郷里で暮らす父は大の酒好きだ。しかし、70代も半ばを過ぎ、体のあちこちにガタが来ている。「日課の晩酌は相変わらずだけど、酒量はずいぶん減ったわよ」と母が電話口で言っていた。
やがて、要介護認定を受けて一人では思うように動けなくなったとしよう。そんな父が「久しぶりに外で飲みたい」と呟いたら母はどうするのだろう。
介護体制が整った自宅や施設とは違い、通常の飲食店に連れていくのはいささか心配だ。すべてをケアしてくれる店があればいいのにーー。
あった。2016年にオープンした「介護スナック 竜宮城」だ。母だけでなく自分もいつ介護の当事者になるかわからない。後学のために見学してきた。
店の所在地は神奈川県横須賀市。最寄駅は京急急行の追浜(おっぱま)駅だ。駅からは海に続く大通りがまっすぐ伸びていた。
そちらには向かわず、横須賀街道沿いを少し歩くと到着。ほぼ駅前と言っていい近さだが、多くの客は送迎車で来るのだろう。
「うわ、これは入りづらい」と思ったあなた。大丈夫、65歳未満は入店できないのだ。
完全予約制で送迎付き。2時間飲み放題、食べ放題、歌い放題で8000円だ。
店内に入ると予想以上の盛り上がりだ。今日のお客さんは市内のデイサービスの利用者グループ。計10人で、最年少が74歳、最年長93歳だという。男性が気持ちよさそうに演歌を熱唱している。
あとで男性に「何の曲ですか?」と聞いたところ、嬉しそうに「永井みゆきの『大阪すずめ』だよ」と教えてくれた。
そのまま2階の和室に上がり、経営者の佐々木貴也さんに「介護スナック」が開店に至った経緯を聞いた。
「うちは鍼灸マッサージの治療院からスタートしたんですよ。カバーする領域を徐々に福祉全般に広げていったんですが、仕事を通じて『要介護の人たちが気軽に飲みに行ける場所がない』ということを知りました。そういう需要があるのなら、じゃあ作ってあげようと」
飲み屋といっても居酒屋やバーなど様々な形態がある。そこをあえてスナックにしたのは「昔はしょっちゅうスナックで飲んでいた」という高齢者の声を数多く聞いたからだ。
「若い人はあまり行かないけど、日本では昔からの文化。居酒屋と違って一人で行っても話し相手がいる。カラオケを介した交流もできる。よくよく考えたら、スナックって非常によくできた業態なんです」
ちなみに、この物件は元ガールズバーとのこと。2階のモダンレトロな部屋は「洒落で作った」というが、ガールズバー時代は女性スタッフの待機場だったと思われる。佐々木さんは1階と2階を一度スケルトンにして、介護スナックとしてイチから内装を仕上げた。
店で働くスタッフは全員福祉施設の職員。いわば、介護のプロだ。また、コンセプトを曖昧にしたくなかったので、受け入れる客は「65歳以上の要介護者」限定にした。介護人や施設のスタッフはもちろん同席できる。
「ご来店いただく前に要望の詳細を同意書に書いてもらうんです。飲み過ぎないように一人一人の適量をメモする他、油物や醤油などのNG食品も把握。一方で、好みの食べ物があれば、極力お出しするようにしています」
食事は細かく切って食べやすいように配慮している。喉に詰まらせると一大事だからだ。さらに、マグロの切り身は通常より2割ほど薄く切って提供する。
この日は、ステーキ、マグロの中とろ、カニグラタン以外にも、鰻の蒲焼、冷奴、ポテトフライ、杏仁豆腐、種なしマスカットがテーブルに並んだ。
「今日は『鰻』を出してほしいというご要望があったんですよ。これで一人3500円だから、決して儲かるわけじゃない(笑)」
完全バリアフリーの店内も配慮が行き届いている。広いトイレにはオムツ交換台を置いた。
動線を考えて手すりが設置され、杖なしでも店内を移動できるようになっている。
サテンのソファーは防水仕様の特注品。万が一失禁しても後処理が簡単だ。床にはスリップ防止のマットを張ったが、雰囲気重視で石模様にした。
「テーブルはスナック用のものを注文して、ちょっと低くしています。要するに、気持ちよく過ごしてもらうためには介護介護したらダメなんですよ。どこから見てもスナックという演出を徹底させないと」
再び1階に降りると、カラオケタイムから談笑タイムに移行していた。笑い声が絶えない。皆さん、2時間のうちに大いに仲良くなったようだ。
介護スナックの感想を聞くと、「楽しくて時間を忘れそう」「昭和の感じが懐かしい」「お食事も美味しかった」などのコメントが返ってきた。
ここで、施設のスタッフから「お時間になりましたので、これでお開きにしましょう」の声。客全員から自然に拍手が沸き起こった。
最初から順風満帆だったわけではない。「年寄りにお酒を飲ましてぼったくろうとしているのか」という嫌がらせの電話を受けたこともあるという。
「スナックでもキャバクラでも、最初に言われた金額より高くなりがちでしょう。高齢者は自分で判断できないから払ってしまう。ここはそういう店にしたくなかった。8000円以上は絶対に取られないということを地道にアピールしたことで信頼を得られたんだと思います」
ちなみに、佐々木さんのご両親は健在で、両親ともにお酒好きだという。
「私なら余命が短いと言われても『飲みたい』と言われたら飲ませちゃうと思います。もちろん、適量は厳守しますが(笑)」
介護スナックの店名が「竜宮城」というのも秀逸だ。海中で飲めや歌えやのひとときを過ごして、俗世に戻るといつもの暮らしが待っている。つまり、自分が要介護者だということを忘れさせてくれる空間なのである。
塾講師を経てリクルートに入社。2003年よりフリーランス。焚き火、俳句、酒をこよなく愛す。編著に『酔って記憶をなくします』(新潮文庫)など。
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