いつかやってくる親の老い・死と向き合う上では、介護や入院、葬儀などの費用はどうするのか、相続についてなど、さまざまなお金の問題と対峙せざるを得ない時がやってきます。
2021年に父親を亡くしたライターの西村まさゆきさんが経験したのは「悲しみに浸っていられないほど膨らんだ借金」でした。現実問題として突きつけられたのは、驚くべき負債額。西村さんは兄弟と協力しながらかなり厳しい状況になんとか向き合ったといいます。
この時の経験を通じて、もう片方の親の存在や、やがてくる自分の老後についても考えるようになったという西村さん。今回、在りし日の父の姿と借金問題について振り返りながら、「親が元気なうちに聞いておくべきこと」についてつづっていただきました。
生きている限り「そのうちいつかは来るだろうな」と、ぼんやり意識していた「父親が死ぬ」というイベントが、2021年11月にあった。
倒れて寝たきりになってから2年ほどの時間があったので、覚悟はできていたとはいえ、亡くなったという報せをもらって鳥取に向かうために乗った新幹線の中で、さすがにしんみりとなって涙があふれてきた。
鳥取に到着すると、すでに亡骸はメモリアルホールの和室の待合室に安置してあった。2年に及ぶ入院生活で、痩せて細くなってしまった親父は別人のようだったが、28年ほど前に亡くなった由良のばあちゃん(親父の母親、北栄町由良に住んでいた)に顔がそっくりになっており、思わず笑ってしまった。
隣には神妙な顔をした母親が正座をして座っていた。この人こんなに小さかったのかとあらためて驚いてしまうほど、すっかり背中の曲がった小さいおばあさんになっていた。
僕は1996年に鳥取県の倉吉から上京し、編集者やライターとして糊口をしのいできた。東京での生活はすでに四半世紀を越えた。その間、倉吉に住む親父の元へは数年に一度帰るか帰らないか、その程度だった。
あまり帰省しなかったのは、父親と確執があったとか、地元に顔向けできないようなやらかしをやったとか、そういうかっこいい話ではまったくなく、ただ単に面倒くさかっただけだ。
兵庫の明石に住んでいる兄も帰ってきていて、弟と僕を含めた3人は、メモリアルホールの担当者さんを交えて葬儀の準備について相談をした。相談というか、基本的にメモリアルホールの提案する葬儀プランのどれにするかを決める、という作業だった。
遺影もメモリアルホールの人が手配をしてくれるという。「遺影にできそうなお写真ございますか?」と聞かれたが、そんなものはなかった。その場で僕のGoogle フォトで親父の写真を漁ってみたが、やっぱりいい写真がない。
博物館の体験コーナーにあったゴキブリの着ぐるみを着て、ふざけて撮った親父の写真が出てきたので使いたかったが、さすがにそれはという話になり、親戚の家に行った時に僕がデジカメで適当に撮った集合写真を使うことになった。
あくる日、出来上がった遺影を見てみると、前かがみに写っていた親父の背筋がすっと伸びていた。
担当者さんに「顔を切り抜いて少し上に付ける加工をしました」と言われた。親父の顔を、Photoshopの切り抜きツールで切り抜いて加工してくれた写真屋さんがいたのかと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになった。ふざけてゴキブリの写真を使わなくてよかった。
出来上がった遺影を亡骸の奥に設えた祭壇の上に飾った。親父は朗らかな顔をしている。僕は、部屋の隅に座り込んで、ここ数年の間に親父と交わした会話を思い出していた。
2018年の夏に、息子と一緒に車に乗せてもらったのが、最後のドライブになった。Google マップのタイムライン機能でその時の軌跡をたどると、琴浦町の牛骨ラーメン屋に行ったあと、花見潟墓地を見学に行ったのだった。
めちゃくちゃ天気のいい日だった。そのあと、東郷町まで引き返して滝を見に行っていた。ラーメンを食べる親父と、滝の前でにこやかに笑う親父の写真が紐付いて出てきた。
まさか元気なころの最後の写真になるとは思わなかったので、ピンぼけだったりしてどちらの写真も今ひとつだ。
僕は車の免許を持ってないので、たまに帰省すると、親父はよく車を出してくれていた。ネット用の記事のネタになるような場所があれば連れて行ってくれたりもした。ゴキブリの写真も、そんなときに撮った写真の一つだった。
しばしば「お前の仕事はどがな仕事だい(お前の仕事はどんな仕事なんだ?)」と親父に聞かれた。編プロで編集者をしていたころは「雑誌の編集をやってる」と言うわけだが、親父の理解の中の“雑誌を作る仕事”は、記事を書く記者と、印刷する人しかおらず、編集という仕事はピンときてないようだった。
これは、フリーのライター、しかもウェブライターなどという仕事を始めてからは混乱に拍車がかかったようで「お金はもらえっだかいや(お金はもらえるのか?)」と、なんども聞いてきた。
ウェブの媒体に記事を書くという仕事を説明するのが面倒になって、一度、ライターをやってもらったことがある。
どじょうすくい踊りの体験ができる施設が島根県の安来にあるので、一緒に行き、踊りの体験談を作文してもらいネットに載せた。親父が書いた文章を読む機会など今までなかったので、月の裏側を見たような新鮮さがあった。
「スゲー」だとか「ハクリョク」みたいなカタカナを文章中に差し込む軽妙な文章を書くんだという発見があったり、ザルのことを「ソーキ」という古い言い方でいうギリギリ戦中生まれの年輪を感じさせるところもあり、なかなか得難い体験だった。
親父は、こういった僕の無茶ぶりにもわりとノリよく応えてくれた。基本的にお調子者で、すぐふざけたことを言う人であった。
2019年のゴールデンウィークのことだった。弟から「お父が倒れた」という電話があった。当時親父は、新聞配達のアルバイトをしていたのだが、配達から帰って風呂場で倒れたのだという。脳出血というやつだ。
倒れた次の日に倉吉に着いた僕は、おっとり刀で病院に向かい、親父と面会した。点滴やらチューブやらをつけられてベッドでウンウン唸っている親父がそこにいた。意識はわりとしっかりしていたものの、もう意思疎通できるような会話はできなかった。
かすかに「ひとりできたのか」みたいなことが聞き取れたが、それ以外は何を言っているのか聞き取れず、僕はそこで涙があふれてしまった。
この時は結局、命を失うことはなかったものの、歩くことはできなくなり、舌もろれつがまわらなくなり、円滑な会話ができなくなってしまった。
帰り際に、もう一度面会に行ったときはベッドに横になって寝ていたが、こんなに元気のない親父は久々に見た。パチンコ屋の駐車場で車上荒らしにあって、給料袋を丸ごと盗まれた日の親父と同じ姿だった。あの時も真っ暗にした部屋でピクリとも動かずにうつ伏せになって寝ていた。
親父が倒れてからというもの、あまり愉快な話はない。入院費用の額が大変なことになってしまったのだ。親父がどんな生命保険に入っているのか調べたところ、年金と国民健康保険以外にまったく入っていなかった。これはきつかった。
病院のお金がどれぐらいかかるのか見積もったところ、僕が編集プロダクションの社員時代に、爪に火をともすような生活を続けて貯めたなけなしの貯金が、1年ぐらいですっからかんになるぐらいの金額になった。車も家もまだ買ったことないのに、若いときに貯めたお金が、親の入院費用でどんどんなくなっていくというのは正直つらいものがあった。
ただ、幸いにもこのお金は兄弟で折半して分割で払うということになって、貯金が底をつくような悲劇はひとまず免れた。
ただ、入院のお金以外にも問題はあった。倒れた時に、親父宛に毎月いくつも届く封書を調べたところ、借金の督促状が何件もあった。
例えば、1986年に銀行から借りた156万円ちょっとのローンの債権が、債権回収会社に譲渡されて利息がガンガンついて返済額が837万円ほどにまで膨らんでいるバカみたいな支払い督促状があった。支払額の欄に837万9120円と書いてあるコンビニ払込票に「(未払金の入金は)裏面記載のコンビニエンスストアを利用されると便利です」と書いてあり、「お、便利だな!じゃあちょっと払ってくるか……ってなるわけねえだろ!」とおもわずノリツッこみしてしまった。
その他にも、1996年に消費者金融で借りた30万円に利息がついて150万ほどに膨れ上がった債権もあった。これはしっかり告訴状が届いており、告訴状に添付された支払いの履歴を確認してみたところ、30万円を借りた直後数年間は真面目に返済しており、なぜかその後ぱったりと十数年ほど返済が途絶え、札幌にある債権回収会社に債権が譲渡された数年前からまたあらためて数カ月おきに1万5千円ずつ振り込んでいたらしい。
これに関しては、そのまま払わなければ、時効にすることができたかもしれないのに、なぜ振り込みしちゃったのか。時効を知らなかったのか、まじめだったのか、なんらかの事情があったのか。今となっては、知るよしもない。
積もりに積もった借金は総額1000万以上にはなっていただろうか。自分自身の借金であれば、そこまで深刻な金額ではないかもしれないが、倒れて動けなくなった財産のない高齢者が支払わなければならない金額としてはちょっとしんどい額でもある。
いずれにせよ、これらの借金の督促を無視して親父の銀行口座や年金が差し押さえになるのは避けたかった。親父に入ってくる年金は、せめて入院治療費の方に使わせてもらいたい。
いろいろ調べて兄弟で相談したところ、親父に自己破産してもらうしかないという結論になった。しかし、自己破産などの債務の整理は、家族が代行することができず、本人しかできない手続きがこまごまとある。
親父みたいに寝たきりになってしまい、意識が朦朧(もうろう)としている状態だと、この手続きはかなり難しい、というか事実上不可能だ。そこで、成年後見制度を利用することになった。
成年後見制度は「認知症や精神疾患、事故や病気などで契約行為などの重要な判断が自分でできなくなってしまった人の権利を守る制度」で、後見人となった人物が、代わりに債務整理などを行えるようになる制度だ。
ただし、これを利用するには、家庭裁判所で所定の手続きを行わなければならない。つまり、債務の整理をする前に、成年後見制度の手続きが必要になる。かなり面倒くさいことになってしまった。
成年後見制度とは?法定後見・任意後見・手続きの流れを解説
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当初これらの手続きを、全部自分たちでやろうとしていたのだが(頑張ればできるらしい)、裁判所に電話して必要な書類を聞いたところで「あ、無理だな」と悟ったので、弟の知り合いの弁護士に全てお願いし、手続きをやってもらうことにした。これもお金がそれなりにかかってしまったが、しかたがない。うまくいけば自己破産して免責となるのだ。
そもそも親父は、若い頃にいろいろとやらかしてしまっている。これは僕が生まれるか生まれないかぐらいの頃のことだが、さまざまな商売に手を出して失敗していたらしい。僕が聞いて知っているのは、布団クリーニングの商売を始めようとして、お客様から預かった布団を座布団ぐらいの大きさにしてしまった話だ。どこでどんなふうに間違えたらそんなことになるのか。商売の才能がなさ過ぎる。
確かに、親父には常に借金があった。家のローンとか、事業を始めるための銀行からの借り入れとか、そういったポジティブな借金ではなく、商売に失敗した借金だ。親父はお調子者でひょうきんなやつではあった。しかし、お金のやりくりの問題に、真面目に向き合うことはなかった。これは生涯そうだった。
僕がまだ小学生で、弟が保育園ぐらいの頃だったと思う。母親はなんやかんやあって家におらず、兄はすでに働きに出ていたため、親父と僕と弟の3人で数年間暮らしていたことがあった。
そのころ、親父が夜な夜な僕ら兄弟を車で連れ出して、真っ暗な海岸沿いの国道9号線を目的もなくドライブすることがよくあった。日本海の沖に灯るイカ釣り船の光を見ながら、北朝鮮の乱数放送と歌謡曲が混ざったカーラジオをぼんやり聞いていた記憶だけがある。
この謎ドライブは、今思うとおそらく、家にガンガンかかってきていた督促の電話を避けるためだったと思われる……が、本当は一体何のためのドライブだったのか、親父に真意を聞くことはもうできない。
親父が入院した当初、2019年は夏と冬に会いに行った。その頃はまだ意識がはっきりしており、冬に会ったときなどは車椅子で甥っ子と一緒に遊ぶぐらいの元気はあった。
しかし、2020年に入ってから、コロナ禍のためふだん面倒を見ている弟の家族でさえ面会できない状態が続いた。ただその頃は言葉が不自由ながらも自分の携帯電話を使って僕に電話をしてくるぐらいの元気はあった。が、2021年に入るとみるみる体力が落ちていき、春頃には覚悟した方がいいという話になっていた。
数年前まであんなに元気にドライブに連れて行ってくれていた親父が、わずか数年でこんなにまで弱ってしまうというのはこたえられないものがあった。体力は坂道を下るように衰えていき、体のあちこちに不具合が出てくる。体が弱って、死ぬまではいかなくても、体が自由に動かなくなるようなことにいつなってもおかしくない。それはそのままわが身にも当てはまる。
僕もすでに50近い年齢に差し掛かって、やり残したことはないかと考えたところ、免許を取って、バイクや自動車を自分で運転しておきたいという気になった。今まで、面倒臭さと教習料の高さから躊躇(ちゅうちょ)していたのだ。
そんなわけで、まずは二輪免許を先に取ろうと、教習所に通った。2021年の10月に2週間の合宿コースに通い始めた直後「親父がかなりやばい」というLINEが弟から来た。とはいえ、途中で抜け出すこともできず、なんやかんやあって、卒検3回目にしてやっと合格。親父が亡くなったという報せを受けたのはその10日後のことだった。
結局、親父の最期を看取ったのは、近くに住んでいた弟だけだった。親父の容態が急変し、弟が病院に駆けつけて面会したとき、親父は意識が混濁(こんだく)するなか「オレはまだ死なん」とジャンプ漫画の敵が言いそうなかっこいいことを、今際の際に言ったらしい。あの親父が、そんなかっこいいこと言うんだと、びっくりした。
できれば、まだ死なないでほしかった。もっと話をしたかった。おれも50歳を目前にして、やっと免許も取り始めたんだ。これから車の免許を取ったら親父を車に乗せていろんなところに連れて行きたいんだと伝えたかったが、それはかなわなかった。
最期の最期に、どんなに借金があっても、いろんな人に迷惑をかけても、かっこわるくても、ただただ生きたいという生への執着を見せてくれた親父は、本当にかっこよかった。親父のことを「かっこいい」と思ったのは初めてで、これが最後になった。
正直な気持ちを言うと、親父が倒れたとき、その悲しさと同じぐらい、お金をどうするんだという心配や不安はかなりデカかった。亡くなったときも、悲しいという気持ちと同じぐらい「免責が下りてほぼ借金問題が解決し、肩の荷が下りた」という気持ちが芽生えたのも否定できない。これは兄弟3人とも同じ気持ちだったと思う。特に弟は実際に自分の時間をかなり割いていろいろと動いてくれていた。本当に助かった。感謝しかない。
ただし、親父が亡くなって「はい、おわり」という訳にはいかない。うちの家族には「自分が死んだあとの準備を全くしていない老人」がまだもうひとり居るな……という話になった。彼女がこの先亡くなった時に、誰が何をどうするのかを、兄弟間で相談しておかなければいかんな。という話は、親父の葬式の後にした。
経験者として言わせてもらうならば、親が元気なうちに、最低この3つだけでも、せめて確認しておくのが肝心だろう。
1.保険加入の有無
2.借金の額と借り先
3.(あれば)財産がどこにどれぐらいあるのか
まったくの準備なしで、突然親が逝っちゃった場合、僕ら三兄弟が弁護士を雇って2年費やした作業を、葬式やら香典返しやらの作業とともにやらなければいけなくなる。こうなるとほぼ詰んだも同然で、仕事どころではなくなってしまう。
兄弟が多いとか、世話を焼いてくれる親戚がいるとか、そういった特殊事情がない限り、家族が亡くなった場合の対応というのは、心だけでなく金銭面でも結構なダメージを受ける。お金の問題はそれがまた心のストレスとなるのでたちが悪い。
家族が死ぬ。なんてこと、なかなか想像できないし、話題にしづらいかもしれない。実際に僕がそうだったので、先送りにしたい気持ちは痛いほどわかる。が、親はわりとサクッと亡くなるものだと心得て、事前の準備、せめて上で挙げた3点を確認するだけでも後々役に立つと思う。
そして、ゆくゆくは自分がどうするのかも考えなければならなくなると思う。アドバイスとしては、とにかく早めに保険に入っておいた方がいい、ということぐらいしかない。
僕に、親父が身を持って教えてくれた教訓は、お金のやりくりに真面目に向き合えということと、どんなにかっこわるくても、なにがあっても、とにかく生きろ。ということだった。
編集:はてな編集部
鳥取県出身、東京都在住。めずらしい乗り物に乗ったり、地図で気になる場所に行ったり、辞書を集めたりしています。著作『そうだったのか!国の名前由来ずかん』(ほるぷ出版)、『押す図鑑ボタン』(小学館)、『ぬる絵地図』(エムディエヌコーポレーション)、『ふしぎな県境』(中央公論新社)、『ファミマ入店音の正式なタイトルは大盛況に決まりました』(笠倉出版社)ほか。移動好き。好物は海藻。
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