親が高齢になってくると、どのように老後を過ごしてもらうか、介護を見据えてどのような準備をしておくべきか、子どもの立場としては気になる問題でしょう。
今回は、お母さんと長年にわたって同居をしてきた河相我聞さん(49)に、共に暮らす中で「親の晩年」とどのように向き合ってきたのかを振り返っていただきました。
私が17歳の時に父が他界し、それ以降、母は一人で暮らしていた。
たまに顔をつき合わせて先の話をしても「子どもたちの世話にはなりたくないし、老人ホームも病院も嫌なのよ」と、いつもつっけんどんに言ってきた。息子の私が翻訳すると「子どもたちには迷惑をかけたくないし、他の人にも迷惑をかけたくないし、病院で無理に生かされたくないのよ」という意味だったと思う。
いつもちょこまか動いて元気そうな人だったけれど、高齢になった母は一人でも楽しく過ごせているのだろうか? 楽しい晩年を送ってもらいたいが、どうしたらいいのだろうか? 母自身がどう思っているかは分からなかったけれど、息子の私としては気がかりだった。
そうして私は17年ぐらい前から、母と同居を始めた。正確には、さまざまな事情があって「同居することになってしまった」と言った方がいいかもしれない。
始めはうまくいかないことばかりだったが、数年前くらいから、ゆるやかに関係がよくなっていった。
そしてそのあたりから、私は母の晩年について考え、いろいろと準備を始めた。そんな話をしたいと思う。
私は10代の早いうちから親と離れて暮らしていて、以降は連絡もさほど取っていなかったので、まさか一緒に生活するなんて想像もしていなかった。
母は年とともに話し方がキツくなっており、私とは生まれた国が違うのではないかと思うくらい考え方が異なっていた。反対に、母も私のことを「宇宙人」と言っていたので、お互いに似たような認識だったのではないかと思う。
なぜ同居することになったのかを細かく話すととても長くなってしまうので、ザックリとかいつまんで話したいと思う。
母が60歳になる少し前ぐらいだっただろうか。たまたま母から頼まれた荷物を持って行く機会があった。当時母はまだ働いていて、6畳くらいのワンルームに住んでいた。使えるお金がないわけではないのに、とにかく自分の衣食住にはお金を使いたがらない人だった。
仕事から帰ってきてひどく疲れた様子の母を見て、なぜだか急にいたたまれなくなった。そこで、母の職場の近くに広めのマンションを購入するから、そこに住んでほしいと提案した。母が一人で住むためだというと「そんなのもったいない」と言われそうだから「私が今後の仕事部屋として買いたい」ということで納得してもらった。
当時、私にはまだ手がかかる息子がいたので頻繁に母の元へ行くことはできなかったが、以前よりもずっと様子を見に行きやすくなったので気持ちがとても楽になった。一緒に住むのは難しくても、自分なりにちゃんと親孝行ができている気持ちにもなれた。
それから数年後、母は「仕事がしんどくなってきたからやめたい。代わりに自分で喫茶店か何かをやろうかな」と言い出した。
60歳を過ぎてから新しいことを始めるなんて大変そうにも思ったが、それを話していた母はとても生き生きと楽しそうだった。
それならいずれは一緒に住むかもしれないと思って、喫茶店ができそうな、店舗兼住宅の中古物件を探すことにした。昔から親にはやりたいようにやらせてもらってきたので、親にもやりたいようにしてもらいたかった。
とはいえそんな物件があるのだろうか? と思ったが、以前一階で喫茶店をやっていたという小さな戸建てを、母が運良く見つけてきた。運が良過ぎると思った。
小さいといっても少しお高めで少し無理をすることになったが、マンションを売り、昔住んでいた家も売って、さらにローンを組んで住み替えてもらうことにした。
そこからもしばらく、別々に暮らしつつ時折母の元へ行き来していたのだが、ある時私が当時所属していた会社と揉めて、長期間にわたって給与が支払われない暗黒の事態になってしまった(これも、今となっては壮大で面白い話になるのだが、話が脱線するのでここではやめておこうと思う)。
そんな中で自宅の家賃と母の住む一軒家のローンを払い、さらに息子たちの学費もかかるとなるとさすがに生活が厳しくなると思い、母にお願いして一軒家に同居させてもらうことにした。
つまり、思いがけず同居することになってしまった。
母がもっと高齢になれば同居する可能性もあるかと考えていたけれど、想定外に早まってしまった。
同居してからは、一言でいうと、いろいろあった。ものすごく、ものすごくいろいろとあったが、ザックリとかいつまんで話したいと思う(ちなみに、同時期に離婚の話もあったが、これもまた複雑な話なのでここではやめておこうと思う)。
同居し始めてしばらくは母も喫茶店を営むことに集中していたので、多少の言い合いはあれど、そこまで波風が立つことはなかった。
しかし数年後、母の病気が悪くなってしまったことや耳が少し遠くなってしまったことなどから喫茶店をやめることになった。
そこからは、母の関心の矛先が私や息子たちに向かってきた。洗濯や料理の仕方、私の親としてのあり方についていろいろと言ってくるようになったり、息子たちにも辛辣なことを言ったりするようになった。
私が子どもだった頃はテレビゲームに関すること以外は放任主義だった母が、なんでここまでつらく当たるようになったのかは分からなかった。もしかしたら更年期の症状だったのかもしれないし、病気で体がしんどかったのもあるかもしれない。
母は言い合いのたびに「私はあなたに面倒を見てもらいたくない」と言うようになり、私も「ローンを全て払ったら出ていきますので安心してください」と、売り言葉に買い言葉で返すようになった。
耳が遠くなっていた母とは必然的に大声で言い合うことになり、周りからしたら、ものすごい大げんかをしていると思われていたことだろう。
ちなみに、私には八つ上の兄がいる。兄は父親みたいに私のことを気にかけてくれて、何かあったらいつも助けてくれる存在なのだが、私以上に母とは考え方が合わなかった。
例えば、兄は医療の仕事をしているが、母は東洋医学や自然療法を信じていたため、基本的にはお医者さんを信じない。たまに兄がきて母の体の具合を心配してアドバイスをすることがあったが、表面上はニコニコしながら、お互いの話を拒絶している感じだった。
けんかはしていても母のことはやはり心配だったので、兄ともよく母の今後について話すようになった。
私「お母さん、言い合いになると『あなたに面倒を見てほしくない。病院に行くぐらいなら死んだ方がいい』って言うのだけど、どうしたらいいのかね」
兄「お母さんは頑固だからねぇ。 薬も飲まないし一度言い出したら聞かないし。変わってる人だから、老人ホームとか病院も絶対に行かないだろうねぇ。その時になったら考えようか」
私「私が小さい頃は本当にお母さんに手を焼かせたから、できる限りケアしたいんだよね」
兄「大変だと思うけど、何かあったら言ってね、何とかするから」
いつもこんな感じの会話をしていた。
兄の「何とかするから」というのは本当にいつもなんとかしてくれるので、とても心強かった。こんな時期がしばらく続いた。
しかしある時から、母との関係がほんの少しずつ改善していった。
これという理由は明確ではないが、おそらく母がパソコンやインターネットなどのテクノロジーを使いこなし始めたことがきっかけだったと思う。
母が喫茶店をやめた後、自分で年賀状などのデザインをしたいと言うので、パソコンをプレゼントした。
母は「自分がパソコンの使い方を覚えるなんて無理」と言っていたが「母がパソコンにハマってくれたら私や息子に対する注意が逸れて言い合いも減るかもしれない」と思い「できる限りサポートするから」と強引に勧めた。
そこから無理矢理ガラケーからiPhoneに変えてもらったり、Windowsに加えてMacも使ってもらったりしていたら、母も「あら、こんなに簡単ですばらしいものがあったのねぇ」となり……
最終的に、母の机はこんなことになってしまった。
そして期待通り、パソコンや新しいことに興味が向いて、だんだんと言い合いがなくなった。ただ、母との会話がなくなったわけではなく、むしろ増えた。
「これはどうやるの」と、パソコンやスマホアプリの使い方をよく聞かれた。さらに母は自分で興味のあるものを検索したりYouTubeを見るようになったりもして、その日見た面白い動画や記事の話を、聞いてもないのにしてくるようにもなった。当時の話については、過去の「tayorini」の記事で詳しく書いている。
高齢の母と関係が改善したきっかけは、意外にも「パソコンとスマホ」だった
母の好きなスピリチュアルの話や陰謀論は少しばかり受け付けにくかったが、とても楽しそうに話してくれたので、私までこの手の話に詳しくなった気がする。
おそらく母も、この頃には「同居も良いものだな」と思ってくれていただろう。
インターネットをしていて困ったとき、電球の交換や家具の移動が必要になったとき、私や息子にすぐに相談できる。そして何より、自分の話を聞いてくれる人がいるのだから。
そんなこんなで、とても緩やかに関係性が改善していった。冒頭の写真の通り、家の周りの天使も増えていったので、多分母も楽しく過ごせていたのだと思う。
それに反して母の病気と耳の遠さは少しずつ良くない方向に向かっていた。しかしそれでも補聴器は嫌がるし、病院にも絶対に行きたがらなかった。
私はこの先の介護を想定して、いろいろな準備を始めた。特に、お金の準備はかなり前からしていた。
母がもっと高齢になったら、バリアフリー化などのリフォームも必要になるかもしれない。それに介護が始まったら、私も今まで通り仕事をするのが難しくなるかもしれない。そういうことを想定して、10年くらい前から積み立てをしていた。幸い、家のローンも払い終わって息子たちにもお金がかからなくなったので、順調に貯まっていった。
母の体調が悪くなってからは、介護の準備も始めた。
介護保険でいろいろなサポートを利用できるのは知っていたが、そのためにはケアマネジャーに相談しながら介護認定を受けるのが一般的で、本人にも納得をしてもらう必要があると聞いていた。
しかしうちの母は、知らない人が家に来るのを絶対に嫌がるし、そういった介護サポートは受けたがらないだろうなと思った。そこで仕事で介護に関わっている友人をちょくちょく家に誘い、母とも顔見知りになってもらった。他にも、たまたま近所に介護に詳しい人がいたので相談したり、兄にも訪問診療などの手段を紹介してもらったりした。
2年くらい前から、母は一人で外を出歩くことが難しくなり、少しずつサポートが必要になった。
このあたりから、私はいよいよ介護をする決意をし始めた。息子たちも自分でやっていけるようになったし、私も10代からめいいっぱい働いてきたから、この先数年は母とゆっくりと過ごすのもアリかと思った。
仮に母の介護をすることになったとしても、合間に大好きなゲームをしたりスポーツジムに行ったりするぐらいはできるだろう。これだけ準備をして気持ちの余裕を持っておけば、大変な状況になってもなんとか対応できるだろうと考えた。
この頃、一緒に外を歩いていると母は「本当にすまないねぇ、こんなわがままな母親で大変な思いさせて。できればおじいちゃんみたいにポックリ逝きたいのだけどごめんね」とよく言うようになった。私の祖父は、家族が「朝食ができた」と部屋に呼びに行ったところ、頬杖をついて眠るように亡くなっていたらしい。とてもうらやましい大往生だと思う。
私は「すまないと思うなら、病院に行ったり兄の言うことも聞いて薬ぐらい飲んだりしてほしいのだが」と言おうとしたが、母はとにかく一度言い出したら聞かない性格だ。ここまで来たらむしろ変わらずそのままでいてほしいと思い、いつも「元気に長生きしてくれたらいいよ」と返していた。それも本心だった。
それから1年後くらいにはもう家の中を歩くのが精一杯になったが、相変わらず「病院には入院したくない、家にいたい」と言うので、兄とも相談して、その方向で進めることにした。介護に必要なものも少しずつ買いにいって、リフォームの相談もし始めた。
かなり大変になることも覚悟していたけれど、準備をしていて余裕があったからか、息子や周りの人たちがたくさん助けてくれたからか、そこまで大変さは感じなかった。
母は、どんなにつらそうでも
「すまないね、病院行った方が良いとは思うのだけど、行きたくないのよ」と言っていた。
私は
「それで良いよ。つらいそうな様子を見ているのはこっちもつらいけど、お母さんのやりたいようにしてもらいたいし、早く元気になってね」
と返した。
「元気になってね」とは言ったものの、このまま家にいて元気になるのは難しいだろうと思っていた。無理矢理病院に連れて行ったところで、大きく回復する可能性も高くはなさそうだし、仮に体が元気になっても、私たちの関係が悪化しそうだと思った。
なぜそこまで病院に行きたくないのかを聞いても「ごめんなさいね」と言うばかりで母は答えなかった。他の話題ではよく話すのに、この話になると話さなくなる。どんなにつらそうでも、絶対に病院に行きたいとは言わなかった。
迷惑をかけたくないと考えての行動だったのだろうか。病院に入院して無理に生きながらえることはしたくなかったのだろうか。病院で孤独になってしまうと思ったのだろうか。こればかりは、私にも兄にも本当に分からなかった。
病気がさらに進行してからは、意思疎通があまりうまくできなくなっていった。
最後の最後は病院になってしまったが、母の思うようにはできたと思う。
母に会うため、兄も兄の子どもたちも私の息子たちも全員来ていたのは、母にも見えていただろうか。
自分の主観で文章に書くと、とても親孝行な人の話みたいになってしまっているが、今となって思うと「自分のため」というのが大きかったと思う。
自分がただただ後悔したくない、という思いからの行動だった。
私は小さい頃からとても手がかかる子どもで、反抗期も本当にひどかった。 父親が他界してからも、母は一人で大変だっただろう。
母はそんな私について「干渉するよりも放任主義で育てた方がいいと思った」と言っていたが、要所要所でちゃんと手を貸して育ててくれた。私が今も変わらず長い間同じ仕事を続けてこられたのも、今現在楽しく生活できているのも、どんなに少なく見積もっても、親のお陰がとても大きい。自分が子どもを持って育てるようになってからは、なおさら分かる。
それだけのことをしてもらっておきながら、自分にとって考えが合わないとか一緒に住むのがしんどいという理由で、歳を取っていく母に何もしないという選択肢を取りたくなかった。自分が何もできないならまだしも、できるのにそれをしなかったとしたら、後できっと後悔するだろうと思った。
後悔したくないから、自分ができる限りのことをしたいと思った。ただそれだけだった。
私が思う理想の晩年は、家族がすぐ会いに行ける距離で過ごせることだった。母のことは運良く良い形にはなったと思っているが、母自身は、良い晩年を過ごせたと思ってくれているだろうか。
天国で父と再会して「良い晩年だったわぁ」って話していてほしいものだ。
編集:はてな編集部
俳優。2人の息子を持つ父親でもあり、独自の子育てをつづるブログが話題を呼び2017年に書籍化。
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