認知症のひとと会うのは、外国に行くのとちょっと似ています。
ご本人は病気で「認知」が変わるけれど、認知症の人とのかかわりで、わたしにも「世界」がちょっと違って見えるスイッチが入るのです。
認知症の人が集い暮らすグループホームのスタッフが、日常のエピソードからお届けする、「わたし」たちを変えるエッセイ連載です。
はじめまして。志寒浩二と言います。私は、「グループホーム」という、認知症をもつ人たちがともに暮らす家でスタッフをしています。
そういう場所で起こることは、皆さんは「私に関係のないこと」と思うかもしれません。
でも、実は、認知症ではない人のこころもちや見方もちょっと変えるような、メッセージのようなできごともたくさんちりばめられているのです。
これから、こちらでそんな話をお伝えしてみたいと思います。
グループホームで、夕食も終わりご入居の皆さんがそろそろ寝ようかというころ、その中のAさんが息子さんの名前を呼んでいました。私がお部屋をたずねると「息子が仕事先から帰ってこないの!」ととても心配そうにしておられます。Aさんは80代後半。息子さんもとっくに定年退職をされ、ご自身のお宅を構えて長く別々に暮らされています。
しかし、Aさんの中では、息子さんはまだ若く、自分と同居していることになっているのでしょう。連絡もなく息子が帰ってこない。夕食も食べていないだろう。心配で寝るどころではない。それは紛れもなくAさんにとっての“真実”。大切な世界です。
Aさんは私に「ねぇ?あなたなら何か知ってるわよね?」とお尋ねになりました。おそらく私はAさんの世界では、息子さんの事情を知り得る人間、例えば息子さんの友人や同僚になっているのでしょう。そこで私は「ご連絡遅くなりました。息子さん、急に出張になられました。息子さんでしかできない、重要な仕事が急に発生いたしまして」とお答えしました。
実は、私たちスタッフは事前に、Aさんの息子さんは、そのような急な業務が発生しうる仕事に就かれていて、それをAさんはとても誇りに思われていたという情報をご家族からいただいていたからです。
私の言葉を聞いたAさんは「連絡ぐらい自分でよこせばいいのにねぇ」と言いながら笑顔に。息子さんの仕事の大変さと、それがいかに世のためになっているかを交えて雑談するうち、穏やかにお休みになりました。
Aさんにみられるような記憶障害は認知症の代表的な症状です。一日も終わろうとするころ、認知症の人の脳はとても疲れています。その疲れが記憶障害を呼び起こしたのでしょう。
私たちは過去から現在、そして未来へ記憶を紡ぎながら暮らしています。思い出があり、自分自身も、周りの世界も、時間の糸でつながり続ける。そう当たり前のように信じて生きています。記憶障害とは、そうした「当たり前」だった時間の糸が途切れてバラバラになってしまうこと、その途切れた糸が糸くずになり絡まってしまうことです。
たった数分前のことが思い出せなくなり、50年前の記憶がまるで5分前の出来事に感じる。記憶障害をもたない私たちにとっては、想像もつかない奇妙な状態です。また、多くの人が「本人は記憶障害があることもわからない」と思っていますが、それは大きな誤解で、ご本人にとっては、「何かがおかしい……」と感じつつも何が本当かわからないという、大変苦しい体験です。
そんな苦しみや悲しみから自由になるために、認知症の人はみな、“いま”“ここ”をしっかりと生きようとします。自分がわかる情報を必死に解釈し、それをもとに「自分だけの世界=イマココだけの世界」を生み出すのです。その世界の核になるのは、ご自身が一番力強く、一番きらめいていた頃の「記憶のイメージ」です。
冒頭のAさんの場合は、素晴らしい仕事に就かれた息子さんを誇りに思い、お世話をし、時には嫁の心配もする。その母親として輝いていた頃が、自分を支える大切な時間だったのでしょう。その大切な記憶の残り香を頼りに、“いま”“ここ”を作り上げたのだと思います。
そうして作られた認知症の人の世界は、当然、私たちが感じている客観的現実とは違います。その現実とのずれでトラブルが起きたり、時に周囲の人はそれを都合のいい自分勝手なものと感じ、苛立ちや困惑を感じたりすることもあるでしょう。でも、周囲の人々が間違いを指摘しようとすると、ご本人は全力でそれに抵抗します。ご本人にとっては、大切な記憶を頼りに必死で作った「イマココだけの世界」を否定されることは、自分自身を否定され、再び絶望と混乱の世界に突き落とされることだからです。
私たちのような認知症介護を専門とするものは、その認知症ご本人の「イマココだけの世界」を支え、守ろうとします。その世界は客観的な現実ではないため、ご本人の気持ちや解釈によってくるくると姿を変えます。それを探りつつ、よりよい「イマココだけの世界」を作り出すことに協力していくのです。
私たちスタッフの対応を、“大変ですね”とねぎらわれてしまうことがあります。確かに簡単なことではないと思いますが、特別なことではないと思っています。むしろ、「認知症のない人たちは同じ時間を生き、客観的な世界を共有している」という一元的な認識に、私は違和感を覚えるのです。
私たちの世界は過去の思い出に彩られています。その思い出の影響で、現実の世界を「イマココだけの世界」として解釈するのは普通のことです。
同じ落ち葉の光景に、ある人は失恋の光景を重ね合わせ悲しみの世界を見るし、別の人は友人と焼き芋を焼いた落ち葉焚きを思い憧憬の世界を見るでしょう。
私たちはみんな、事実とは違うかもしれないけど自分を支えてくれる、ちょっと歪んでいるかもしれない「イマココだけの世界」に生きているといえるかもしれません。
現代は、自分だけの世界をわきに追いやって、客観的な世界に生きることを良しとする傾向もあります。しかし、それを「当たり前」と思い込むのは危険な気がします。
同じ時、同じ場所にいても、百人いれば百通りの世界があることを忘れて、自分の世界の中の知識や理解を“常識”“当たり前”として押し付け合うのはよく見られることですが、いい結果になることは……あまりないように思います。
認知症の人は、「イマココだけの世界」から戻ってくることが、私たちより時間がかかったり、難しくなったりしています。でも、実は違いはそれだけで、私たちの世界の見方・作り方と大きな隔たりはないのかもしれません。
一方で、彼らは生理的に過去の一部を忘れ、未来を予見することが難しくなっていて、“いま”“ここ”に生きざるを得ません。だからこそ、“いま”“ここ”に必死で向き合い、一生懸命に生きている。そして苦しみや悲しみを乗り越えるために、自分の世界と時の流れを作り出している。それは、私たちがなくしかけている、生きることへの誠実さなのかもしれないと思うのです。
認知症をもたない私たちも、ただ繰り返していく日常で、自分がいま、どこにいるのか、いったい何をしているのか、わからなくなることはないでしょうか。
そんな時は、少し客観的な世界に生き過ぎているのかもしれません。認知症の人が必死で生きるその姿勢、そのまなざしのように、あえて「イマココだけの世界」にフォーカスし、あなたのスイッチを切り替えてみてはどうでしょう。
“いま”“ここ”を捉えることで、むしろあなたが何者なのかが、自分ではっきりとわかるのかもしれませんよ。
編集:編集工房まる株式会社 西村舞由子
イラスト:macco
「イマココを生きるのは、ボクの方がじょうず」
現施設にて認知症介護に携わり10年目。すでに認知症をもつ人も、まだ認知症をもたない人も、全ての人が認知症とともに歩み、支え合う「おたがいさまの社会」を目指して奮闘中。 (編集:編集工房まる株式会社)
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