国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の年間死者数は「戦後最多」を更新し続けており、2040年前後に約168万人のピークを迎えるという。
「超高齢化社会」の次にやってくる「多死社会」を、私たちはどのようにとらえればよいのだろうか?
人生の最後を支えるプロフェッショナルたちと一緒に、その答えを探って行こう。
『「平穏死」のすすめ』(講談社)の著書で、特別養護老人ホーム芦花ホームの常勤医をつとめる石飛幸三医師。
前編では先生が芦花ホームに赴任後、施設が「誤嚥性肺炎製造工場」と化す中、入所者の家族との出会いを経て「平穏死」の大切さに気づいた話をうかがった。
その様子を描いた著書はベストセラーになったが、後編では出版後の反響について話を聞くことにしよう。
──先生が『「平穏死」のすすめ』(講談社)を書くことになったきっかけは何でしょう?
芦花ホームでは、定期的に家族の方と職員たちが意見交換をする家族会を開いていることはすでに述べましたが、その場を借りて、看取りに関する私の考えを共有する機会を設けるようになりました。
ホワイトボードに「口から食べられなくなったらどうしますか」と書いて、親や夫、妻にどこまで医療を受けさせるべきかを考えてもらうことにしたのです。
私がホームの常勤医になって以降、救急車を呼ぶ回数は3分の1に減り、誤嚥性肺炎になる方も順調に減っていたので、次なるステップのつもりでした。
そんな取り組みを始めた矢先、新任の施設長が赴任してきました。
ところが、この新施設長、第一印象が最悪でね。体もデカければ態度もデカい。口数の少ないむっつりタイプで、私が苦手とする性格の人に見えました。
そんな施設長が赴任して2カ月後、私を呼び止めて話しかけてきたのです。
「先生、ここで始まっていることは、全国に普遍化すべきです」と。
実はこの新施設長、別の施設に預けていたお母さんが誤嚥性肺炎になり、胃ろうをするべきかどうか悩んでいたそうで、芦花ホームで行われていた家族会での様子を興味深く観察していたようなんです。私は見かけだけで彼の人柄を判断していたわけで、そのことを大いに反省させられましたよ。
施設長の第一の提案が、胃ろうについてのシンポジウムを開くこと。区民ホールを借りて、倫理学者や弁護士、新聞記者などを交えての意見交換を行うことになりました。
その壇上でのことです。私は調子に乗って、「ここで起きていることを本に書きます」と宣言していました。これが、『「平穏死」のすすめ』を書くことになったきっかけです。
──『「平穏死」のすすめ』は発売と同時に大反響を呼び、たちまちベストセラーになりました。そのことを先生は予想していましたか?
いや、まったくの予想外でした。というのも、苦労して書いた最初の原稿は、妻から「中学生の作文みたい」と酷評されたし、講談社の編集長にも「出版界は厳しいのです。慈善事業で芦花ホームを宣伝するようなことはできません」と出版を断られていたからです。
その後、夏休みを返上して全面改稿して、やっとのことで本を出してもらうことになった。だから、自分ではそう期待をしていませんでした。
その一方で、芦花ホームの家族会での意見交換を通じて、実に多くの方が身内を看取ることについて悩みを抱えていたことも頭にありました。
終末期の高齢者への無遠慮な医療の介入が本人をかえって苦しませてしまうこと、自然にまかせた静かで穏やかな看取りが重要であること、それらのことは、すでに多くの人が本音では気づいていて、たまたま私が少し早いタイミングで口を開いた。それが大きな反響につながったということなのかもしれません。
──具体的には、どんな反響がありましたか?
講演の依頼があれば、できる限り応えてきましたが、中でも胃ろうの造設を積極的に進めている学会から「来てほしい」と頼まれたのには驚きましたね。
もちろん、依頼を引き受けて、敵陣に乗りこむような気持ちで講演の舞台に立ちましたよ。案の定、胃ろうの機具を開発した医薬品会社の人たちがズラリと並んでいて、口では何にも言わないけど、ブスッとした顔をしていましたよ。
中でも最前列にいた女医さんは、講演後の質問タイムで私に感情をぶつけてきました。
「今まで私は胃ろうを造設することで、多くの患者さんや家族の方に感謝されてきました。そのことを知らないで、胃ろうを批判するのですか」と目に涙をためて訴えられた。私はあわててこう説明しました。
「いや、私は胃ろうそのものが問題なのだと主張しているわけではありません。老衰が進んで、もはや栄養をそれほど必要としなくなった人に対して機械的に栄養を与え続けることを問題にしているんです」と。
実際、胃ろうをつけたあと、口腔リハビリをして再び口から食べられるようになる方が多くいることも事実ですからね。
すぐに納得してもらうわけにはいかなかったけど、その学会からはその後も講演の依頼が来て、3回目に行ったときには、「過度な胃ろうは控えるべき」という意見が私以外の発言者からも聞かれるようになりました。
──2014年の診療報酬の見直しでは、胃ろう手術の診療報酬が4割削減になり、安易な胃ろう造設を抑制する動きになりましたね。
そう、時間はかかったけれど、社会の意識は少しずつ変わっていきました。
──芦花ホームのスタッフの人たちも、先生の本を熱心に読んでくれたそうですね?
介護施設では、看護師と介護士をはじめ、理学療法士や管理栄養士、歯科衛生士など、さまざまな職種の人たちが働いています。
そのほとんどが医療の現場で働いてきた人たちですから、「終末期の高齢者に過度な医療は控えるべきだ」という私の主張を受け入れにくいと感じる人もいたはずです。
そこで、内外の調整を担当する生活相談員と看護主任が各職種の責任者を集め、「看取りプロジェクト」と名づけた勉強会を始めたんです。
芦花ホームでは2007年にホームで亡くなる方が8割に及び、現在もその傾向が続いていますが、看取りに立ち会ったスタッフの中には、少し前まで一緒に過ごした入所者の最期にひどく動揺してしまう人もいました。
そこで、お互いの経験を共有し、職種間の連携をスムーズにするための「看取りプロジェクト」です。ときにはスタッフだけでなく、家族の方々も交えて看取りについて学ぶようになりました。
──看取りを行うにあたって、家族との話し合いはとても重要だと思いますが、むずかしいと感じることはありますか?
そんなこと、何度もありますよ。
むしろ、何の葛藤もなく話が進むケースなどないと言ってもよいでしょう。
食べるペースが落ちていき、眠っている時間が長くなって、看取りが予想される状態になったとき、介護士、看護師、相談員などのスタッフたちは家族の方々との面談を繰り返し行い、安らかな最期を迎えるにはどうすればよいのかを話し合います。
延命治療が必要ないと思われるケースでも、「手段があるなら、手を尽くして欲しい。少しでも長生きして欲しい」と考えてしまうのが人の気持ちです。
「それは本人のためにならないことだ」と、あえて強い言葉で意見を述べて、相手を泣かせてしまうこともある。
そんな憎まれ役を買って出るのはたいていの場合、私です。一緒にいる看護主任や相談員は、泣き出してしまった娘さんを両手で抱いてなだめる慰め役をつとめます。
だから、家族の方々との面談は1対1ではなく、チームを組んで行うことが重要です。
──家族同士で意見がぶつかることもありますよね。そういうとき、悔いが残らないようにするにはどうしたらよいですか?
意見がまとまるまで、何度も話し合うことが大切ですね。
1回でダメなら、2回、3回と繰り返す。本音をぶつけ合ってケンカするのもいい。
悔いが残ってしまうのは、そういう話し合いを避けたまま、なし崩し的に最期をむかえてしまうときです。
看取りを終えたとき、「あのときはたくさんケンカをしたけど、それが精いっぱいだった」とふり返ることができるほうが、悔いは少ないでしょう。
──ところで、先生は今年で85歳になりますね。ご自身で老いを実感することはありますか?
それこそ、毎日のように実感していますよ。
そもそも大学時代は陸上部のキャプテンをしていましたから、体力には自信のあるほうでしたが、還暦を過ぎたころからめっきり走れなくなりました。試しに近所の公園を走ってみても、すぐに息が上がってしまう。物忘れをするのも日常茶飯事です。
ただ、老いることについて、ネガティブな感情は持っていません。朝起きて、「今日は腰が痛くない。調子がいいな」と感じる日は、それだけで儲けた気になりますからね。
もし、老いてよかったなと思うことがあるとすれば、そんな風に日々感謝して生きる幸せを知ったことです。
芦花ホームでの経験は、医療には2つの役割があることを私に教えてくれました。ひとつは、人をケガや病気から救うための医療。そしてもうひとつは、最期まで楽しく生きることを支えるための医療です。
外科医として過ごした40数年は、前者の側面でしか医療を見ていませんでした。「自分は多くの患者の命を救ってきた」という自負がある反面、「死を克服することができない以上、傷んだ部品をなおす修理屋に過ぎないのではないか」という迷いがつねにありました。
ところが、芦花ホームに来たおかげで、人生を支える医療を知ることができた。このことには心から感謝をしています。
もちろん、老いがもっと進めば、芦花ホームの仕事もできなくなるでしょう。それはあらがいようのないこと。私もまた、死に確実に近づいています。
最近、こんなことがありました。本多智康くんという、若い医師が私のもとを訪ねてきたんです。話を聞けば、サラリーマンを経て医師になった彼は、研修先で高齢者医療の悲惨さにショックを受けたそうです。そんなときに私の本を読んで、芦花ホームと同じような老人ホームの常勤医になることを決意したそうです。
まだ30代という若さで、「治す医療」から医師としてのキャリアを始めるのではなく、「人生を支える医療」に就いたわけです。
冗談のつもりで、「お前さん、その若さで都落ちするのは早すぎるだろ」と言ったら、「男が一生の仕事と決めたことはやりとげるべきだと、先生は自分の本に書いているじゃないですか」と反論されました。本多くんとはその後もときどき会って、酒を酌み交わしていますが、とても楽しい時間です。こういう人の存在を知ると、「私なんかいつ引退してもいい」と思うし、「若い者に負けずにいつまでも頑張りたい」と励まされたりもする。ありがたいことですね。
結局のところ、最期の一瞬まで感謝の気持ちを持って過ごすこと、それこそが私にとって理想の「平穏死」です。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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