認知症のひとと会うのは、外国に行くのとちょっと似ている。
ご本人は病気で「認知」が変わるけれど、認知症の人とのかかわりで、わたしも「世界」がちょっと違って見えるスイッチが入る。
認知症の人が集い暮らすグループホームのスタッフが、日常のエピソードからお届けする、「わたし」たちを変えるエッセイ連載です。
とある日のこと。私はスタッフに応募してきてくれた人の面談をしていました。おとなしく真面目そうな女性で、緊張した面持ちで業務の内容やホームの概要を真剣に聞いていました。
その面談が終わったころ、それまでリビングで寝入っていた入居者さんのAさんが目を覚まされました。面談を終えた女性がAさんの前に屈んで、「これからよろしくお願いします」と声をかけました。すると、Aさんは女性の顔をしばらく見つめ、ふいに「あなたは続くのか~?」とおっしゃいました。その瞬間、女性の顔がパッと赤くなり「続けます! だからお願いします!」と、面接の時とは全く違うハッキリと感情のこもった声で答えました。
その言葉を聞いたか聞かないかのうちに、またAさんは寝入ってしまいました。スタッフ希望の女性にとって、Aさんの言葉はショックではなかったかと心配にもなりましたが、その女性は無事登用に至りました。
後日、スタッフとなったその女性に「Aさんにああ言われてどう感じた?」とたずねると、「実は、志寒さんの説明を受けた時点では、『自分に務まる仕事だろうか』と不安で、面談のあと辞退の連絡をしようと思っていたんです。でも、Aさんの『続くのか~?』という言葉は、私の気持ちが見透かされていたようで恥ずかしくて……『続けてやる!』という対抗心のようなものが芽生えました。それで面談のあと、その前の思いとは逆に『ぜひここで働かせてください!』と電話をかけていたんです」。
Aさんは直前まで寝入っていました。女性がスタッフとして応募してきたことは知らないはずですし、面談内容も聴こえていないはずです。辞退するつもりの、今後会うはずもない女性から発せられた「これからよろしくお願いします」の言葉。その言葉の裏の心の揺れまで、Aさんは感じ取ったのでしょうか。
私自身も新人のとき、同じような不思議な体験をしたことがあります。
現在いるホームに勤務し始めて数日後、覚えることも多いし自信はないし、足取りも重く出勤していた道すがら、外出していた入居者さんのBさんにお会いしました。Bさんは杖でこちらを指さし、同行している私の先輩スタッフに何か話しています。その後、Bさんは私の会釈も目に入らないかのように通り過ぎていきました。
その後、先輩スタッフがBさんの言葉を伝えてくれました。「Bさんがね『あぁ、あの人ね。帰ってきたのね』だって」と。
また、Bさんは認知症の症状がある程度まで進行していました。そのような状態の人にとって、実は新しく出会った人の顔を覚えるのは至難の業なのです。私が「新スタッフ」だと理解していたとも思えません。
先輩スタッフが私に向けた表情と、私がBさんに向けた表情を瞬時に読み取って、“あの人はもうすでに私たちの仲間だ”と感じ取り、それを肯定してくれたのでしょうか。
勤務して数日の私が、既にBさんの心の世界の住人となったこと、そして私はホームに“帰ってくる”人間であること……その言葉は、現在も私の励みになっています。
これらの例に限らず、認知症状態にあるみなさんの「心の機微を受け取る」洞察力に驚かされることは本当にたくさんあります。
もちろん、これまでの長い人生での体験から、人間関係の荒波を乗り越え学ばれてきたことも活きているのでしょう。しかし、現場にいると、認知症の人の相手の感情を読み取る力には、それ以上のものがあるのではないかと感じます。Aさんのおかげで仲間になった女性職員は、「まるで心を読み取るエスパーのよう」と感心していました。
認知症で脳の前頭葉の機能が低下すると、言葉やその場の状況を読み取り、論理的に推理し、適切な判断をすることが難しくなっていきます。それでも慣れた環境なら不都合は少ないのですが、新しい環境で暮らすとなると、戸惑いや不安がいっぱいになります。
それは、例えば私たちが、単語の意味が少しわかる程度の国に行って、そこで100年後の未来にタイムトリップして生活するようなものです。
少しでも早口になればもう聞き取れず、わずかに聞き取った単語の意味をつなげて理解するしかありません。新聞を読もうとしても100年後の未来ですから、見たこともない情報機器でしか読めないかもしれません。外に飛び出しても、未来の得体のしれないものが並ぶなじみのない場所ばかりです。頭上を自動運転の無人の乗り物が飛び交っているのかもしれませんし、故郷に戻りたくても電車も駅も過去の産物になっているかもしれません。
そんな異世界に迷い込み、戸惑い、混乱する日々……ですが、そんな未来の外国でも通じそうなものがあります。同じヒトなら持っている共通言語、つまり表情やしぐさ、それを通した感情のふれあいです。
相手の言葉がわからなくても、笑顔から敵意のないことは感じます。それに応じて相手を思いやる気持ちを、言葉にならなくても何とか伝えようとします。未来のモノの扱い方がわからないなら、やってみつつ周囲のヒトの表情を伺います。笑顔ならそれで正しいのでしょうし、困った表情なら何かまずいのかなと、違うやり方を探ります。
だからこそ、認識の異世界に住む認知症の人々は、私たちより表情や相手の感情に敏感であろうとしているようです。それこそが、わけのわからない世界で一番頼りになる手段だからでしょう。言葉や論理的能力が機能低下し、限られた情報源や機能のなかにあって、言葉を超える世界で自分を守り、相手とうまくやっていこうとするのです。
ある意味、目を閉じれば耳を澄まし、耳をふさげば目を凝らすことにも似ています。認知症の人は私たちよりも、心の声に耳を傾け、心のありように目を凝らしているのかもしれません。
ヒトにとって原初的な言葉以前のコミュニケーション、仕草や表情から感情を読み取る能力は、認知症になっても簡単には失われません。そのことを指して感情の力が“残る”と表現されていることがあります。私はその表現に違和感を覚えます。
それは単に“残った”ものなのでしょうか?視覚を失った人がそうでない人よりも優れた聴覚で声色や音楽を聴き分けるように、私たちよりも感情の力を“発達させた”といえるのではないでしょうか。
認知症の人は感情の力に頼り、精いっぱいその力を発達させているからこそ、まるで私たちは超能力をもつエスパーのように感じるのではないでしょうか。その優れた力をただ“残った”能力として扱うのは、なんだか失礼な感じもします。
ヒトは感情でもコミュニケーションをする動物です。赤ん坊が泣いているとき、親も自然に悲しそうな表情になり「痛いのね」「お腹すいたねぇ」と悲しそうに語りかけます。赤ん坊はその親の働きかけで、感情というものが他人に伝わること、親がその感情を理解してくれることを体感で学び、人間関係を発達させていくそうです。
それを心理学者のダニエル・スターンは“情動調律”と呼びました。ピアノの調律でお互いに音を奏でながら、あるべき音に調整していくように、親と子はお互いの感情を共鳴させながら、感情や心の世界を拓いていくのです。
Aさんは、「辞退しよう……」という不安を抱えた女性に“不安で続けられないと思っているのね?”と、Bさんは自信なく出勤する私に“あなたは私の世界にもう住んでいるのよ。おかえりなさい!”と感情の世界で語りかけたのでしょう。情動調律で親が子の心に共鳴しながらその世界を拓くのと同じようです。
認知症をもつ人々は、その研ぎ澄まされた能力で、私たちの心の奥底を開いて不安や自信のなさを認め、共鳴して表現してくれたのだと思います。それによって私たちは、立ち向かう思いや感情の力を引き出してもらったのです。
情動調律でも前提となっているように、私たちはもともと感情でコミュニケーションする生き物なはずです。
ともに笑い、ともに泣き、ともに怖がる。そうして心を発達させ、社会を形成してきました。誰かが笑ってくれるから一歩が踏み出せる、泣いてほしくないからもうひと頑張りできる。人と感情でつながることで、力を生み出し、生存競争を生き残ってきた側面は否めません。
しかし、高度に社会が発展するにつれ、感情にふたをしたり、嘘をついたりすることも増えていきます。仕方のないことではありますが、苦しいのに笑ったり、悲しくて泣きたいのに怒ったり、そ知らぬふりをしたり。そうした感情をごまかすのに役立ってしまうのが、言葉や論理の力です。
これぐらいで泣いてはいけない、愛されるために怒ってはいけない、笑顔を見せるとナメられる、子どもの前で取り乱してはいけない……様々な言葉や論理で感情を縛ります。そのうち、自分の心にあるものがどんな感情なのか見失ったり、どんな顔をすればいいのかわからなくなったりすることもあるのではないでしょうか。
もちろん、感情と向き合うことで生まれる笑顔もありますが、引き出される苦しみもあります。感情で真剣勝負を仕掛けてくる認知症の方々とのコミュニケーションは、生半可なことではないなと思うときもあります。
しかし、感情の力は、もともとヒトがヒトと共によりよく生きていくために使えるものではないでしょうか? 私たちも、認知症の人たちまでにはなれなくても、「相手の感情に波長を合わせる力」を研ぎ澄ますように意識してみてもいいのかもしれません。
自分や相手の言葉や考えを受け取るだけではなく、ヒトのキモチを受け取り、キモチで返す。それが、意外とヒトどうしの本質的なコミュニケーションだったりしないでしょうか。
『あなたの感情はいまどんな感じ?』と表情で問われ『まぁまぁですね。そこそこですよ』と笑顔を返す。
『不安だよ』と震える手を『大丈夫、ともにいきましょう』と握り返す。
こんなふうに、耳をすませて相手の感情の音を聞き、一緒のリズムで演奏するように。それは、認知症をもつヒトとのコミュニケーションにも活きるはずです。
言葉にならぬ世界を信じて、相手の奥底の「ヒト」と向き合い、心のリズムを合わせること。その大切さを、私は認知症の人とのかかわりの中で学びなおしていると感じています。
企画・編集:編集工房まる 西村舞由子
イラスト:macco
「あなたのキモチとアンサンブル」
現施設にて認知症介護に携わり10年目。すでに認知症をもつ人も、まだ認知症をもたない人も、全ての人が認知症とともに歩み、支え合う「おたがいさまの社会」を目指して奮闘中。 (編集:編集工房まる株式会社)
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