末期患者が自宅に帰れないのはなぜ?現場、行政から見えてきた“在宅医療推進の壁”

「患者さんの『病気』だけでなく、『暮らし』を看るのが訪問看護師の役目です」と語る聖路加国際大学・在宅看護学教授の山田雅子さん。

前編のインタビューでは、山田さんが訪問看護の仕事に就いたいきさつについて話をうかがってきた。

中編では山田さんが民間会社に入社し、訪問看護サービスの創設に携わり、病院の看護部長をつとめた経験および、厚労省の在宅看護専門官として働いた経験について、語ってもらおう。

今回のtayoriniなる人
山田雅子(やまだまさこ)
山田雅子(やまだまさこ) 1986年、聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)卒業。新卒時から3年間、聖路加国際病院公衆衛生看護部で訪問看護等に携わる。その後大学院を経て、1991年にセコム株式会社に入社、医療部門に携わる。1994年にセコム在宅医療システム株式会社(現・セコム医療システム)に出向。1998年にはセコメディック病院の看護部長に就任。2006年からは厚労省医政局看護課在宅看護専門官として訪問看護や在宅医療の推進事業を担当。2007年より聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)教授となり主として生涯教育を担っている。地域看護専門看護師。現在、要介護5の母と暮らしている。

セコムの在宅医療サービス事業の創設メンバーに

──訪問看護に3年間、携わった後、山田さんは大学院に進学されています。どんなきっかけがあったんですか?

山田

私は新卒で訪問看護の仕事に就きましたので、役に立ってない感じがして悩むことが多かったんです。

例えば、意識がなく、寝たきりの方を担当しましたが、月に2回程度の訪問でした。採血をして、家族がうまくできているのかを見てくるような役割でしたが、新卒看護師としては知識も技術も家族に劣るわけです。

そこで、大学院に地域看護学の教室が新設されるという話を当時の上司から聞いて、改めて訪問看護について学び直すことにしたんです。

──そのような問題意識を持って大学院で学んだ後、山田さんはセコム在宅医療システム株式会社(現・セコム医療システム)に入社されていますね?

山田

私が大学院を修了しようかという頃は、セコム株式会社が米国の在宅医療サービス会社を傘下におき、日本にも在宅医療サービスを展開すべく、準備を進めていた時期にあたります。当時、米国ではホーム・インフュージョン・セラピー(在宅輸液・注入療法)といって、点滴や輸血を自宅で行うために看護師が訪問するサービスがすでに定着していました。

──そこで、山田さんに白羽の矢が立ったわけですね?

山田

セコムの採用担当者が、大学院で看護管理学を教えてくださっていた荒井蝶子教授の研究室に相談に見え、私がちょうど、その部屋の前のコピー機で資料を複写していて、「あなた、ホームケアに興味あるんじゃない?」と声をかけられたんです。

在宅医療を実現するために越えなければならない壁とは?

──在宅医療という新規事業の起ちあげは、順調にいきましたか?

山田

とんでもない。医師はもちろん、1991年当時の医療関係者の中には「家で点滴をするなんて、とんでもない」と考える人も多かったですから、最初の頃は在宅医療そのものの認知度が低く、なかなか利用する患者さんが増えませんでした。

それから保険制度の壁もありました。今は介護保険事業を民間会社が立ち上げることは普通になりましたが、当時はまだ民間企業が医療を提供すること自体に否定的な空気でした。老人保健法に基づく老人訪問看護事業がまだ開始していない時期でもありましたから、セコムの訪問看護サービスは全額自己負担となっていました。

──全額自己負担では、受け入れる患者さんの心理的ハードルはかなり高くなりますね。

山田

問題は、保険に関わることだけではありません。

在宅医療の実現には、医療機器の進歩が必要不可欠ですけど、それによって生まれた新しい治療法を患者さんに受け入れてもらうのも、大きなハードルになります。

当時、皮下埋込式カテーテルといって、頸部の太い静脈にカテーテルを入れて、点滴をしますが、その接続具を皮膚の下の皮下組織に埋め込み、点滴をするときだけ、その接続部のゴムのようなところに針を刺すというシステムが開発され、米国では普通に使われていました。カテーテルからの感染対策に優れていましたので、在宅医療に入ってきたのです。

誰もやったことのない技術でしたから、練習するために米国製のモデル人形を取り寄せようと思いましたが、とても高価だったので、発砲スチロールと消しゴムを使った自作の人形で練習したりしました。

そんな状態でしたから、患者さんに「初めてなんですけど、皮下の接続部に針をさしてもよいですか?」とお願いするときは勇気が必要でした。下手をすれば、「お金を払っている利用者を実験台にするつもりか」とお叱りを受けることもありましたから。

新しいことに一緒にチャレンジすることが、患者さんにとっての闘病意欲につながることもあります。患者さんとは治療の内容や意味、そのやり方や、自分たちが訓練してきたことなどをちゃんと理解していただかなければなりません。そのためにコミュニケーション能力を高めることも求められたのです。

──在宅医療を推進するには、越えなければならない壁がいくつもあって、その実現には多くの苦労があったでしょうね?

山田

今までなかったものをゼロから起ちあげて、それを広めていく仕事は大変なこともあるけど、面白かったです。

とにかく、日本に在宅医療を根づかせたいという思いがあったし、それに関連して医療制度のことを理解したり、手順書を作ったり、医師や薬剤師と一緒に社内の医療職でない人とコミュニケーションしながら、一つひとつ積み上げる機会を頂戴できたことが楽しかったのかもしれません。

セコムでは現在、首都圏を中心に訪問看護サービスを展開。セコムの訪問看護事業には、聖路加で学んだ看護師が多数勤務している。

※写真はセコム医療システム株式会社提供

訪問看護の推進にブレーキをかけていた張本人とは?

──セコムの訪問看護サービス事業の起ちあげに携わって7年後の1998(平成10)年、山田さんはセコメディック病院の看護部長に就任します。在宅看護から病院看護へ転向するきっかけは、何だったのでしょうか?

山田

当時、セコムの訪問看護サービスではがん末期の患者さんの痛み止めや栄養の点滴などを自宅で行いながら、症状を緩和して自宅で過ごすことを支援する医療を推進していました。ところが、患者さんが「退院して自宅に帰りたい」と望んでいても、結局それが実現できなかったということがよくありました。

その際、病棟勤務をしている看護師によって思いが叶えられないという状況が多くありました。

「自宅で点滴なんて、無理です」と言い、「帰せません」と主張するわけです。自分の患者を会社の看護には渡せませんという気持ちもあったのだと思います。それほど信用がなかったですね。中には、「点滴をする方法を患者さんに教える時間をください」と言われ、帰宅を先延ばしにするうち、患者さんの容体が悪くなって帰れなくなるケースもありました。

──在宅看護の推進にブレーキをかけていたのが、同じ看護師である病棟看護師だったとは……。皮肉な事実ですね。

山田

「灯台下暗し」はよくあることですよね。そこで、病院の外からではなく、中から看護師が置かれている状況を観察して、そこから改めて在宅医療や訪問看護の推進を考えてもよいかなと思い、病院の仕事を引き受けることにしたのです。

厚労省で在宅看護推進の任務を遂行

──セコメディック病院の看護部長を開院から8年間勤めた山田さんは、2006(平成18)年から厚労省医政局の在宅看護専門官に就任されます。これには、どんないきさつがあったのですか?

山田

当時の厚労省医政局看護課長が聖路加の同窓で、「在宅看護専門官のポストに誰か適任者はいませんか?」と当時の聖路加看護大学の教授に相談されて、私の名前が挙がったようです。

セコメディック病院での8年間は、病院の機能を外側からではなく、内側から見つめる毎日で、それはそれはたくさんのことを教えてもらい、楽しかったですが、今度は行政の立場から訪問看護を推進する仕事に携わるのもよい経験になるかなと思いました。制度がよくないから進まないと感じていたこともありましたから。

──2006(平成18)年の当時、日本の在宅医療はどの程度、進んでいたのでしょう?

山田

話は少しさかのぼりますが、日本の訪問看護制度は1991(平成3)年の老人保健法などの改正によって創設され、翌年に老人訪問看護ステーションによる訪問看護がスタートしました。

当初は在宅で寝たきりの高齢者が訪問看護の対象でしたが、1994(平成6)年の健康保険法などの改正で、難病患者や障害者など全年齢の在宅療養者も利用対象になりました。

そして、2000(平成12)年には介護保険法が施行され、要介護・要支援の人は介護保険サービスとして訪問看護を受けられるようになり、現在に至っています。

私が在宅看護専門官として厚労省に入った2006(平成18)年は、診療報酬と介護報酬の初の同時改定があった年です。医療法改正も控えていて、医療の仕組みを病院完結型ではなく、地域完結型に変えていこうする方向性が固まっていました。

当時はまだ、「地域包括ケアシステム」という言葉は一般的ではありませんでしたけど、医療機能の集中と役割分担を組み合わせて、一つの地域で急性期、回復期、慢性期ごとに切れ目なく必要な医療を提供していこうというわけです。

そういう動きの中で、訪問看護を推進させるというミッションを与えられていました。

1991(平成3)年3月 老人保健法の改正により、老人訪問看護制度が発足。
1992(平成4)年4月 老人訪問看護ステーションが設置され、在宅にて寝たきりの高齢者を対象にした老人訪問看護がスタートする。
1994(平成6)年4月 健康保険法等の改正により、全年齢の在宅療養者に訪問看護を提供できるようになる。
2000(平成12)年4月

介護保険制度が発足。

訪問看護は介護サービスのひとつとして位置づけられ、要介護・要支援認定を受けている利用者は、医療保険よりも介護保険が優先して適用されるようになる。

訪問看護ステーションが抱える課題

──厚生労働省のデータを見ると、訪問看護ステーションは順調に増えているように見えますが、山田さんはどう考えていますか?

出典:厚生労働省 社保審介護給付費分科会 参考資料
山田

まだまだ少ないと思います。数の問題だけでなく、規模の問題もあります。

日本の訪問看護ステーションの半数以上は看護職員が5人未満の小規模事業者で、経営効率が悪く、看護師1人にかかる負担が大きいのです。

ですからこの問題は、数を増やすだけで解決するものではありません。

私は、訪問看護ステーションがケアマネジャーのいる居宅介護支援事業所とか、訪問介護事業所などといっしょになって、総合ケアステーションのような形で多機能になっていくことが望ましいと思っています。薬局とか、クリニックなどとくっついてもいいでしょう。
もちろん、地域の実事情に合わせた未来像を考える必要がありますけど。

そのモデルとして私が注目しているのが看護小規模多機能型居宅介護、通称「かんたき」です。2015(平成27)年の介護報酬改定によって、それまで「複合型サービス」として誕生した類型の一つです。

事業所内にケアマネジャーがいて、「通い」、「泊まり」、「訪問(看護・介護)」のサービスを要介護・要支援ごとに一元的に管理するため、利用者や家族のニーズに即応するサービスを組み合わせることができるのです。

複数の介護サービスと、それぞれに契約を結ばなければならず、支払も別々に行わなければならなかったものが一元化されるというのは、利用者にとって大きなメリットです。

──ありがとうございます。最終回の後編インタビューでは、山田さんが聖路加国際大学の教授に就任したときの話などをうかがいたいと思います。

内藤 孝宏
内藤 孝宏 フリーライター・編集者

「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。

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