近年、急速にデバイスが普及しているバーチャルリアリティ(VR)。当初の用途はゲームなどのエンターテインメントが中心でしたが、現在では建設業界における高所作業や航空機のメンテナンス研修ほか、医療現場では医者が手術前のシミュレーションをVRで行うなど、当初の予想を超えてさまざまな産業分野で実用されています。
そんななか、福祉という分野でVRの活用に取り組む企業が登場しました。首都圏を中心にサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)やグループホームを運営する株式会社シルバーウッドでは、VRを使うことで認知症のある方にとって世界がどのように見えているのか、また周囲からどのように扱われているのかを誰でも体験することができる「VR認知症プロジェクト」を2016年に開始しています。
VR認知症の考案者である下河原忠道さん(株式会社シルバーウッド代表取締役)にお話を伺いました。
VR認知症は、認知症の当事者や日頃から認知症のある方に接している専門家が脚本を作り、街中や電車内などで認知症の当事者に起きうる症状をVRの映像コンテンツとして制作したものです。
これをVRデバイスで視聴することによって、自分が認知症の当事者として、周囲や世界がどのように見え、どのように感じ、その結果どうした行動を取ってしまうのか、まさに自分のこととして実感できます。VRの特性である「疑似体験」を生かしたコンテンツと言えるでしょう。
シルバーウッドではVR認知症の体験会を有償で実施しており、自治体や企業などからの依頼で全国各地で開催しています。4人のスタッフが250台のVRヘッドセットを携えて全国を飛び回り、2017年2月の体験会開始からすでに約2万人もの人々が体験したといいます。
下河原さんは、VR認知症の目的を「認知症のある人たちが普段どんなことで生きづらさを感じているか、認知症側の視点に立って体験してみたら、ちょっと視点が変わる」ことだといいます。
認知症というと、コミュニケーションが取りづらくなる、人格が変わってしまう、徘徊することで事故につながってしまうなど、多くの人がネガティブなイメージを抱いているのではないでしょうか。また、認知症のある方の事件・事故などもしばしば報道され、多くの人々が認知症の症状への対処は困難なもので、自分も認知症にはなりたくないと感じているかもしれません。
しかし、下河原さんは、そうした思い込みは「認知症のある方に失礼」だと断言します。
「認知症に対する社会的心理環境って最悪じゃないですか。でも、認知症になっても楽しく暮らしている人たちはいっぱいいる。それに、ほとんどの認知症は軽度なんです。だから、自分が認知症という病識を持っている人だって多くいて、認知症とともに生きているわけですよね。そんな人の前で認知症予防とか、認知症になったらおしまいだって言う人たちがいるのが堪え難いんです」
認知症になると働くどころか人格さえも失われてしまうと思われがちですが、全ての人がそうなるわけではありません。また、認知症症状を持つの人の多くは軽度の認知障害(MCI)だったり、初期の段階だったりします。
したがって、社会における認知症への対応も、症状に応じて柔軟に対応していくべきですが、現実ではどうしても目を引く重度の場合を想定してしまいます。それが、認知症の方を取り巻く環境を悪化させる結果につながっていると、下河原さんは語ります。
「認知症をサポートするための講座などがあるじゃないですか。なんでサポートが前提なんだと思うんですよ。僕も行ったことがあるけど、つまらないし、心に響かない。でも、認知症をVRで体験しましょう、というと、ちょっとやってみたくなりませんか?」
確かに、VRという強力な技術と、そして認知症という知っているようで実はよく知らない症状の組み合わせからは、純粋に「やってみたい」という好奇心が湧いてきます。
下河原さんに勧められて、筆者も実際にVR認知症のコンテンツのひとつ「レビー小体病 幻視編」を体験させてもらいました。
レビー小体病(レビー小体型認知症)というのは、いくつかある認知症のひとつで、特徴的な症状として実際には存在しない物が見えてしまう幻視があります。「レビー小体病 幻視編」は、その幻視を体験できるというもので、日常の中で実際にはそこにいないはずの人やモノが見えるというものです。
映像が始まると、体験者は「知人の家に訪れる人」という目線でさまざまな幻視を体験します。見知らぬ人が部屋の中にいるように見えたり、ギターケースが座っている人のように見えたりします。また、話し掛けてくる知人の肩越しに見知らぬ人が見えたり、ふと横を向くと家具の前に不気味に立つ人がいたりと、人影の登場には脈絡もないためビクッとしてしまいます。
いないはずの人の姿が見えたかと思うと消え、しばらくするとまた現れる。それは、突然他人が自室に侵入してきたかのようでもあり、人によっては強い恐怖を感じたり、混乱したりするでしょう。そして、その感情は振る舞いにも影響を与え、周りには何か様子がおかしいという印象を与えかねません。
サービス付き高齢者向け住宅の入居者家族にも、VR認知症を体験してもらっており、合わせて取得するアンケートでは、体験前と体験後で回答が変わるといいます。
例を挙げると、「認知症のある人はひとりで買い物に行ってはいけない」という質問に「そう思う」から「そう思わない」までの5段階で回答してもらったところ、体験前は「どちらかというとそう思う」を選択する人が多かったけれど、体験後には「いいえ」に変わる人が多いのだそう。
「要するに、普段誰もが日常生活で体験することと変わらないんですよ。認知症だから特別な困りごとがあるんじゃないんです。認知症を特別視しないということを伝えるためにVRが活用できる」
認知症を特別視しないというのは、シルバーウッドが運営するサービス付き高齢者向け住宅「銀木犀」(ぎんもくせい)でも徹底されている方針です。
銀木犀には駄菓子屋が併設されており、その店番は入居者に任されています。駄菓子屋は誰でも買い物できるため、平日の夕方には近所の子どもたちが押しかけてくることも少なくないそうです。そうした駄菓子屋の店番は、認知症があったとしても分け隔てなくやってもらっているといいます。
もちろん、お金の計算や渡すお菓子を間違えるなど、小さな間違いをしてしまうこともあります。でも、言ってみれば、その程度の間違いでしかなく、それは誰もが許容できるはずのもの。周囲の人々が、地域の住民がそうやって受け入れていけば、認知症のある人でも当たり前に働くことができ、居場所を作ることができます。
「銀木犀は認知症のじいちゃんばあちゃんたちが、地域住民と交わる場だと考えている。高齢者をズラッと並べて、近所の園児を呼んでお遊戯を見せるみたいな一方通行じゃなくて、普段から交流している。こういう機会を作ると、認知症とか認知症じゃないとかあまり関係ないって分かるんだよね」
認知症の人に限らず、超高齢化社会を迎える私たちにとって、高齢者介護は他人事では済まされません。地域住民全員が関心を持つようにしていかないと、この時代は乗りきれません。「だからVR認知症プロジェクトを始めた」のだと下河原さんは力強く言います。
VR認知症は、VRデバイスを利用しているものの、コンテンツ自体はさほど技術的に特別なことはしていません。アイデアを元に台本を書き、360度カメラなどを使って撮影する。VR向けの映像撮影は、近年安価な機材が出てきており、撮影自体のハードルは低くなってきています。
ただし、VRコンテンツの制作自体がまだ新しい分野のため、「当初は試行錯誤の連続だった」と下河原さんは言います。
通常の映像作品とは、撮影技法や絵作りの考え方が大きく異なるため、撮影担当者とともに繰り返し研究を重ね、撮影後の編集にも多くの工夫が盛り込まれています。そのため、ひとつのコンテンツを制作するのに、撮影自体は数時間から数日程度しか要しませんが、その前段階の企画と脚本執筆、そして撮影後の編集に多くの時間を必要とし、全体では数カ月掛かることも珍しくないそうです。
このVRを使った体験コンテンツは、認知症以外のさまざまな分野に応用することができます。
「すでに、ワーキングマザーの体験やLGBTをテーマにしたものを制作している。レインボープライドというLGBTの祭典にレズビアンの一人称VR体験を出展したら2日間で600人が体験してくれて、評判もとても良かったよ」
人の体験を中心に据えたコンテンツだからこそ、さまざまな立場の人に寄り添ったものを作ることができます。ほかにも大阪大学・出版社と共同で看護士を目指す学生向けのVRコンテンツ作りに取り組んでいるとのこと。
こうしたVRによるさまざまな体験は、今後の産業の発展にとっても、企業の社会的責任の面からも、きちんと向き合わなければならないものでもあります。そのため、VRを活用したダイバーシティ&インクルージョン研修(多様性を受け入れ、組織に生かすための研修)として、いまさまざまな企業に採用されはじめているそうです。
小売業ならば認知症症状のある人への接客、製造業ならそうした人へ配慮した製品開発が求められ、さらには全ての企業が、従業員本人やその家族を含め多様な人たちと関わる状況にあり、「知らなかった」では済まされない社会になりつつあるのです。
そして、こうした状況にあるのは、日本だけではありません。海外からもVR認知症に対する引き合いは非常に多いそうです。
「中国の認知症ケアのシンポジウムの講演でミニ体験会をしたらすごく反応が良かった。中国も認知症のケアで困っていて、日本の特別養護老人ホームにあたる施設では入居者が1000を越えるような大規模なところもあり、対応に苦労している。だから、日本がどうやっているのか非常に関心を持っている」
いま、下河原さんは、自身にとって最大のミッションは「VR認知症の海外展開」だと認識しています。
「国を越えて、おそらく認知症への対応のニーズって、ほぼ同じなんだなって気がしたんですよね。日本で培った超高齢化社会における知恵をアジアの人たちにビジネスで伝えていくことができたら幸せだよね」
これまでVRという技術は、SFやファンタジーといった現実にはあり得ない世界を体験できるエンターテインメントとして広がってきました。しかし「あり得ない世界」を体験できるならば、「あり得る世界」はもっと簡単に体験できるはずです。そして、「あり得るけど知らなかった世界」を体験することで、従来は人ごとだと思っていたことも、自分ごととして考えやすくなります。
そうやって、人と人との相互理解が進めば、確実に私たちの社会は今よりも住みやすくなるはずです。VR認知症の体験は「全ての人が住みやすい社会は実現できる」と私たちに思わせてくれるだけの可能性に満ちたものでした。
(取材・文:青山祐輔、撮影:小野奈那子、編集:はてな編集部)
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