「老い」は”恐怖"か?SF小説から「老い」を捉え直す(寄稿:冬木糸一)

現代を生きる我々にとって、「老い」とは嫌なものだ。肉体や脳の働きは鈍くなり、「死」への恐怖が増していく。避けられるのならば避けたいと願う人も多いだろう。

しかし、仮に「老いを避けられる世界」が訪れたとき、我々の精神にはどのような変化が訪れるのだろうか。うれしいのか、それともつらく苦しいのか。

この問いに示唆を与えてくれるのが、SF(サイエンス・フィクション。科学的空想が投入されたジャンルのこと)作品だ。バイオテクノロジーにより肉体的な老いが克服された世界、機械の身体が当たり前になった世界……こうしたSF作品は、現実ではありえない状況をリアルに描き出すことを通して、我々に違った角度から「老い」を考えるきっかけを与えてくれる。

そこで本稿では、我々にとって当たり前の「老い」を捉え直すきっかけを与えてくれるSF作品をいくつか紹介してみようと思う。

選定した作品は、何よりもまず「おもしろい」ことを前提としている。純粋にSF作品として楽しんでいただけるものばかりを集めたつもりなので、興味を持った人は是非手にとってみてほしい。

400年以上生きる男を描く『トム・ハザードの止まらない時間』

まず最初に紹介したいのは、ドストレートに「老化」を扱った『トム・ハザードの止まらない時間』(マット・ヘイグ)だ。著者のマット・ヘイグは、『今日から地球人』などのSFほか、『#生きていく理由 うつヌケの道を、見つけよう』などのノンフィクション作品も手掛ける人物。

この作品では、老化が極端に遅くなる「遅老症」を患い、人の10倍以上もの時を生きるトム・ハザードの人生が描かれていく。1581年に生まれ、シェイクスピアやフィッツジェラルドと実際に交流があった彼は、まさに「生きた歴史」と言える存在だ。

一見すると「老いないことは幸せだ」と単純に思ってしまうが、長く生きるということは、それだけ歴史の荒波に揉まれてつらいことが積み重なっていくということでもある。ペストや魔女狩り、二度の世界大戦を経験し、たとえ誰かを好きになっても、決して添い遂げることはできない。こうした状況を経て、トム・ハザードの精神はすり減ってしまっている。

しかしだからこそ、そんなメランコリック状態になっている彼の陰鬱ながらも詩情豊かな語りは読者を魅了する。後半、抜け殻のようになってしまった彼が再度燃え上がるような恋に落ちる過程はとてもロマンチックだ。

また、実は遅老症を患っている人は彼だけではない。世界中に同様の症状を抱える人は何百人もおり、そうした組織との交わりもまたSFらしい展開で面白い。

「何百年も生きる」ことは幸せなのか、はたまた苦痛なのか? 読んだ人によって異なる感想を持つことになるだろう。

死への恐怖がない世界『ベンジャミン・バトン──数奇な人生』

続けて紹介したいのは、トム・ハザードも出会ったフィッツジェラルドによる『ベンジャミン・バトン──数奇な人生』(フィッツジェラルド)だ。

日本では映画版が有名だが、元となっているのは短篇小説。言葉を話せる老人の状態で生まれ、時を経るごとにだんだんと若返っていくベンジャミン・バトンの人生が描かれるささやかな一篇だ。

背骨が曲がった状態で生まれ、身体が活発になっていく彼にとって、「老い」とは基本的に喜びのプロセスだ。幼年期こそ学校に通えば老人ホームと間違えているのか? と罵られ、同年代の友人をつくることすらままならないが、20歳をすぎた頃から、全身の血管に新たな活力が流れ込み、朝の目覚めは楽しいものへと変わっていく。

金槌や釘の箱の発送のしごとに精を出し、より効率的な形に改善を積み重ね、街ではじめて自動車を所有した人間になるなど、趣味をも謳歌していく。かつては同世代の人間から蔑まれていたはずの彼が、いつのまにやらうらやましがられる存在になっていた。

その後彼は戦争に行き、ビジネスを営み、結婚して子どもをつくり、幼稚園に通い、最後は看護師の世話になって、自由も言葉も失われたまま消滅へと向かっていく。そう、彼は我々とは逆行した人生をたどるけれども、最終的に訪れるのは等しく消滅なのだ。

だが、終わりを間近に迎えた彼はこう語る。

思い出すことができなくなってしまった。最後に飲んだミルクが温かかったのか冷たかったのかも、何日たったのかも、はっきりしない──ベビーベッドと馴染みのナナの顔しかうかばない。やがて、何も憶えられなくなった。空腹のときに泣く──それだけ。

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(フィッツジェラルド、KADOKAWA)より

この言葉に触れると、死を前にして恐怖を感じなくて済むのは、幸せなのかもしれないと思う。

ゲームの世界に生きがいを見出す『セルフ・クラフト・ワールド』

続けて紹介する2作は、老いを中心テーマに据えているわけではない。しかし、未来の社会における「老い」を考える上で示唆に富んでいる。その一つは、『セルフ・クラフト・ワールド』(芝村裕吏)だ。

物語の中心にあるのは、オンラインRPG「セルフ・クラフト」。現実の100倍の速度で世界が進むこのゲームには、人工生命G-LIFEが埋め込まれており、それらはものすごい勢いで独自の進化を遂げていく。結果、ゲームにおける生態系は現実を追い越し、逆に現実の世界へと無数の技術的なフィードバックを行う状況になる。

仮想世界上での「進化」に現実世界が注目し、ただの遊びだったはずのゲームがむしろ現実を変革する構図の逆転それ自体抜群に面白いのだが、老いという観点からの面白さは、以下の台詞に集約されている。

老人にとって現実は〈セルフ・クラフト〉に劣る

『セルフ・クラフト・ワールド』(芝村裕吏、早川書房)より

身体が満足に動かず、毎日薬を飲み、死の恐怖に怯えながら生きる老人にとって、仮想世界は現実よりも自由に動き回ることのできる絶好のフィールドなのだ。現実の世界でめったなことでは若者たちとコミュニケーションができない老人たちも、ゲームのなかでAI相手であればスムーズに会話を交わすことができる。事実、本作で恋に冒険に活躍する人物は老人だ。

「歳をとってゲームなんかに夢中になって情けない」と思う人もいるかもしれないが、ただ死を待つよりはずっといい。

機械に取って代わられた世界「Wシリーズ・WWシリーズ」

『彼女は一人で歩くのか?』(森博嗣)からはじまるWシリーズ、およびその続篇であるWWシリーズは、肉体を人工細胞に置き換えることによっていくらでも寿命を延ばすことができるようになった社会を描き出していくSF大作だ。

10作以上にも渡り、森博嗣による仮想現実やAIが広まった未来社会のヴィジョンが描き出されていくこと自体がたまらなく贅沢な本シリーズだけれども、「老い」という観点からみたときにも興味深いものがある。

この世界では、事実上「老い」は存在しない。100年生きても、肉体的には若いまま。だが、実はみな精神的には老いている。例えば、この時代の人間は、科学技術に興味関心がなくなっている。なぜなら、彼らにとっては、高度なAIも、管理システムも、テクノロジーすべては自然のように「あらかじめ存在するもの」であるからだ。道を見慣れぬクルマが走っていても、誰もそれに興味・感心を持ったりしない。精神的には老いていない子供であれば、近くへ寄って、これはなんなのかと観察をはじめるだろう。

世界の運営は、そのほとんどが人工知能に取って代わられていて、複雑化したテクノロジーに対して、一人の人間が興味をもったところで理解できるわけでもないし、修理ができるわけでもない。何も干渉できないのであれば、好奇心を持っていても仕方がなく、精神的に退行していくのもある意味当然かもしれない。

だが、そのように世界を運営する機械が人間の介入不可能な自然と同一のものになってしまった時、人はもう、その状況を変えたいと思っても祈ることしかできなくなってしまう。

本シリーズは、そんな世界のなかで「ヒトとヒト以外」、「現実と仮想」の曖昧になったその境界を問いかけていく。

若々しい身体と、老人の精神『さようなら、ロビンソン・クルーソー』

最後に取り上げたいのは、SFとしては非常にオーソドックスに「老い」を乗り越えていく『さようなら、ロビンソン・クルーソー』(ジョン・ヴァーリィ)だ。

〈八世界〉と呼ばれる架空の世界を綴ったシリーズに連なる短篇である本作は、次のような文章で幕を開ける。

時は夏。そしてピリは二度目の幼年期を迎えていた。

『さようなら、ロビンソン・クルーソー』(ジョン・ヴァーリィ、東京創元社)より

この〈八世界〉では、身体を乗り換えることで人生に「二度目の幼年期」をもたらすことができる。主人公のピリは、歳をとって衰えた身体を捨て、水中でも呼吸可能な身体を得て、童貞のように初々しくセックスにいそしむ。

精神的には老人だが、身体は若々しい。それに呼応するように描写の一つ一つがいきいきとしており、一度失ったからこそ分かる若い身体を自由に動かすことのできる躍動感と、そのグロテスクさに満ちている。

加齢を重ねて日々重くなっていく身体を抱えている身としては、身体を換装したい、それで若い時と同じく思いっきり活動をしたいという欲望はよく分かる。一方で、こうした身体の重さを含めてこそ「自分なのではないか」という気持ちも湧いてくる。

老いからの脱却をSFならではのやり方で描き出していて、「老いとSF」というテーマを聞いて最初に思い浮かんだのがこの作品だった。短篇集全体も、性別や身体、住む場所を自由に選べるようになった結果として、「自由であるがゆえの孤独」を描き出す素晴らしい作品ばかりなので、ぜひこの機会に楽しんでもらえたらと思う。

未来の「老い」が楽しみ

こうした無数のSF作品を読んできたことで、僕自身の「老い」に対する考え方も大きく変質していったように思う。技術によって乗り越えるべきものであり、乗り越えた先にまた現れるものでもあり、ときにはその衰えを受け入れ、またあるときには楽しむべきものでもある。

ゲームをやる若者が歳を食うと、ゲームをやる老人になる。

『セルフ・クラフト・ワールド』(芝村裕吏、早川書房)より引用

先に紹介した『セルフ・クラフト・ワールド』で、こう語られるように、未来の老人は過去や今の老人とは異なるものになるはずだ。僕の老いの先には、どんな光景が広がっているだろう。それを見るのが、今からとても楽しみだ。
 

冬木糸一
冬木糸一

SFマガジンにて海外SFレビュー、本の雑誌で新刊めったくたガイド(ノンフィクション)を連載しています。 honz執筆陣。ブログは『基本読書』 。御用依頼感想相談苦情などありましたらお気軽にメールくださいな。対応致します。⇨huyukiitoichi@gmail.com

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