人生のピークを過ぎ、ぼくは「未来のためだけに生きる」のをやめる

ぼくはいま42歳。

ちょっと前なら「人生の折り返し地点」などといわれた年齢なのに、人生100年なんてひどい時代になったと思う。まだ折り返すことすら許されない。

おまけに子どもはまだ小さいし、これから先を生きていくためには、もっと身を粉にして働くことが要求される。一方、働き方改革だとか業務効率向上だとかで働く時間は制限されるのに、給料を増やすチャンスは与えられない。

そんなひどい時代の中で、「老い」について考えてみないか、というお誘いをいただいた。それは、これまでの自分の生き方を見つめ直し、これからの歩き方を考える、すごく良い機会のように思える。

このクソ忙しい時間の中を、消耗し続けながら生きているぼくだからこそ、考えられることがあるように思うからだ。
 

「いまは、未来のためにある」と思って生きているぼくたち

ぼくらは人生のあらゆる場面で「目標」を立てる。

受験では志望校を決めてこれに見合う勉強をし、仕事では期初に今年の目標設定をして、3年後、5年後のキャリアデザインなるものを書き、会社の中長期経営計画にコミットし、あるいは生活の中でも、貯蓄や資産運用についての長期的なプランを立てる。

目標は人生に見通しを立てるために必要だし、また、自分だけではなく、周りの人とも心をひとつにするとても大切な作業だ。

しかし一方で、ぼくらが未来に向けた目標を設定するとき、同時に「いま」という時間が「未来の目標を達成するための、ただの手段」となってしまっているようにも思う。

「大学受験に合格するために、いまは楽しい青春を送ることは我慢して、勉強に全てを捧げよう」

「将来出世するための手段として、いまはこのつらい労働を何とか耐えよう」 

「住宅ローン完済という目標のために、いまはひたすら倹約して、苦しい生活をしのごう」

そうやって、「いま」という時間を未来のために犠牲にしている。

だけど、そんな人生って楽しいだろうか? 本当に、未来というものは、この貴重な「いま」を犠牲にしてまで手に入れる価値のあるものなのだろうか。

確かに未来ある若い人にとっては、十分にその価値があるように思う。もし志望校に入学できなかったとしても、期初の目標が達成できなかったとしても、そのプロセスで身に付いた能力や知恵は、必ず自分の味方となってくれる。

けれども、人生のピークを過ぎ、成長よりも老化の方が先に進んでいくぼくにとっても、果たして同じことが言えるのだろうか。

老体にムチ打って懸命に働いてもまったく給料が上がらない事態を前にして、それでも「このプロセスで身に付いた能力や知恵は、必ずぼくの味方となってくれるから」なんてことを、胸を張って言えるだろうか。

ぼくにとって、未来はもう輝かしくはない

ぼくはもう体力的に人生のピークを過ぎ、毎日身体が老化し続けているのを感じている。

会社では出世レースの中盤戦が終了して大勢は決まり、自分はもう出世しないだろうことも見えている。世代的には「人生再設計世代」などと呼ばれ、周りにいわゆるロールモデルも存在しない。

ぼくは、もうすでに「終わった人」なのだ。

終わったなら終わったなりに、定年退職までのらりくらりとやり過ごしながら会社にしがみつく選択肢も、昔はあったのだろう。でも多分、定年はこれからもずっと伸び続け、ついには「本人の健康寿命が終わる時」がデフォルトの定年に設定されるだろうから、子どもを育て終えたあとにのんびりとした老後を送るなんてのもできなくなった。

その頃には、もちろん年金制度なんてものは崩壊していて、健康寿命が尽きるまで働いて必死に貯蓄をし、やがて動けなくなったときにその貯蓄を食いつぶしていき、それが尽きたときにようやくエンディングを迎えることができるのだろう。

そんな状況の中で、ぼくにはもはや輝かしい、目指すべき未来なんて存在しない。となると、未来に向けて努力をする意味など何もないのだ。

ぼくが、求めても手に入れられなかったもの

ぼくが若い頃に目指していた未来は、もっと輝かしいものだった。

クリエイターとしての名声を手に入れ、世界中からオファーが殺到すると思っていた。いつも面白くてやりがいのある仕事に囲まれ、死ぬまでずっとワクワクしながら暮らしているのだろうと思っていた。

もともとそんなに物欲はないけれども、それなりの立派な車に乗って、それなりの豪邸を建てて、それなりの頻度で海外旅行に出かけるのだろうと思っていた。

 

だから、若いぼくが、今のぼくの体たらくを見たらガッカリするに違いない。若い頃とほとんど変わらない給料で、若い頃と同じように働き続け、おまけに昔なら絶対に嫌がっていたようなこともひょいと引き受けたりしている。

せっかくずっと憧れていたコピーライターになれたのに、それを手放して、わけの分からない仕事に精を出している。出世なんてまったく興味なかったくせに、今の残念な立場についてコンプレックスを感じ、うじうじと気にしている。

まったくもって、一体、かつて輝かしい未来に描いたたくさんのもののうち、ぼくは何を手に入れられたというのだろう?

人生の「時間」のとらえ方を変える

子育てをしていると、予定通りにいかないことの連続だ。

キャッチボールに出かけたはずが虫探しになり、虫探しはいつのまにか鬼ごっこになり、気がつくとなぜか泥だらけになっている。今でもそうやって予定通りにいかないことに腹を立てたりイライラしたりしてしまうが、それはぼくの方が完全に間違っていて、それこそが遊びの本質なのだ。

「遊び」とは非常にユニークな行為だ、なぜなら目的と手段が完全に一致しているからだ、と友人から教わった。

子どもは何か輝かしい未来のために遊ぶのではない。遊びたいから遊ぶのである。子どもの頃は当たり前だったはずの感覚を、ぼくはいつのまにかすっかり忘れてしまっている。

社会学者の見田宗介(筆名・真木悠介)さんは、著書『時間の比較社会学』(岩波書店、1981年刊行)の中で、人間の時間のとらえ方を4つに分類している。

1つは「反復的な時間」。

時間は現在から過去に過ぎていくのではなく、同じ時間を反復している、というもの。鬼ごっこを無限に繰り返そうとしている子どもの時間は、これに近いかもしれない。

もう1つは「線分的な時間」。

時間には「始め」と「終わり」があり、それらをつなぐ限定的な直線(線分)で表すことができる、というもの。キリスト教やユダヤ教にある終末思想などが代表的なものだそうだ。

そしてもう1つは「円環的な時間」。

円を使って表すことができる時間。例えばヒンドゥー教や仏教の輪廻転生のように、死後は生まれ変わって命は繰り返していくという考え方は、まさにこれだ。

そして最後が「直線的な時間」。

ぼくたち現代人のほとんどは、過去と未来に向かって永遠に延びていく「直線的な時間」の中で生きているのだという。

この時間意識の中で生きていると、「いま」は未来のために存在する、ただの手段でしかなくなっていく。これはミヒャエル・エンデが『モモ』で描いた、未来のために時間を貯蓄した気になり、生きる喜びを失っていってしまう大人たちそのものだ。

ぼくはもう何十年も、この「直線的な時間」の意識にとらわれ、ずっと「いま」を輝かしい未来のために犠牲にし、虐げてきたように思う。

だけど、もうそういうのは終わりにしたい。

ぼくはこれまで、それなりに、懸命に、未来のために我慢と努力を続けてきた。もうそれで、十分だ。
 

ぼくが、思いがけず手に入れたもの

若い頃に目指したクリエイターとしての輝かしい未来は、手に入れられなかった。けれど、実はあの頃欲しかったものの多くを、いまのぼくは全く違う形で手に入れているように思う。

コピーライターとしての道は途絶えたが、文章の書き手になりたいという夢は、こうやってインターネットに記事を書くことでかなえられている。

かっこいい働き方は実現できなかったが、たくさんの人から相談をもらい、無理難題を前に、想像とは違ったけれどいつもワクワクした毎日を送っている。

高級車も豪邸もついに手に入らなかったが、オンボロのママチャリを必死にこいで、子どもと一緒に走る日々を、ぼくは一生忘れないだろう。

そんな「いま」が、ぼくにはとても大切だ。ずっと我慢と努力をし続けて、結局手に入らなかった「未来」よりも。

だから、これからさらに年を取り、できることがどんどんなくなっていく中で、もうこれ以上「直線的な時間」だけを信じて生きる必要はないように思う。

それよりも、かけがえのない「いま」をたっぷりとかみしめて生きたい。そして、やがて自分がこの世からいなくなる瞬間を迎えたとき、ああ、このすばらしい命というものを、またいつか味わいたい、そう思いながら消えていきたい。

なんとなく、最近、うっすらと思うのだ。一人ひとりの命はいつかは消えていく。

しかし、生きる喜びというものは、人から人へ、命から命へと、巡り続けているのじゃないだろうか。そして、その人が生きて、その中で味わった喜びが大きければ大きいほど、それは新しい命へとたっぷりと受け継がれ、増幅されていくのじゃないだろうか。

鬼ごっこで鬼になった子どもが夢中になって他の者を追いかけ、また新しい鬼が生まれ、また必死になって他の子どもたちを追いかける。この単純な遊びの輪の中で、笑い声が上がり、それが少しずつ大きくなっていくように。

だから、ぼくらは安心して、「いま」をしっかりと楽しみ、限りある自分の命を存分に味わえばいいのである。

ぼくらは未来のために生きているのではない。「いま」のために「いま」を生きているのだ。

そしてこれから

ぼくらのもとには、日々たくさんの不安が届けられる。

子どもの将来がどうだ、老後の蓄えがどうだ、健康寿命が尽きたあとの介護がどうだ。まあ人間というものは、ことに不安というものに関しては、みんな天才的な発明家である。

ぼくは、これらに完全に抗うことはできない。たっぷりの不安を受け入れながら生きていくしかないだろう。

だけど、どんな時だって、これからは「いま」を見つめていきたい。

「いま」この瞬間の人生を、納得いくまで生きる

それが、これまで未来のために貴重な人生を犠牲にして続けてきたぼく自身への、せめてもの恩返しだと思うのである。

編集/はてな編集部

いぬじん
いぬじん

犬のサラリーマン/共働き研究家。中年にビミョーにさしかかり、いろいろと人生に迷っていたころに、はてなブログ「犬だって言いたいことがあるのだ。」を書きはじめる。言いたいことをあれこれ書いていくことで、新しい発見や素敵な出会いがあり、自分の進むべき道が見えるようになってきた。今は立派に中年を楽しんでいる。妻と共働き、小学生と保育園児の子どもがいる。コーヒーをよく、こぼす。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。 いぬじんさんの記事をもっとみる

おすすめの関連記事

介護が不安な、あなたのたよりに

tayoriniをフォロー ⁄ いいね!して
最新情報を受け取る

“ほっと” な話題

最新情報を受け取る

介護が不安な、あなたのたよりに

tayorini
フォロー ⁄ いいね!する

週間ランキング

ページトップへ