病院で死ぬか? 自宅で死ぬか? それとも施設で死ぬか?
日本人の死に場所は、医療の進歩や社会の変化など、さまざまな影響を受けて変わってきた。
厚労省が公表した人口動態統計によると、1951年代初頭は「自宅死8割、病院死1割」だったが、1976年に「自宅死5割、病院死5割」と拮抗して、現代には完全に逆転している(図1)。
もっとも、自宅死が完全になくなったわけではなく、2000年代以降は1割前後(10人に1人)の割合で、横ばいで推移している。
「最期は病院のような非日常の場ではなく、住み慣れた自宅で日常の中で死を迎えたい」と願う人は少なくない。そして、そのささやかな願いを支えているのが、在宅医療・介護を担っている訪問看護師である。
そこで今回は、在宅看護専門看護師や訪問看護認定看護師を育成している聖路加国際大学大学院教授の山田雅子さんに登場いただき、訪問看護、病院管理、厚労省技官、大学教員とさまざまな立場で在宅医療や訪問看護に携わってきた自身の経歴を振り返ってもらうとともに、これからの日本の医療や介護の在り方について考えてみたい。
──山田さんは、どんなきっかけがあって看護師の道を志したのですか?
「志」と呼べるような立派な動機はなかったですね。大学に進学する前の私は、「何者にもなりたくない」を旨とする若者でしたから。ただ、周囲に指摘されて、自分でも「そうなのかもしれないなぁ」と思うような動機はあります。
前掲の厚労省の人口動態統計のデータで、日本人の死亡の場所が「自宅」と「病院」と同じ数字になった1976年、この年、同居していた祖父が自宅で亡くなったのです。死因は肺がんだったのですが、当時は「介護」という言葉もなかった時代で、入退院を繰り返す祖父の面倒を見ていたのが私の母でした。
祖父は痛いのが嫌いで注射も避けたがるような人でしたので、何回目かの退院のとき、母は「もうこれ以上の治療はいいので私が自宅で面倒を看ます」と医師に言って自宅に連れて帰ってきたんです。
当時、中学生だった私は、母が自分の父親の世話をする様子を間近で見ていました。
大人用の紙おむつもない時代ですから、祖父の布おむつを洗うために家族の洗濯機とは別の洗濯機を用意していました。もちろん、おむつカバーのような便利なものもなかったので、通気性のいいウールのセーターをハサミで切って自作していました。
昭和9年生まれで、7歳のときに戦争を経験した母は、何でも頑張っちゃう性格で、自分の腰を痛めたりしながら懸命に目の前のことに立ち向かっていました。
赤ちゃんと同じだと思って哺乳瓶で飲まそうとして失敗したり、天皇陛下とお話しているという物語に涙ながらに話を合わしたり、とにかく一生懸命に一緒に暮らしていました。
そんな生活が2~3年くらい続きました。その間、聖路加女子専門学校を卒業して、ある病院で看護総婦長をしていた大叔母が定期的に連絡をくれて、床ずれを予防する方法だとか、浣腸の仕方などのアドバイスをしていました。
自分の進学先を選ぼうとしたとき、このときの母と大叔母の様子が思い出されたのかもしれません。聖路加国際病院は、母が私を出産した病院でもありました。
──聖路加看護大学を卒業した山田さんは、新卒時から訪問看護師になったそうですね。訪問看護師は、病棟勤務をある程度経験した看護師がなるものだと聞いていますが、山田さんが新卒で訪問看護の仕事に就いたのは、なぜでしょう?
自分で希望したことになります。大学では助産師課程も選択していましたので、入職の面接の際に、当時の総婦長から「あなたは産科病棟で”いいわね” 」とすでに決まっているように言われまして、そのとき、「病棟でなく、外回りがしたい」と申しました。大変なへそ曲がりな学生だったわけです。
病棟で仕事をしたくなかったのは、聖路加国際病院の旧病棟は、間接照明で穏やかな雰囲気でとてもよかったのですが、その暗い環境で毎日働きたくはないなと感じていたからです。
──聖路加国際病院が自宅療養している患者を定期的に訪問する訪問看護を始めたのは、関東大震災から4年後の1927(昭和2)年だったといいます。その結果、聖路加は訪問看護のパイオニアと言われていますが、なぜ、それほど早い時期から訪問看護を行っていたのでしょう?
聖路加国際病院の創始者であるルドルフ・B・トイスラー博士は、医師であると同時にキリスト教の宣教師でもありました。
博士は、「公衆衛生」という考えから病院を作りました。これは、家庭や職場の衛生状態の改善、子どもたちの栄養状態の改善、住民への健康教育活動は、病人の世話をすることや看取りをすることと合わせて看護なのであるという理念のもとに病院と看護教育の礎を築いたということです。
聖路加の公衆衛生を基軸とした医療実践は、病院の中に公衆衛生看護部を設置し(1929年・昭和3年)、母性衛生、乳児保健、学校診療所、児童保健、結核予防、家庭訪問看護などを展開したとあります(聖路加国際大学学術情報センター大学史編纂・資料室編『聖路加と公衆衛生看護』p4より)。
私が就職した公衆衛生看護部はこうした歴史ある部署だったわけで、訪問看護という仕事は診療報酬では評価され始めた頃でしたが、採算に合うような部署ではありませんでした。それでも、聖路加の理念に基づいた重要な仕事として扱われていました。
こうした実践がモデルとなり、のちの保健所法に繋がり、保健師資格の創設に繋がっていきます。
──訪問看護と病棟看護には、どんな違いがあるのでしょう?
患者さんを看護するという点では違いはありません。ただ、看護する場所が病棟か、患者さんの自宅かという点で大きな違いがあります。
病院に入院した経験のある方なら理解していただけると思いますが、病棟では寝起きする時間、食事をとる時間とその内容、投薬する薬の種類や時間、生活習慣のことなどの細かな約束事を病院側が定めます。患者さんは、そうした非日常の空間の中で本音を言えないまま、医療者によって立ち居振る舞いをコントロールされています。
その一方、訪問看護では、看護師が患者さんの自宅に「お邪魔」をして看護を行います。主客が逆転するわけです。すると、その患者さんがどのような人なのか、本心では何を考えているのかをキャッチする手立てを見て取ることができるわけです。
お訪ねした部屋の本棚に本がぎっしり詰まっていれば、「読書好きの方なんだな」ということがわかりますし、窓から見えるお庭にきれいな植木が並んでいれば「植物がお好きなんだな」ということがわかります。そうした日常の環境の中で患者さんを理解した上で対面すれば、患者さんは本音を話しやすいのだと思います。
──なるほど。それは大きな違いですね。
「心不全パンデミック」という言葉をご存知ですか?
心不全を含む心疾患をもつ患者さんは毎年増加し続け、がんに次いで死因の第2位を占めています。それに加えて高齢者が増えている今、高齢心不全患者さんが大幅に増加することが懸念されているんです。
心不全の悪化を予防するために大切なことは主に、「水を取り過ぎないこと」、「食事の塩分を控えること」、「毎日体重を測ること」などですが、病院でそれらのことを医師や看護師に言われて「はい、はい」と聞いていた患者さんが、また息苦しいなどの具合が悪くなった症状で病院に戻ってくる、ということがよく起こります。
そうした患者さんを受ける病院では、水分や塩分の自己管理ができないことを責めるかもしれませんが、訪問看護では責めることが功を奏さないことが分かっていますので、患者さんの思いに触れながら、暮らしを支えていく方法をとります。
例えば、ラーメンが大好きな患者さんであれば、「ラーメンはやめましょう」と禁止するのではなく、「ラーメン、おいしいですよね。でも心臓によくないこともあるので、食べる回数を減らすにはどうしたらよいか一緒に考えましょう」となれば、少しずつ自己管理につながる可能性が見えてきます。そのあたりに訪問看護の面白さがあると思います。
訪問看護という仕事の特徴は、「病気と治療と暮らしの3つをよく知ったうえで、その人や家族の思いを叶えること」と言えるかもしれません。
──ありがとうございます。次回のインタビューでは、山田さんがこれまで歩んできた道のりについて、お話をうかがっていきたいと思います。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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