介護の苦労といえば、つい介護を“する側”の立場で考えてしまうことが多いはず。しかし、当然ながら介護を“される側”にも様々な苦労があるに違いない。
いったい「介護される」ってどんな気持ちなんだろう? 介護ビギナーのライターが身をもって体験した「介護される」のリアルをレポート。
「ご飯を食べさせてもらう」という言葉から、どんなイメージが湧くだろう。たとえば恋人同士、または幼子と母親のように、ごく親しい者たちによる愛情に包まれた食事風景を思い浮かべる人も少なくないはずだ。
ではこれが「食事介助を受ける」という言葉なら? それでも同様に、愛情に包まれた食事風景を思い浮かべられる人って、はたしてどれくらいいるのだろうか。
睡眠や性行為と並び、人間の三大欲求に数えられる食事。それだけに、ついつい「食べる」ことはすべて楽しいはず、と思ってしまいがちだ。
しかし、それはあくまでも欲求のおもむくまま、自発的に食べる場合に限ってのこと。食事介助の体験取材を経てわかったのは、自分の意志とは無関係に進められる食事ほど、味気なく苦痛なものはないということだった。
今回お邪魔をしたのは、介護サービス大手・SOMPOケアが、研修施設「SOMPOケア ユニバーシティ」でスタッフ向けに行っている研修プログラムの現場である。10日間におよぶ研修のうち丸1日をかけて、食事介助に必要な知識や技術を学ぶという。
そもそも「食事介助」とは、嚥下(えんげ/飲み込み)障害などの理由から、ひとりでの食事が困難な人のために行う介助を指す言葉だ。介助のなかでも、生命にかかわる特に重要な位置を占めるのは当然だが、研修を通じ繰り返し注意されていたのは、食事介助が単に安全に「食べさせればOK」ではないということ。
その点を理解するためSOMPOケアの研修では、介護する側だけでなく、介護される側の立場を経験することにも、多くの時間を割いている。
食事介助を受ける体験の第一歩となったのは、「自分の口の中を見せる」ことだった。なんのことはない行為と思った人は、試しに誰かに向かって自分の口を大きく開けてみてほしい。
なんともマヌケな絵面……というだけでなく、これってかなり恥ずかしい行為なんですよね。しかし、これぞまさしく人に“食べさせてもらう”ために通らざるを得ない、最初の関門なのである。入れ歯や歯抜けがある人ならば、その恥ずかしさはさらに増すはず。もちろん、口臭だって余計に気になってしまうだろう。
正直この体験をするまで、食事介助なんて赤ちゃんのように食べさせてもらえばいいんだから、自分で食べるよりむしろラクチンなのでは? とタカを括っていたのだが、ここで早くも暗雲立ち込めた感じだ。
続けて鼻をつまみ、目をつむった状態で口を開けるよう指示される。この状態で、介助する側の体験者がスプーンで口の中に食べ物を入れて“くれる”。
嗅覚と視覚を奪われた状態では、味覚も正しく働かない。つまり、食事とは五感で楽しむものであることを理解するのが目的なのだが、それ以前の問題として、見えない状態で口に食べ物を入れられること自体が、かなり怖い。
この感覚は、目をひらいていても同様だ。たとえばある程度自分の手が使えるという前提で、介助者の手を借りコップの飲み物を飲ませて“もらう”場合でも、口の中に飲み物が入る前から結構な恐怖をおぼえてしまうのである。
タネを明かせばこの恐怖、実は研修の一環として敢えて演出されたものだったりする。あらかじめ介助役は「声掛け」をせずに介助を行うよう指示されていたのである。
とはいえ講師の話によれば、食事に限らず介助する側がつい忘れがちなのが、この「声掛け」とのこと。実際、筆者も介助する側にまわってみたのだが、教わったとおりに介助をすることにばかり意識が向き、「声掛け」をする余裕を持てなかったのが正直なところだ。
介助の基本というだけでなく、人間同士のコミュニケーション全般でも、確かに「声掛け」って重要だってこと、頭では理解できるんですがねぇ。
では「声掛け」さえあえれば、楽しく食べさせてもらえるのかといえば、そんなこともない。研修は進み、用意されたお弁当を食べさせてもらう段に入ると、さらなる体験が待ち受けていた。
さて、このお弁当を見て最初に何を思うだろう。大抵の人が、最初に箸をつけたい食べ物の選定に入るはずだ。ちなみに筆者は、ちょっと刺激的にコロッケから始めてみたかったのだが……。
介助役のファーストチョイスは、あっさりとした菜っ葉のおひたし。しかも3連続でおひたしを口に運んで“くれた”のである。
いや、決して不味くはないんです。「最初の一口として食べやすそうなものをと思いまして……」という介助役の気持ちも有難いんです。でも、食べたいものを眼前にしながら、自分の意に沿わないものが口に入るのって、なんとも言えない違和感があるんですよね。
「一口の分量」に対する意識の違いも同様だ。介助役の視点から想定した一口と、介助される側が望む一口は、必ずしもイコールではない。
これ、どう思います? 写真では一口の分量として、まぁまぁ適切かのように見えるかもしれない。でも実際に口に運ばれてみると意外とボリューミーで、やっぱりこんな顔になっちゃう。
介助役を務めてくれた人も今回が初体験ということなので、上手な介助ができないのは当然と理解はしている。しかし、心の底から湧き上がる不快感を鎮めることが難しい。夫婦や親子など親しい間柄なら、遠慮なく怒りを見せてしまう場面もあるのだろう。
講師によれば、ここでもっとも大切なのがやはり「声掛け」、そして「観察」。介護のプロたちは、介助される側の視線、表情などから今食べたいものを探り、声掛けを含むコミュニケーションを通じて、口に運ぶタイミングや分量を調整していくのだという。介護はプロに任せるべし、といわれるのも、もっともなことである。
最後に行った体験「食事介助における究極のNG例」も、かなり衝撃的だった。
何が「究極のNG」なのか、経験がない人にはすぐわからないかもしれない。まず、介助役が立ったまま食事を与えていること、そして無言で、しかも矢継ぎ早に口に食べ物を運ぶことが問題なのだ。
このとき、食べさせて“もらう”側として得たのは、この上ない威圧感と畏怖の念。二人の関係が、あっという間に支配者と服従者のそれになってしまったのである。
実のところ、この「畏怖の念」は食事介助体験を始めた当初から徐々に芽生えていた。そもそも食べさせて“もらう”ことに対し「申し訳ない」という気持ちがあったほか、食事介助する側も決して楽しいはずがないだろう、という想像が働いてしまうのだ。
そうした気持ちを裏返すと、それはそのまま自分が介護をする側に立った際に抱く感情なのかもしれない。
研修で配られた資料の中に、「食事の目的」として以下の3要素が記載されていた。
※筆者による要約
つまり、この3要素がすべて揃うことで、はじめて食事が「楽しい」ものになるというわけだ。
自分の力で食事を楽しめる人なら、意識せずともこの3つを満たすことができる。しかし、何らかの理由で食事介助が必要になったとき、ここに挙げられた3要素の満足は、介助者の手にゆだねられてしまう。その意味について、介護する側だけでなく、される側もきちんと考えておくべきなんだろうなぁと、今回の体験取材を終え痛感する筆者なのであった。
しかし自分の手で、思いのままに食べるのって、本当に素晴らしいことなんですねぇ(涙)。
撮影/森カズシゲ
1970年生まれ。編集者・ライター・愛犬家。
石井敏郎さんの記事をもっとみるtayoriniをフォローして
最新情報を受け取る