ふとした転倒、ちょっとした気になる言動……あれ? と思っている間に、気付けば親の介護は始まっているものです。編集・ライターの小林さんもそのひとり。「まさか…」と思っているうちに始まった義理のお母さんの介護を小林さんが振り返る、体験エッセイです。
2015年、84年の生涯に幕を閉じた義父。若い頃から地元で不動産業を営み、仕事関係の知人が多かったことから葬儀には300人を超える参列者が集まってくれました。
十分に生きた年齢だったこともあり、悲しみに包まれるというより、同年代の参列者から「次は俺の番かな」なんて笑うに笑えない冗談が、あちこちから出るような葬儀でした。そして親族である私たちに掛けられる言葉は、義父のことよりも「お母さんは大丈夫なの?」という声がほとんどでした。
葬儀が済み、義父の看護は終わりを告げましたが、私たちの介護生活はそれで終わったわけではありません。要介護5の義母がいるのですから。葬儀後も義母は特別養護老人ホームでショートステイを続けていましたが、たまたま個室が空き…ということは入居者の誰かが亡くなったわけですが…そのまま老人ホームに入ることができたのです。
と書くとスムーズに事が運んだように思われますが、実際は決断するまでに当然ながら葛藤がありました。自宅で面倒をみることはできないものか、家族が最期までみるべきではないのかと。
しかし、老人とはいえ車椅子がなければ移動もできない義母の排泄や入浴、食事などの面倒を、介護の素人である自分たちにできるのか。そんな不安もありました。そして、こんな言葉は使いたくありませんが、自分たちの生活を犠牲にしてまで自宅で介護する覚悟はあるのか。それもまた正直な思いでした。
みんなで悩んだ挙げ句、親戚や古くからの知り合いである近所の人たちには「親の面倒をみない」と非難されるかもしれないけれど、自宅での介護は家族全員が不幸になる。そう結論を出し、特別養護老人ホームにお任せすることにしたのです。
実際、義母の古くからの友人には「どうしてこんなことになっちゃったのからしらねぇ。かわいそうに…。家でみてあげられたらいいのに…」と会うたびに同じことを言われました。本人が自覚しているかどうかは分かりませんが、その言葉の裏には、家族が自宅で介護しないことへの非難も含まれていたと思います。
おそらく介護経験者の中には、同じような体験をされた方も少なくないのではないでしょうか。正直、「あなたは介護の経験があるのですか? 自分でやったことがあるのですか?」と言い返したいこともありました。介護の大変さ、苦悩は自分が経験してみないと本当のところは分からないと思います。
認知症患者の介護は、病気やケガの看護とは全く違います。改善が期待できないうえに、いつ終わるか分からない長い戦いなのです。日常生活での制約も増えれば、ストレスも重なる。体力的にも厳しい。家族だけでの介護は覚悟だけでは成り立たない。金銭的な負担は少なくありませんが、可能ならばしかるべき施設でプロの介護士さんにお任せしたほうが良い。私たちはそう考えました。今も、この判断は間違っていなかったと思っています。
義母が老人ホームに入ってからは、週に2回ほど面会に行き、昼時には好物だったおいなりさんや焼きそばを食べさせたりしていました。当然、自分では食べられないので、少しずつ口に運んで食べさせるという形です。しかし半年が過ぎた頃から飲み込む力が弱くなり、飲み物も食べ物も全てとろみをつけたものへと変わりました。
とろみを付けているとはいえ、みんなと同じ献立を味わえていたうちは良かったのですが、それすらも飲み込みづらくなり、数ヶ月後には食事は全てミキサーで砕かれた流動食へと変わりました。体の不自由に加え、食事という楽しみも奪われた義母は、その頃から言葉を発することも少なくなり、いつもぼーっと何処かを見ているような表情でいることが多くなりました。そして、ある日突然、妻のことも分からなくなってしまったのです。
「私のお母さんは、もういない…」
妻は、そう言って涙を流していました。
声をかけると、こちらに目を向けるけれど、その表情からは感情が読み取れない。天気の良い暖かな日には車椅子に乗せて散歩に連れ出したりもしますが、きれいな花を見ても、知り合いにあっても表情が変わることはありません。
私たちの言葉を理解はしているけれど反応できないだけなのか、そもそも何も理解できていないのか…。むしろ後者の方が良いと思っています。動くことも話すこともできない。ただ寝て、流動食を食べるだけの日々を理解して過ごしていたとするなら、それはあまりに残酷です。
あれは食事が流動食に変わってから半年くらいが経過した頃でした。いつものように妻が面会に行くと、老人ホームの職員さんからお話がありますと告げられたのです。その内容は、徐々に流動食も食べなくなってしまい体重が減り続けていること、このままだと十分な栄養を摂ることができない。選択肢として胃ろうを検討してみませんか、という話でした。
胃ろうについて語られる際、よく出てくるのが「人間の尊厳」という言葉です。口からものを食べられない状態になってもなお生き続けるべきなのか。実際、その頃の私は胃ろうに関してネガティブなイメージしか持っていませんでした。言い換えるならば、胃ろうに関する知識があまりに少なすぎたのです。
どうするべきか。家族全員が悩みました。義母本人の意思を確認できたなら、それに従うだけですが、それも叶わない。医師の話では、胃ろうにせず、ちゃんと流動食も飲み込めない状態が続いたなら数週間もつかどうか…ということでした。
義母は特に大きな病気を抱えているわけではありません。栄養を摂取できれば、まだ生きられる状態なのです。胃ろうを拒否する選択は、義母を見殺しにすることなのではないか。本当に悩みました。
そんなある日、妻が買い物に出かけた際、昔から義母のことをよく知っているご近所の奥さんと道でばったり会ったそうなのです。いつもなら挨拶程度で通り過ぎるのですが、その日はなぜか向こうから「お母さんの具合はどうですか?」と話しかけてきたのだとか。
妻は胃ろうの話は伏せながら、現在の状態を伝えたそうです。すると、その奥さんが前の年に亡くなった自分の母親の話を始め、「うちの母は、胃ろうにしたおかげで、昔のままのきれいな顔で死ぬことができたのよ。胃ろうって悪いように言われることが多いけれど、私はやって良かったと思ってるの」と話してくれたそうなのです。
妻にしてみれば天啓のようなものでした。まさかこのタイミングで知り合いから胃ろうの話を聞かされるとは。しかも、栄養が摂れているから、きれいな顔のまま亡くなったという、これまで聞いたことのないポジティブな感想を、その家族から聞くことができたのです。
その言葉が後押しとなり、私たち家族の考えも固まりました。元気とは言える状態ではないけれど、義母にはまだまだ生きる力が残されている。最期の瞬間まで、みんなの記憶にある義母の顔のままでいてほしい。そう思い、胃ろうを選択することを決めました。
体の衰弱が進むと、胃ろうの手術が行えないケースもあるらしく、決定後すぐに病院で診察を受け、手術に臨みました。
ただ、心配がないわけではありませんでした。術後に胃ろうが合わない人もいるというのです。しかし、義母の場合は、合う人だったようで、減り続けていた体重が少しずつ戻り、顔の肌ツヤも良くなりました。ただし、この状態がいつまで続くのかは分かりません。それでも、私たち家族は胃ろうを選んで正解だったと思っています。
だからと言って、全ての人に胃ろうを勧めるつもりはありません。まず第一に本人の意思もありますし、それぞれの家族が置かれた状況も異なるからです。
ただ、私たち家族にとってはベストとは言えなくてもベターな選択であったと信じています。意思の疎通はできなくても、自分で体を動かすことができなくても、ツヤツヤとした肌の義母を見るたびに、そう思うのです。
現在は、面会に行っても眠っていることが多く、正直私たちは義母に何もしてあげることができません。ただ、春が訪れたなら、天気の良い日に義母を車椅子に乗せ、大好きだった桜を見に連れて行きたい。元気だった頃の義母の笑顔を思い浮かべながら、咲き誇る桜を一緒に楽しみたい。そう思っています。
(最終回 終わり)
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