認知症の彼女が、死にゆく仲間に「いってらっしゃい」という理由―生きてても、死んでても、帰れる場所

私がオバーサンになったら

「あのね、私がオバーサンになったらね」

夕飯の買い物途中、一緒に近所の大きな病院を通りかかった時、Aさんはその白い建物を見上げ、ポツリと話し始めました。

Aさんは身も心もまだまだお若い、はつらつとしたレディですが、すでに80代。

すでにもうオバーサンなのでは? などと野暮なことは申しません。

しばし立ち止まり次の言葉を待ちます。すると、まるで今日の献立を話すような軽さで、こう仰ったのです。

「もし、オバーサンになって認知症になったら、こういうとこに入れていいから」

Aさんが入居し私が勤める「きみさんち」は、認知症専門のグループホーム。当然、Aさんもしっかり認知症をおもちです。

いわゆる認知症の進行度合いで言えば中等度以上。入居となるまでには、様々なトラブルを抱えてきたそうです。

「もし私が認知症になったら」という言葉は、「少なくとも今、自分は認知症ではない」ということでしょう。認知症という自覚がなくても、様々な症状やその症状への不安や混乱、周囲の無理解から、認知症の初期に、多くの人は苦しみを感じるものです。

でも、今認知症をおもちのAさんは、認知症の症状のことを気にせずにごく当たり前の生活を送っているようで、それはAさん自身にとってもそれを支援する私たちにとっても、とても喜ばしいことです。

入居されてからのAさんは、まるで水を得た魚のようでした。

ほぼ毎日外出され、地域の人々と交流し、少しお手伝いすれば買い物も料理もこなせました。なにかにつけて、

「こんないいとこはないよ」

「ここのみんなは家族だから」

と口にするようになり、私はAさんがきみさんちを安住の地と思ってくれていると思っていました。

だから、「私が認知症になったら病院に入れて」という言葉に、少しばかりの衝撃と疑問がわいたのです。

「認知症になった私」の行く末

Aさんにどう答えるか言葉を探しているうちに、ふと気が付きました。

他の入居者さんが記憶障害や見当識障害、そこからくる興奮や混乱など、認知症の症状を示している時、Aさんはそれを認知症だと解釈していなかったのです。

「どんどん忘れてしまうの、どうしよう」と記憶障害に悩まれている人には

「歳をとったらね、忘れちゃうことはあるもんね。アタシもそうなの」

わけもわからず興奮されている人に戸惑うスタッフには

「あー、あの人はね、お腹がすいてワタワタしてんのよ。しばらくしたら落ち着くから」

ご自身が、混乱した入居者さんから暴言をぶつけられた時にも

「たぶんね、言われたことを、ちょっと勘違いしたのよ。取り違えって怖いね」

時には鋭く、時にはふんわりと、他の入居者さんの状態をありのままに受け取っています。

人の言動を病気の産物としてではなく、誰にでもありがちなちょっとしたミスや誤解としてとらえながら、人間関係をさりげなくやりくりする。つい専門的知識にたよりがちな私たちは、その姿に反省させられることもありました。

そんなまなざしをもつAさんにとって、いったい、認知症とはどういう状態なのでしょう。

「Aさん、認知症になるの、怖い?」

「そりゃそうよ。みんな言ってるわよ、怖いって」

今、テレビの健康番組などでは、認知症を取り上げることが増えています。 (あってはいけないもの)(なってはいけないもの)……時に直接的に、時に隠されて、そんなメッセージがあふれています。 Aさんが認知症を怖いものと思うのも無理はないかもしれません。

「それじゃ、Aさん、認知症になったらどうしてほしい?」

「……そうなったらねぇ……死なせてほしい」

認知症であるAさんが、認知症になったら死なせてと願う。こんなに悲しい皮肉はありません。

認知症支援にかかわるものにとっては、身を切られるような言葉です。

しかし、普段のAさんを知る私には、言葉通りの意味ではないように思え、より深い思いを伝えているような気がしました。

ちょっとした会話から、その人の哲学ともいえる深い思いが引き出せることはよくあることです。私は聴く姿勢を整え、さらに質問を続けました。

「それじゃ、認知症になったら一番困ることはなに?」

「そうねぇ、きみさんちの皆に迷惑をかけることかな?」

「どんな迷惑がかかると思ってるの?」

「うーん……葬式だね」

わかってきました。Aさんにとって、認知症は死に近い病のイメージ。

死の間際には病院に入れていい、ということのようです。

そしてその後、自分が亡くなった時にみんなにどんな影響があるかの心配をされているようです。

「それじゃ、きみさんちのみんなが葬式を出すのは迷惑じゃないって言ったら?」

「えー、悪いわよ。でもねぇ、それだったら病院には行きたくないかな」

「もし、その時が来たらどうします?」

「アタシの小遣いから、皆に1杯ずつごちそうして。お世話になりましたって」

居酒屋に勤めていたAさんらしい一言です。

「じゃあ、引き受けるから、条件があります」

「なぁによ?」

「私には2杯ください」

「まったく。しょうがないねぇ」

「おかりなさい」の場所

そんなやりとりがあった後のある日、Aさんは仲間の死に臨むことになりました。

様々な事情やご本人・家族の希望から、自宅や介護施設での看取りが増えています。当ホームでも、入居者様の看取りを行っています。死の厳かさや意味に直面することも増え、スタッフもご入居者も、ともに考える機会が増えてきました。

Aさんが「この人はただもんじゃない、徳がある人だよ」と評していた、100歳を超えた風格あるBさんを当ホームから葬儀場へとお見送りする時、Aさんはこう声をかけました。

「いってらっしゃい、待ってるからね」

私は不思議に感じました。あの世で「待っててね」は理解できるのですが、「待ってるからね」とはどういうことでしょうか。これは、認知症からくる症状ではないように感じられました。

そこでお見送りの後、私はAさんに「待ってる、ってどういうことですか?」とたずねたました。すると、Aさんは答えました。

「あの人の心はね、帰ってくる。

ここはね、帰ってこられる場所だからね。

生きてても、死んでても、待っててくれる人がいて、

帰れる場所があるっていうのは、なにより大事なことなんだよ。

だから、いってらっしゃいと、待ってるからねは、一緒なんだ。

そして必ず、おかえりなさいになるんだよ

それを聴いて、私はAさんが「認知症になったら、病院に入れていいから」と言った本当の意味がわかった気がしました。

Aさんは、本当に待っていてくれる人、帰れる場所を見つけたからこそ、病院に「入れていいから」と言ったのではないかと。

「いってらっしゃい」と病院に行き、そのまま亡くなったとしても

「待ってるからね」と見送る人々がいれば

「おかえりなさい」とその人々のもとに帰ることができる。

Aさんは「きみさんち」を、そんな場所として考えていてくれているのかもしれない。 私の希望的観測かもしれません。

でも、安らかに過ごし、逝ける場所があればこそ、精いっぱい生ききることが可能になる。 それは確かなことのように思えます。

生きていても、魂になっても

きみさんちが「おかえりなさい」と迎えられる場所でありますように。

認知症があっても、なくても

全ての人に「おかえりなさい」の場所がありますように。

編集:編集工房まる株式会社

イラスト:macco

「おかえりなさい わたしのこころに」

志寒浩二
志寒浩二 認知症対応型共同生活介護ミニケアホームきみさんち 管理者/介護福祉士・介護支援専門員

現施設にて認知症介護に携わり10年目。すでに認知症をもつ人も、まだ認知症をもたない人も、全ての人が認知症とともに歩み、支え合う「おたがいさまの社会」を目指して奮闘中。 (編集:編集工房まる株式会社)

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