わたしが積極的に散歩をするようになってから早10年以上がたつ。特に2014年に多摩ニュータウンに引っ越してからは、散歩に邁進し過ぎて他のタスクに手がつけられない状態が続き、50歳を迎えた今もその距離は伸びる一方だ。ひどいときには、気付けば1日で40kmもの距離を歩いていたことが判明し、最近では歩き過ぎないように自らセーブしているような状態である。
今回の記事では、なぜわたしがそれほどまでに散歩にのめり込んでいるのか、わたしなりに散歩の魅力をお伝えしようと思う。既に散歩をされている方にとっても、新しい楽しみ方のヒントになれば幸いだ。
わたしが散歩を始めたのは、30代後半の頃。最初は、散歩を手軽なダイエットのための手段と考えていた。よくダイエットの話になると耳にする「最寄り駅よりも前の駅で降りて一駅分を歩く」を実践してみることにしたのだ。
実際にやってみたら案外すぐ家に着いてしまって物足りない気がした。ただ、翌日から通勤中に車窓から見ていた風景が変わったのだ。「あそこの人が少ない広場に見えるところは実際のところ立入禁止になっている」「あのそっけない外装のビルの裏側にはおいしい店がある」など、小さな世界の真実を知った気になり、とても愉快だった。同時に、未踏の領域がどうなっているか気になり、徐々に最寄り駅からさらに一駅分多く歩くようになった。
しばらくすると、自宅から職場までの通勤経路の約半分の区間で、車窓から見える風景の裏側を事細かに説明できるようになっていた。もちろん、その説明に対する需要は世界的規模で見るとないに等しいと思うが、ブログやSNSに書いておくと、近所に住む人からの反応があった。
そこでやり取りするうち、いつしかゆるいご近所ネットワークのようなものが形成され、新たなご近所名所情報が労せずして入手できるようになり、さらに散歩がはかどる……。そうした回路ができあがったことにより、当初はシンプルに線路沿いを歩くだけだったところから、独自のお気に入り散歩ルートを見つけるに至り、わたしの散歩熱は拡大の一途をたどった。
なお、当初目的にしていたダイエットの効果は怪しい。それもそのはず、最寄り駅からの距離が延びれば延びるほど、散歩の途中でおいしい店を発見して立ち寄ってしまうのだから。
そんな途中での適切(かどうかは大いに疑問だが)な栄養補給もあり、1日の散歩の距離は5km、10km……と延びていき、先に説明の通りピーク時には40kmにも達してしまった。散歩を始める前まで、1カ月の踏破距離がせいぜい50km程度だったことを考えると恐ろしいほどの右肩上がりである。
考えてみていただきたいのだが、中年以降の暮らしにおいて、体重以外で右肩上がりのものなんてそうそうないのではないだろうか。歳を取ってくると、仕事の先行きに限界を感じるだけでなく、プライベートでも物忘れが多くなったり難しい本を読む集中力がなくなったりするなど、衰えを感じてしまいがちだが、散歩をすれば踏破距離と自宅周辺の知識については順調に増えるので、ポジティブな気持ちになれる。もちろん、たとえ体力に不安を感じることが増えてきたとしても、散歩は自分のペースで歩くことができるし、瞬発力や敏捷性なども必要ないので気楽だ。
また、散歩をじっくり楽しめるようになったのは、加齢によって時間や世の中に対する感覚が変わってきたことも関係しているように思う。若い頃には、とにかく時間が惜しかったため、ただ歩くことに1時間も使うなど考えられなかった。だから、歩くと言えば目的地にたどり着くための移動でしかなく、途中の道のりは単純な苦役としてしか感じられなかったのである。
今は年をとり、時間の流れに対する意識も穏やかになったからか、道中、かつて店だったと思われるシャッターが降りて名前が剥がれた場所が何だったのか推測したり、公園の不思議な遊具の用途について考えたりしている間に1時間たっているなんてことはザラだ。
こうした経験からも、散歩は自分のペースやルートを守れば、体力はさほど問題にならないし、少し時間にゆとりのできる中年以降にピッタリの趣味と言えるのではないだろうか。
ちなみに、1日に40km歩いたときには、終盤、さすがに足が痛くなって足をひきずりながら歩いていたので、もはや楽しいかどうか分からない状態になってしまったし、歩き過ぎるのはかえって体によくないようなので、最近は1日10km程度と決めている。
では、ここからわたしが実際にどのように日々の散歩を楽しんでいるのか、その楽しみ方を紹介してみようと思う。
1つ目は、近所の私的重要文化財とでも言えるものを発掘し、巡るという楽しみ方だ。
わたしにとって、特にお気に入りの私的重要文化財は、多摩市の愛宕配水所の給水塔だ。京王相模原線や小田急多摩線を使っている方は、多摩センター駅や永山駅から近く、電車からもよく見えるためご存じかもしれない。
見ての通り、けっこうな高台にあるのだが、いざ対面したときのわたしの気持ちは香川県の金刀比羅宮(こんぴらさん)の無限とも思える785段の階段を登って奥の院にたどり着いたときの気持ちに近く、自分にとっては名所なのである。
ここに、さらにマイナーな私的重要文化財を加えていくと、自分の中でオリジナルな散歩コースが生まれていき楽しくなる。
例えばこのお地蔵さん密集ゾーン。ご覧いただければ分かるように、手前の6体は大きさも揃っており、同じ規格で作られているように見える。そのため、最初から六地蔵として作られたと推察できる。しかし、奥の小さめの地蔵はどうにもバランスが良くない。セットなのか、別のところにあるものが集められているのか謎である。
未だに、その謎が解ける目処は立っていないし、むしろ解けない目処が立っているともいえるのだが、毎回「謎だ謎だ」と思いながら観察して通り過ぎているのがわたしには面白かったりする。
また、個人的には公園のたたずまいも文化財のように感じられる。特に植え込み。
わたしが住む多摩ニュータウンでは、「元ごみ箱の植えこみ(以下「MGU」と呼ぶ)をよく見かける。
遠くから見たらただの植えこみに見えるが、よく見ると「もえるもの」「もえないもの」と書かれているのが分かる。かつてはごみ箱だったが、そのちょうどいい形状から、ごみ箱としての使命を終え、植えこみとして第二の人生を送っているのであろう。MGUは必ず2つセットになっているので、独特のかわいらしさがある。わたしの推定では、ごみ箱として初めて設置されたのは1980年前後。
なぜかというと、ごみ箱の近くにベンチがあり、そこに「1981 TNT」とある。「TNT」は多摩ニュータウンの略称として地域内で時々使われていて、1981は製造年を表しているのだろう。
デザインに統一感があることから、おそらくベンチなどと同時に設置されたと推測している。ごみ箱の役割を終えたのはかなり昔のように見えるが、植えこみになってからもそれぞれの道を歩んでいて、公園でMGUを見つけると近寄って確認するのが好きである。
大木のそばにあるMGUなどは、上から落ちてきた種子が発芽して独自の形態を成すこともある。
また、MGUに酷似したブロックがずらりと並べてあるところを発見したときには興奮した。最初は、「どこかでごみ箱として活躍していたものが、一箇所に集められたのか!」と思い、かつての活躍ぶりに思いを馳せた……が、よく見ると「もえるもの」「もえないもの」のパネルがないし、パネルを嵌めた形跡すらない。つまり、こちらはMGUと違って最初から植えこみ用に生まれてきたということになる。
どれも推測の域を出ないのだが、「人に言っても特に共感はしてもらえない、自分だけの物語」を近所を歩くことで編んでいく楽しみがある……と理解していただければ幸甚である。伝わりにくいお話ばかりで申し訳ないが、ご自身で実践してみたら、自分にとっては輝いて見えてくると思う。
ほかに、文化財とは少し違うが、同じ場所を何度も歩いていると、季節ごとに風景の変化を感じ取ることができるのも散歩の良いところだ。
これは、どちらも同じ場所を写したもの。数年前、桜の季節に雪が降ったことがあり、桜並木のうち老朽化した一本が重さに耐えられず倒れてしまったことがあったのだ。見ての通り、今はただの花壇になっており、一見すると元からそうだったようにも思えるが、自分だけはかつての桜の存在を知っている。毎回、ここを通るたびに歴史の証人になったような気持ちで道をゆくのも乙なのだ。
2つ目は、自宅からではなく、どこか遠いところから散歩を始めるという楽しみ方だ。
やり方は簡単。電車で遠くの駅まで行き、あえて歩いて帰宅してみるのである。この最寄り駅の概念を書き換えてしまうような散歩の魅力は、なんといっても長い道のりの末にやってくるカタルシスにある。
発端は、中央線に対するコンプレックスだった。わたしは京王相模原線の沿線に住んでいるため、中央線に乗ろうとするとかえって時間がかかる。ただ、どちらも多摩方面へとつながる路線であるものの、京王相模原線が多摩センター駅まで開通したのが1974年なのに対し、中央線の新宿〜立川間の開通は1889年と歴史がまるで違う。加えて、中央線沿線は住みたい街としてもたびたび話題に上るような人気の駅も少なくないが、京王線の沿線はやや地味だったりと、ニュータウン民からすると若干のうらやましさを感じてしまうのだった。
そこで思いついたのが、中央線のどこかの駅から徒歩で帰宅すること。そうすれば、徐々に変わりゆく風景も楽しめるだろうし、何より中央線が身近に感じられるのではないかと思ったのである。
最初に試した中央線の駅は、まず立川である。
立川から多摩センターまでは多摩都市モノレールが通っているので、その線路沿いを歩くというシンプルなルートだ。実際に歩いてみると、シンプルなだけではなく、夜に多摩川にかかる立日橋を渡るのがなんともロマンチックで、お気に入りのコースになった。
さらに心理的な距離の遠い国立駅から帰宅してみたらどうだろうと降り立ってみると、駅前が大学通りですごいところに来た……と思った。
多摩ニュータウン周辺のイルミネーションといえば多摩センターだが、国立は学園都市として設計されたからか、イルミネーションも落ち着きがあっていい。距離としては徒歩2時間程度なので、実際にはそんなに大変でもないのだが(歩き慣れ過ぎたわたしにとっては)、遠くと思われていた国立駅から徒歩で帰宅できたときには、人間としてステップアップしたような気がした。
他にも、町田駅から帰宅するのも好きだが、いずれも見慣れぬ風景が徐々になじみの風景になってきて、我が家が見えてきたときに「ついに戻ってきた……」と、えも言われぬクライマックス感を得られるのが好きなところだ。
最後に散歩が案外役に立つということもお伝えしておきたい。
というのも、散歩は考え事をするときに役立つことが多いのだ。ここまで紹介してきた散歩の楽しみ方は、基本的に歩きながら風景を楽しむものだったが、自分のなかで何か考えたいことができたときには、電子機器を家に置いておき、風景も見ずにメモを片手に黙々と歩く。以前は喫茶店や公園などでも考え事をしていたこともあるが、歩き慣れたコースだと考え事に集中できて非常に効率がよいのだ。
具体的には、夜に2時間程度、地図がなくても必ず分かる道で約10キロの散歩コースで実践することが多い。「夜によく知っている道を歩く」というのがポイントで、なぜなら、分からない道があったら、どの道を歩くのか、などの雑念で思考が途切れてしまうからだ。まわりがよく見えない夜が望ましいのも同じ理由である。
散歩を始める前に今日の思考のゴールを決めておき、何か思いついたらメモしてまた歩く、というのを繰り返す。思いついたらすぐメモしないと忘れてしまうので、すぐに立ち止まれるような広めの歩道がおすすめだ。家でうんうん唸っているよりもいろいろ思いつく。ちなみにこの記事の素案は散歩中にまとめた。
あるいは、考え事をまとめるのではなく、単に頭の中をリフレッシュさせるために出向くこともある。そんなとき、わたしは人気のない道を夜中に音楽を聴きながら歩く。そうすると、もう長い間行っていないクラブに行ったときのような気分になり、家に戻ったときにはすっかり頭がスッキリしているのだ。
最近は家で音楽を聴くよりも外で音楽を聴くことの方がずっと長くなったので、音のよいヘッドフォンを買って使っている。
とはいえ、基本的に散歩は「役に立つ」からするのではなく、楽しいからするものであるという認識は変わらない。散歩が何かの手段になってしまったら、毎朝最寄り駅に行くための通勤経路の退屈さと変わらなくなってしまうだろう。
散歩というのは、気が向いたときにするのが一番楽しい。裏を返すと、気が向いたときにすぐ散歩できる状態にしておかないと興ざめしてしまうものである。
だから、わたしはいつでも散歩に出られるように常日頃から準備を怠らない。
例えば、出社してみたら、朝起きたときには想像もしていなかったハードな仕事をこなして帰宅することになったときなど、今日は疲れてるし歩きにくい靴だから諦めよう……となってしまいそうになるが、それは非常にもったいない。だから、わたしは出社するときでも、靴はデザインよりも歩きやすさを重視している。散歩を始めたころは、歩きやすい革靴を履いていたのだが、散歩熱が高まるにつれて、黒ならいいかと思ってスニーカーに替えたのだ。
また、それなりの画質で撮れるようにコンパクトカメラを常に持ち歩いている。いくつか試したのだが、いま使っているのは富士フイルムのX100F。ズームはついていないけれど、思い立ったタイミングで高画質で撮れるところが気に入っている。最初は首からかけていたのだが、いつしか散歩ではなく「なにか素敵なものを見つけて撮らないと」という強迫観念に駆られるようになってしまったので、最近は散歩に重点を置くため、かばんの中に入れている。
帰宅して、1枚も撮らなかったという日も多いのだが、シャッターチャンスがあればそれなりの画質で撮れる状態にあることで落ちついて散歩ができてよい。
地図に関しては、今や多くの人がスマートフォンに内蔵されたアプリを利用しているだろう。加えて、わたしは「Pacer」というアプリを使っている。カロリーと歩数、距離が表示され、昔はダイエットの進捗確認の目的で使っていたのだが、最近は歩き過ぎて膝に負担がかかるといけないと思い、歩き過ぎを抑制するために使っている。
写真は目標の10km近辺におさまって満足しているところ。10kmというのが適切なのかどうなのかは分からないが、以前は歩き散らかしていて足が痛くなることが多かったところ、上限を設けることで足の調子はよくなっているように思う。
このように道具を揃えれば、「隙あらば散歩できる人間」の誕生である。気が向いたときに散歩できる体制づくりから始めてみれば、「自分はこんなに散歩をしたがっていたのか」と驚くに違いない。形から入って歩きたおして、心身の成長を実感していただければ幸甚である。
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今回、やや駆け足で散歩の魅力について語らせていただいたが、散歩という行動はさまざまな方向に広がりを持っている。健康維持であったり、見識を深めたり、リラックスしたり。年齢とともに関心の領域が変わってくると思うけれども、そのときどきで散歩に熱中していきたいと思う。これを読んでくださったみなさんも、この記事をきっかけに、外に出て歩いてみていただければうれしい。
大阪生まれ。東大文学部卒業後、テレビゲーム製作を経て平凡な窓際サラリーマンとなる。 傍らで珍妙なブログ「ココロ社」を運営。書籍の執筆もしており、著書に『マイナス思考法講座』(阪急コミュニケーションズ)『モテる小説』(阪急コミュニケーションズ)『忍耐力養成ドリル』(技術評論社)など。好きな犬はヨークシャテリア。
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