うつになった夫と、障害者だった父の話。夫婦はいつだってお互い様。

こんにちは、城伊景季(シロイ・ケイキ)と申します。

努力、根性、がんばるといった言葉からなるべく距離をおいて生きる、のんべんだらりとした人間です。自己紹介しようと思ったらこんな言葉しか浮かばない、どうしようもなさを許してください。

さて、そんな低め安定、ぬるま湯人生を志してきた人間にも、やはり人生がそれなりにしんどく感じられた時代はありまして。今回はそんな頃を振り返りながら、私たち夫婦、そして家族のこれからについて思うことを、話したいと思います。

突然、恋人が「うつ」になった

私の人生で自他ともに認める大変さだったのは、10年ほど前のこと。当時付き合っていた彼氏のセキゼキさん(現在は夫)が「うつ」になってしまったときです。

セキゼキさんはある日会社に行く途中で、電車に乗れなくなってしまいました。ホームで何本も電車を見送っても、どうしても足が動かない。うつというのは、そんなふうに突然始まったりするんですよね。

会社にも行けず自宅にも帰れなくなったセキゼキさんは、私のもとに助けを求めに来ました。その日からセキゼキさんは、私のアパートに引きこもって暮らすことになったのです。

「彼氏がうつなんて大変だね」と言われる違和感

この頃私は、よく周囲の人に

「大変だね」

「嫌にならないの?」

「別れないなんてすごいね。私なら我慢できない」

「シロイばっかりそんな苦労をして。よく耐えてるね」

とかなんとか、まあそういうことを言われました。

もちろん、大変なことはありました。症状がひどいときのセキゼキさんは、放っておくと飲み食いもろくにせずに、何時間も動かずしゃべらず、じーっと座り込むだけ。

そのくせ寝る時間になると、布団の中でぶつぶつと

「誰か助けてくれ」

「おれはもうだめだ、終わらせてくれ」

「死にたくない、死にたくない」

「嫌だ、つらい、つらいんだ」

などというセリフをつぶやき続けるのです。

これはまあ、率直に言ってつらかったですよね。日中は動かず静かなのに、電気を消した後につぶやき始めるんです。セキゼキさんは身長180cm超えの男性なのですが、まるで巨大な呪いの彫像が部屋の中にいるような気分でした。市松人形サイズだったらよかったとか、そういうことでもないんですけど。

しかし私は周囲から「大変だね」と言われる度に、なんとなく感覚の「ズレ」のようなものを感じました。「えらいと言われるようなことは特にしてないんだよな……別にそれほど我慢してるわけでもないし……」と、内心首を傾げておりました。

しんどかったのは確かなのですが、それは周囲が思う大変さとは違うような気がしていたのです。

例えば、恋人が風邪を引いたら、おかゆを用意したりスポーツドリンクを買ってきたり、こっちができることはやるじゃありませんか。相手が落ち込んでいるときは話に付き合ったりするし、肩が凝ってると聞けば揉んだりするじゃないですか。それだって大変なことです。

私にとっては、うつになったセキゼキさんにしていたことも、それらとさほど変わりないように感じていました。

そういう大変さは、人と人が関わって生きていく以上はどこかで必ず発生するものだし、必ずしもそれで「別れよう」とはならないと思います。大変だから別れるって、つながっているようでつながっていない。

そこで、私は思いました。

「大変だね。別れた方がいいよ」

という言葉はつまり、

「相手がそんな状態だとあなたばかりが苦労する。そんな不公平な関係は解消した方がいい」

ということなのだと。

私たちは「不公平」な関係ではなかった

「大変だね。別れた方がいいよ」という言葉に私が違和感を覚えたのは、当たり前のことでした。私たちの関係は、別に不公平なものではなかったのです。

確かに、セキゼキさんがうつになってから、メンタルクリニックの通院に付き添ったり、姿を消した彼を探しに行ったり、ご家族や会社との連絡を受け持ったり、私がセキゼキさんのためにすることは増えました。でも、セキゼキさんが私のためにしてくれることも、心を砕いてくれることも、たくさんあったのです。

働けなくなったセキゼキさんは何をするのもつらそうにしていましたが、それでも調子の良い日は洗濯機を回して部屋を片付け、買い物をして料理をしてくれました。私は彼の作った夕飯を楽しみに、家に帰りました。

セキゼキさんがつくったおせち料理
社会復帰後も好きな料理を続けているセキゼキさん。これは私と義母と一緒に作ったおせち。
セキゼキさんが用意した娘の誕生日ディナー
セキゼキさんが用意した娘の誕生日ディナー

お互いがお互いのために何かをしたり思ったりするというのは、二者関係では当然のことだと思うのです。

もちろんセキゼキさんの調子が悪く、料理や洗濯なんて一切できなくなる日も多かったです。でも私だって、やらなきゃいけないことが普段通りにできないまま終わってしまう日もあります。

だから全部お互い様なのです。そしてお互い様である限りは、多少しんどくても、なんとかなるのです。

身体障害者だった父の話

ところで、今は亡き私の父は、若い頃に進行性の筋萎縮症を患って一級の身体障害者になり、40代の後半からは車椅子を使っていました。

だからでしょうか。母は時々よその人から

「旦那さんのお世話大変でしょう。えらいわねー。私には無理」

などと言われることがあったらしいのです。

母はそう言われるたび、きょとんとしていました。妹と私も、何でそんなことを言われるのか、よく分からずにいました。

なぜなら父は、日常生活の上で他人の助けを要することがとても少なかったのです。入浴も排泄も着替えも食事も自室の掃除も、たいていのことを父は一人でこなしました。長い年月をかけて、基本的な日常動作を自分で行えるように生活環境を整えていたのです。

父は2012年に69歳で他界しました。葬儀のために私の実家を訪れたセキゼキさんは、父の部屋に入って「物が多いのに、すごくきれいに整頓されているな」と感心して、さらにはこう言いました。

「お義父さんくらいの年代だと、五体満足でも自分の部屋の掃除をちゃんとできない、やらない男の人は正直多いんじゃないかと思うよ。だけどお義父さんは自分が男だからとか、障害があるからとかそういうこと一切理由にせずに、この部屋をきれいにしていたんだな」

父と母は、いつも互いに支え合っていた

もちろん、父にはできないこともありました。例えば力仕事などは、どうしても母の領分にならざるを得ませんでした。だけどその一方で、母の苦手なことを父がカバーする場面も多くありました。

父はあるとき「おれは絶対、お母さんより先に死んだ方がいいんだけどさあ。一人ではさすがに暮らせないし」と言いながら、こんなことを話していました。

「でも時々、お母さんが心配になるよ。ささいなことではあるんだけどな。あの人はいまだに朝ドラの録画ができないし、パソコン操作は覚えられないし、長距離運転するのは苦手だし。おれがいなくなったら困ることもあるんじゃないかなって」

他の家族が皆、よく言えばおおらか、悪く言えばがさつで大ざっぱだったのとは対照的に、父は細かいところまで目が届く質(たち)でした。

母に、私たち姉妹を育てていたときの苦労話を聞いたことがあります。

「あなたたちは年子で、二人ともオムツが外れるのが遅かった。おまけに布オムツを使っていたから、私は毎日100枚くらいオムツを洗っているような気がしていた。100枚のオムツを洗って干して畳んで、気が狂いそうなぐらいのオムツオムツオムツ。だけどね、お父さんは毎日、頼んだわけじゃないのに、昼休みの1時間は会社から家に帰ってきて(職住近接の環境でした)、そこにあるオムツの山をきれいに畳んでくれたの。それは本当にうれしかったし、ありがたかった」

当時の父は車椅子ではなく、松葉杖を使っていました。立って自由に歩くことは困難でも、山積みになったオムツの横に座り、一枚一枚畳むことはできたのです。

父は、自分のできる範囲の雑事を進んで探し、こなすのが好きな人でした。

好き勝手に振る舞っているように見えて、周囲をよく気遣っていました。

家族の抱え込んだ苦しみに、真っ先に気づいて声をかけてくれるのは父でした。

子供の頃、父が体調を崩した私に付き添ってくれた夜を思い出します。暗闇の中ぱっと跳ね起きて、背中をさすってくれたことを。

この人は私が悲しかったりつらかったりしたときに、絶対になおざりにはしないだろうと、自然と信じることのできる人でした。

母は父を助け、支えました。ですがそれと同じくらい、父は母を、私たち家族全体を助け、支えてくれていました。

わが家の両親が特別だったとか、母が聖人だったなどとは思いません。ごく普通の、どこにでもいるような夫婦でした。

一人で全てできなくても、助け合うことができればいい。それは夫婦であれば当たり前のことだと、私は思います。

うつだから、障害があるから、健康だから、ではない

誰の人生も、凪いだ海だけではありません。富めるときも貧しきときもあり、病めるときも健やかなるときもあるのです。長い月日を共に歩くというのは、必ずお互いに病めるときが来るということです。

しんどい、つらい、助けてほしい。そういうときを避けることはできません。

そのとき必要なのは、事情を抱えた人間を助けるために、もう一方が自己犠牲の精神で一方的にかしずくことではないと思います。

一方が病気になったり障害を持ったりしたら、互いに助け合うことはできない。

事情を抱えた自分だけが助けられるべきで、ケアするのは相手の役割。

自分の役割と決めたこと以外には、手を出すべきではない。

そんな関係であれば、必ずそこには不満と不平が生まれます。

本当は、うつとか障害とか五体満足とかは、あまり重要ではないんです。健康で五体満足な人だって、相手の不足を責めたり、もっと自分に尽くすよう強いたり、自分からは決して相手を助けなかったり、いくらでもできてしまいます。

お互い様なんて思わずに、自分にとって都合の良い関係だけを築くテクニックに長けた人は、残念ながら大勢います。

さらには、助け合いの秤が偏っているなんて夢にも思わず、パートナーが疲弊していることにも気づかない、悪意なき人々はもっとたくさんいるだろうと思います。

お互いが「相手のためにできること」を考えられるなら、大丈夫

「うつの彼氏なんて大変だね」

「車椅子の旦那さんの面倒を見るなんてえらいわ」

そう言った人たちは、事情を抱えた人間がその事情を盾にとって、無制限のケアを要求し続けてくるような状況を、きっと想定しているのでしょう。それは大変です。そんな関係を続けることは、私には無理です。

だけど、そうではないから。

私はあなたのためにできることを考え続けるし、あなたも私のためにできることを考え続けてくれる。そう思えるならば、互いの関係を保つことは、決して無理ではないのです。

事情を抱えた相手とは助け合えないなんて、そんなことはないのです。お互いが健康な場合にだけ、助け合いが成立するわけでもないのです。

助け合いが成立していないように感じる、負担が不均衡で自分ばかりがすり減っていくように感じるなら、関係を見直すべき時なのだと思います。できればお互いが楽にいられるようになれば、それが一番なのでしょうけれど。

私はこれからも、できるだけ気楽でぼんやりとした、ぬるま湯のような人生を望み続けるでしょう。だけど残念ながら、そううまくいかないことは分かっています。

いずれまた、しんどくて投げ出したくなるような出来事が、きっとやってくるでしょう。

私の親も老いましたし、セキゼキさんのご両親も同じです。私たち夫婦だって、やがて老いるのです。

だけどお互い様だと思えれば、私たちはこれからも続けていけると思います。そう、信じます。

城伊景季さん原案『むしろウツなので結婚かと』コミックDAYSで連載中

『むしろウツなので結婚かと』は、城伊景季さんがうつになったセキゼキさんとの日々をつづった2010年のブログ記事「二年間のハジマリとオワリとツヅキ」シリーズを、マンガ家の菊池直恵さんがコミカライズした作品。2018年12月から、講談社のWebマンガサイト・コミックDAYSで連載中です。

コミックDAYS『むしろウツなので結婚かと』

編集/はてな編集部

城伊景季
城伊景季

怠惰も極めればスタイルになると、信じて生きる所存です。好きな言葉は「棚からぼたもち」そして「濡れ手で粟」。2015年1月に娘のノノミさんがやってきました。

ブログwHite_caKe 城伊景季さんの記事をもっとみる

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