得た監督のサリー・ポッター氏が制作した作品で、認知症のレオが心で観ている世界を映像で表現したもの。

カットバックされる2つの物語。ある世界では、レオは現実世界の侘しい部屋とは違って光が差し込む明るいピンク色の壁紙の部屋でドロレスという女性と暮らしている。

レオとこの女性は何処かに一緒に行くか行かないかで言い争いをしている。

もう1つの世界のレオは静かな海辺にあるレストランのテラスで1人佇み小説の構想を練っている。しかし手元の手帳は真っ白。

全く違うシチュエーションのパラレルな世界は決して交わることは無いが、認知症と共に生きるレオの現実とは繋がっていることが分かる。

例えば、ドロレスと生きる世界ではレオは嫌々ながら一緒に出かけることにしたが途中で車を降りようとする。

すると場面は娘モリーと一緒にいるタクシーの中に戻り、突然タクシーから飛び降りることになりレオは頭に怪我をしてしまうという風に……。

家族は心配しても良いけれど本人を信頼して欲しい……

救急車で病院に運ばれたレオの元に別れた妻リタがやってくる。認知症のために幻覚を見ているとしか思っていないリタ。ただリタは元夫であるレオとドロレスとの過去を知っていて彼女はレオの初恋の相手だったと娘に明かす。

「記憶のないふりをして私を責めている」とレオの置かれた状況を理解しようとせず冷たく接する母親やレオに話しかけずに娘に質問をする医師の態度に、モリーは「父には名前もあるし耳も聞こえている」と苛立ちを隠さない。「パパはここにいるのに」と。

認知症になっても当たり前の暮らしを送っている当事者を私はたくさん知っている。

そのうちのひとりが39歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断された丹野智文さんだ。宮城県仙台市を拠点に活動する丹野さんは全国各地を回って当事者の切実な声に耳を傾けている。

「しゃべれなくなった」「何も出来なくなった」など認知症に対する偏見や誤解はいまだに根強い。特に家族の思い込みや決め付けが本人を傷つけている現状がある。元気な頃のように上手く表現できなくとも、自分達は話すこともできるし笑うことも忘れていないと明るく話す丹野さん。

1人で外出するのは危ないからと家族が玄関に鍵をかけて家から出られないようにするという話もよく聞く。しかし、この本人のためだと良かれと思って家族がやっていることが実は当事者のストレスになっているのである。

親や伴侶が認知症と診断された時の家族のショックは大きく、どうしても悪い方に考えてしまうが、「会社を辞めさせてデイサービスに」と本人の意志を無視して家族が勝手に決めてしまったら当事者が抵抗するのも当然なこと。

すぐに症状が進行するわけではなく、工夫することで日常生活を続けることは可能であり、社会と繋がりを維持することこそが元気でいられる秘訣だと丹野さんを見ていると感じる。

丹野さんが開催している認知症当事者の勉強会では、メンバーの遅刻は当たり前で、何故ならよく道に迷ってしまうから。大事なのは迷った時にどうやって辿り着くかであり、この失敗からの学びが次への備えとなるそう。

家族が優しさで先回りしてしまうと成功体験を得る楽しみを奪うことになってしまうので、心配はしても良いけれど本人を信頼して欲しいと丹野さんは訴える。

祖母との最期の会話で経験した“境界線を越える瞬間”

初恋の女性と故郷で共に暮らしているものの大きな喪失感を抱え生きている人生、小説を書くために家族を犠牲にしてギリシャで創作活動に勤しむも孤独に満ちた人生、そして認知症のためにままならぬ身体で生きる人生。

平行する3つの世界で生きるレオは確かにそこに存在していて全て真実の姿なのである。監督のサリー氏は認知症により内なる境界線を越えることができるレオの力はずば抜けた才能だと語っている。

この“境界線を越える瞬間”を私は目の当たりにしたことがある。

97歳で亡くなった母方の祖母と最期に会話をした時のことだ。祖父は交通事故で40年以上も前にこの世を去っていて、祖母はそれからずっと熊本の田舎で仕事をしながら1人で暮らしていた。

30年前に母が倒れ生死の境を彷徨っている時に、一度は見舞いにきたが「自分のことは自分でするけん、広美(母)のことはよろしく」と気丈に言って熊本に帰って行った姿が今も忘れられない。

晩年は家からすぐ近くの介護施設で暮していた祖母は、これまで1度も祖父の話をしたことも寂しいと言ったこともなかった。私が面会で訪れた時に、その祖母が「あんなよか人が何で死んだのか」といきなり口にしたのだ。しかも昨日、突然亡くなったと言っていて「もう話が出来ないのがとても寂しかぁ」と……。

祖母は認知症ではなかったが、この時すでに彼岸を近くに感じていたのかもしれない。施設のスタッフの方も「最近よくおじいちゃんの話をされています」と私に教えてくれた。

死んだのはずいぶん昔のことだよとは言えずに「葬式に行けなくてごめんね」と返事をすると「よかよか。本当に(祖父は)よか人でみんなが悲しんでくれたばってん」と真顔で祖母は答えた。

少しびっくりしたが、突然の別れをしなければならなかった祖父と昨日まで一緒に居られたと、祖母が思えていたのだとしたらそれは幸せなことだと心から思った。

不自由になりつつある身体とは裏腹に、逢いたい人が待つ場所や戻りたい過去に自由自在に心が旅できているのだから。

映画の中でもドロレスと過ごした日々を思い浮かべたレオが「悲惨で素晴らしい」と恍惚の笑顔を見せるシーンが印象的だった。

過去は変えられないことが分かっているからこそ私は夢想する……

認知症であるかないかに関係なく「もし違う人生を歩めたら…」と誰しも一度は思ったことがあるのではないだろうか。

私自身は母の介護の経験があったおかげでアナウンサーになれたので、母や家族のために人生を費やした日々に後悔はない。ただ、18歳でヤングケアラーになった私には選択肢はたったひとつしかなく、この道しか選べなかったのは事実だ。

だから「もし生まれ変わったら」と夢想することは実は今も時々ある。もちろん過去を変えることも生まれ変わることが出来ないのも分かっているが…。

もし、私がレオのように過去に想いを馳せたらどんなパラレルワールドを生きるだろうか。母がくも膜下出血を発症した日にもっと早く病院に連れて行っていれば……。その母にきちんと毎年がん検診を受けさせていれば手遅れになることはなく、今もあの天使のような笑顔で私達家族を迎えてくれていたはず……。

取り返しのつかないこの過ちは私が一生背負わなければならない重い十字架であり、失った大切なものを思い出す作業は痛みを伴うものでもある。私が想像する世界は「母と共に生きたかった」という願望が反映されたものになるだろう。

認知症の父を理解したいと心をノックし続けたモリー

すぐそばにいるのに遠くにいるレオを少しでも理解したいと父親の心をノックし続けるモリー。その姿に15年におよぶ母と父の介護を経験した私が重なった。

予定通りに行かない慌ただしい1日を過ごす間にモリーは度々仕事の電話をしている。とても重要な話であることは彼女の様子から伝わってくるが、父親を放っておくことは出来ず結局自分のことは後回しにしてしまう。

私も取材中に父が救急車で運ばれたという電話をもらったことが2度ほどある。正直、勘弁してくれと思ったが病院に行かないという選択肢は私にもなかった。

同じ時を過ごしながら自分の半生を辿るという長い旅路に出ていたレオ。自ら“選んだ道”に戻って来た時に口にしたのは娘の名前だった。

そして、パパがパパであることに変わりはないと確信するモリーは、自分は1人だと呟く父に「私がいる」と語りかけるが果たしてどんな決断をするのか……。

映画のラストでは彼女の選択は明らかにされないが、どんな決断をしても必ず“選ばなかった道”は残る。

岐路に立つモリーの姿は明日の貴方かもしれない。

大切なのは数ある選択肢の中から自ら選んだ道を信じること、そして今歩んでいる人生を肯定することである。

選ばなかったみち

ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開中

© BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020

【INTRODUCTION】
ハビエル・バルデム×エル・ファニングが初共演!
サリー・ポッター監督の実体験に基づき、父の幻想と娘の現実を描いた問題作
第70回ベルリン国際映画祭コンペ部門に出品、『耳に残るは君の歌声』『ジンジャーの朝〜さよなら、わたしが愛した世界』を手掛けたイギリスを代表する女性監督サリー・ポッターの最新作。監督の弟が若年性認知症と診断され、監督自身が介護で寄り添った経験をもとに自らが脚本も手掛けた物語。人生の岐路で自分の選んだ道は正しかったのか、もしも別の選択をしていたら? 胸の奥底にしまい込んだ過去の大切な出来事や記憶を繋ぎながら、人生の奥深さに迫る感動の問題作だ。
ニューヨークのアパートにひとりで暮らす父レオを娘モリーが病院へ連れていくために彼を訪ねるある朝から始まる24時間。ひとりでは生活もままならないレオが選ばなかった人生――初恋の女性と出会った故郷メキシコ、作家生活に行き詰まり一人旅をしたギリシャ――を彼の幻想として捉え、と、モリーが直面する厳しい現実が交錯しながら進んでいく。
主人公である父レオ役は、圧倒的な存在感で観るものを引き付けて離さないオスカー俳優ハビエル・バルデム、娘モリーをイノセントな魅力を放ちながらも確かな演技力で数多の実力派監督と組んできた人気女優エル・ファニングが演じ、ついに父娘役で初共演を果たした。その他、ローラ・リニー、サルマ・ハエックら実力派名優が脇を固める。

【STORY】
父の幻想と娘の現実。ふたりは同じ空間で別々の24時間を生きたー
同じ場所にいながらも景色が異なる二人の旅路の行方とは―。
ニューヨークに住むメキシコ人移民レオは作家であったが、認知症を患い、誰かの助けがなくては生活はままならず娘モリーやヘルパーとの意思疎通も困難な状況になっていた。ある朝、モリーはレオを病院に連れ出そうとアパートを訪れる。モリーが隣りにいながらもレオは、初恋の女性と出会った故郷メキシコ、作家生活に行き詰まり一人旅をしたギリシャへと彼女とは全く別々の景色をみるのだった―。


監督・脚本:サリー・ポッター 出演:ハビエル・バルデム、エル・ファニング、ローラ・リニー、サルマ・ハエック
2020年/イギリス・アメリカ/英語/86分/カラー/スコープ(シネスコ)/5.1ch 原題:The Roads Not Taken/
日本語字幕:稲田嵯裕里/G/ © BRITISH BROADCASTING CORPORATION AND THE BRITISH FILM INSTITUTE AND AP (MOLLY) LTD. 2020
公式サイト:cinerack.jp/michi/

町亞聖
町亞聖

1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。 報道キャスター、厚生労働省担当記者として様々な医療・介護問題を取材。 パラリンピック水泳メダリストの成田真由美選手を密着取材。 “生涯現役アナウンサー”でいるためにフリー転身。脳障害で車椅子の生活を送る母と過ごした日々をまとめた「十年介護」を小学館文庫から出版。 ヤングケアラ―当事者として全国で講演、医療介護を生涯のテーマに取材・啓発活動を続ける。

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