私の祖母は、バスや電車の便があまりよくない福岡の田舎町に、一人で暮らしていた。といっても、その数軒隣には祖母の娘夫婦である私の両親が住んでいて、買い物や庭の手入れ、外出先への送迎などを日常的に手伝っていた。
祖母は体が丈夫で、一度マムシに噛まれて入院したのと、糖尿病を患っていたこと以外には、病気という病気をしたことがなかった。80歳を過ぎても、当たり前のように自転車に乗って、どこまでも出かけて行く人だった。
私は今から18年前に実家を出たけれど、子どもの頃にはよく祖母の家を訪れたり、祖母がうちにやってきたりして、しょっちゅう遊んでもらっていた。子どもだった私が、学校から帰ってきてすぐに「疲れた〜」と言うと、「アッコちゃん、子どもは疲れたって言わんとよ?」と、笑って嗜めた。いつもニコニコよく笑い、よくしゃべる。親戚からも、近所の人からも好かれる、元気なおばあちゃん。そんな祖母が亡くなったのは、2017年5月のことだった。
2017年2月のある日、祖母から母に「便が出なくなってしまった」という連絡がきた。すぐに病院に行ったものの、その場では原因が分からず、数日後にあらためて大腸検査を受けることになった。ところがその検査の日を待たずして、祖母の調子は急激に悪くなっていった。慌てて再びかかりつけの病院を受診すると、総合病院を紹介された。入院して精密検査を受けたところ、直腸がんが見つかった。しかも既にかなり進行しており、肺にまで転移しているという。
しかし87歳という祖母の年齢や体力、がんの進行レベルを照らし合わせて、がんの治療はしないことに決まった。体調が落ち着いた祖母は一度退院したものの、すぐにまた便が出なくなってしまったので、今度は入院して人工肛門を付ける手術を受けた。するとようやく症状が落ち着き、手術から約1カ月後には退院し、自宅に戻ることができた。
祖母が退院して間もない頃、仕事の都合で、当時小学5年生だった私の娘を3日ほど、福岡の両親の家で預かってもらったことがある。今思えば、ただでさえ祖母の世話で大変なときに、両親には大きな負担をかけてしまったと思う。けれども、そのおかげで娘は、亡くなる直前の、まだなんとか立って歩くことのできる祖母に会えた。両親はこのとき、祖母と娘を連れて、家からそう遠くない場所にある藤棚を見に行ったそうだ。満開の藤の花に、祖母はとても喜んだという。これが、祖母の生前の最後のお出かけになった。
その後、東京に戻ってきた娘が、ふいに私に話してくれた。
「あの日、お出かけから帰って、おばあちゃんの家に戻った後でね。仏様にご飯をお供えする手伝いをしたの。そしたらね……」
祖母は、夫である祖父とその両親の位牌が置かれた仏壇の前に正座をして手を合わせ、そこで静かに、涙を流したのだという。
「……私、どうしたらいいか分からなくて。声も掛けられなかった」
困惑した顔を見せる娘に「それは仕方がないよ、まだ子どもなんだから、何もできなくて当然だよ」と言って慰めた。後日、母にこのことを話すと「きっと、病院から無事に家に帰ってこられました、ありがとうございましたって、亡くなったおじいちゃんにお礼を言ってたんじゃないかな」と言った。
いずれにしても、祖母の見せた思いがけない姿は、娘にとってこれから先、ずっと忘れられないものとなっただろう。今考えると、優しかった祖母が図らずも私の娘に残してくれた、かけがえのない最後のプレゼントだったように思う。
人工肛門によって祖母の排便の困難は解消されたが、今度は肺に転移していたがんが進行し始めた。一時は回復したかに見えた祖母の体調は再び急速に悪化し、自宅に戻って2週間ほどたった頃には、とうとうベッドから自力で起き上がることもできなくなってしまった。
私の母は5人兄妹の3番目で、兄妹は上から、長女、長男、次女(母)、三女、四女だ。長男は祖母の家から少し離れたところに住んでいたこともあり、在宅での祖母の介護は、主に4人の姉妹が代わる代わる泊まり込んで担うことになった。介護といっても、母たちの役目は、食事や投薬、排便、排尿の世話と、容態が急変したときに備えることだ。入浴の介助や健康状態のチェック、痛み止めの点滴などは、訪問看護師さんが毎日家に来て、やってくれた。この看護師さんがとても良い人で、母たち姉妹や祖母にとって、心から信頼できる存在だったという。
しかし残念ながら祖母の体調が回復に向かうことはなく、在宅介護が始まって1カ月ほどたった頃、ついにほとんど食事を食べられなくなってしまった。そんな状態が何日か続いたため、いつ何が起こっても後悔のないようにと、母たち姉妹は4人全員で祖母の家に泊まり、祖母の世話をすることに決めた。
そうして3日ほどたった日の午前2時半ごろ、母たちは、眠っている祖母の様子がおかしいことに気づいた。呼吸が浅く、リズムが乱れ、苦しそうにしていたという。すぐに看護師さんに連絡して来てもらったが、もうほとんどなす術がないことは、母たちにもよく分かっていた。看護師さんも「思い残すことのないよう、しっかりと最期のお別れをしてください」と告げた。
母たちがベッド脇から静かに見守る中で、祖母はふいに、すうっと長く一度、息を吐いて、ゆっくりと穏やかな表情を見せたという。その後、呼吸が止まった。医師の到着した午前5時過ぎが、祖母の臨終の時刻となった。
看護師さんが、亡くなった祖母の体を濡らしたタオルで拭き上げてくれた。それがすっかり済むと、今度は母たちに「お母さんを、きれいにしてあげましょうね」と声をかけた。母たちは全員でよそ行きのきれいな服を祖母に着せて、柔らかな祖母の髪の毛をブラシでゆっくりととかした。顔には、ファンデーションと、華やかな口紅を塗った。
祖母の部屋のクローゼットにしまわれていたスカーフや口紅は、それぞれ、子どもたち、孫たちからの誕生日プレゼントや旅先からのお土産といった、思い出のあるものばかりだった。「懐かしいね」「これはあのときのだね」と、ぽつりぽつりと思い出を語り合いながら、看護師さんの指示通り、母たちは忙しく祖母を送り出す準備をした。
「悲しいとか、涙を流すとかいうことは全くなかったよ。最後にみんなでおばあちゃんをきれいにしてあげられて、本当にいい時間だった」
祖母の葬儀が終わった日の夜、母は少し疲れを見せつつも、とても穏やかな表情で、私にそんなことを話してくれた。
実は、祖母は亡くなった日の翌日からホスピスに入院することが決まっていて、介護タクシーの手配も済んでいたのだという。もしかしたら祖母は、最期は「思い出のたくさん詰まった自分の家」から旅立ちたかったのかもしれない。娘があのとき目にした仏壇の前の祖母は、手を合わせて、亡き夫にそう願っていたのかもしれない……そんなことを、ふと思う。
「便が出ない間が、おばあちゃんも私たちも一番大変だったよ。でも、人工肛門の手術をしてからは、いつもニコニコしててね。そんなおばあちゃんを毎日見られたから、本当に幸せだったよ。もしあの時間がなかったら、もっと悲しい思いが残ったかもしれない」
折に触れて、祖母と過ごした最期の数カ月を語るとき、母は必ずといっていいほど「幸せだった」と言う。
泊まり込みの介護を仲の良い4人姉妹で分担できたことや、それぞれの配偶者から快い協力が得られたこと、信頼できる訪問看護師さんと出会えたこと、また、よくも悪くも大変な時期が長期化しなかったこと。そういったさまざまな幸運によって、母たち姉妹は、祖母とのかけがえのない時間を過ごすことができた。
「こんなふうに、残された家族を幸せにしていかれる最期は、なかなかありません」――お世話になった訪問看護師さんは最後、母たちにそんなことを言ってくれたそうだ。
いつかは私も死ぬ。そのとき、基本的にはできる限り、子どもたちの手を煩わせたくないと思う。私の子どもたちは、おそらくもうあと数年で私のもとから巣立ち、自立する。その後の私は、また誰かと一緒に暮らすことになるかもしれないし、一人で暮らすのかもしれない。
いずれ必ずやってくる最期のとき、たとえ一人きりだったとしても、私はおそらく「寂しい」なんて思わないだろう。なぜなら、私には子どもたちと過ごしてきたたくさんの思い出があって、これを持って旅立てるのだとしたら、もうそれだけで十分だからだ。
だけど、母たち姉妹と祖母の話を聞いて、少しだけ、考えを改めるところがあった。去りゆく者が、残される者たちにままならなくなる体を見せること、ゆっくりとお別れの時間を作ること、また、命が消える瞬間を見せることというのは、ある面では、限られた者にしか与えることのできない、何よりも貴重な、唯一無二の贈り物だと思う。
もちろん、病気の種類や進行の速度、最期のタイミングなどは、ほとんど自分でコントロールできるものではない。祖母の最期のように、周囲に大きな負担を与えず、後悔の残らない程度に介護や看取りに付き合ってもらえるというのは、さまざまな偶然が重なって初めて実現することだろう。
それでももし、何か少しでも看取る側の負担を軽減できる方法があったとしたら、私の子どもたちには、それらを遠慮なく最大限に利用してもらいたい。そしてほんの少しだけでも、私の最期に関わってもらえたら……今は、そんなふうに思うようになった。
親の看取りという体験を通じて「命とは何か、また、親から生を受けた自分とは何か」そういったことを考え、その後の人生をより豊かに、より強く生きるための糧にしてくれたら。私にとって、こんなに幸せな最期はないだろうと思う。
編集/はてな編集部
1982年、福岡県生まれ。2人の子を持つシングルマザー。『東洋経済オンライン』『BLOGOS』『クロワッサン オンライン』『フミナーズ』などで連載を持つ。ウーマンエキサイトとともに立ち上げた「WEラブ赤ちゃんプロジェクト」では、「泣いてもいいよ」ステッカーを発案。著書に『家族無計画』(朝日出版社)、『りこんのこども』(マガジンハウス)。
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