1980年代~1990年代に「十人十色」や「格好悪いふられ方」など数々のヒット曲を生み出し、シンガーソングライターとして一世を風靡した大江千里さん。
日本のポップス界での成功を捨て、ジャズピアニストになるべくニューヨークの音楽大学に単身留学をしたのは47歳の時でした。
卒業後はアメリカで自らのレーベルを立ち上げ、「Senri Oe」名義でジャズピアニストとして活躍。2020年9月には還暦を迎えました。
ジャズアルバムのリリースやツアーなど充実した「第二の音楽人生」を過ごしてきた50代を経て、ニューヨークで新型コロナウイルスのパンデミックに直面。60代になり、再び大きな価値観の変化の真っ最中にあると言います。
年を重ねても新しいことに挑戦し続ける原動力、パンデミックで一変したニューヨークで見たもの、そして2019年にがんで亡くなられたお父様への思いまで。オンラインでインタビューしました。
──大江さんは47歳で渡米され、ジャズピアニストとしてのキャリアを築いた50代も、還暦を迎えた今も新しい挑戦を続けてらっしゃいます。ニューヨークでの挑戦を振り返ってみて今どのように感じていらっしゃいますか?
大江千里さん(以下、大江)
もし、僕があのまま大きなレコード会社に所属して、活動を続けていたら、今のような軽やかな動きはなかなかできなかったと思います。
47歳の時にずっと好きだったジャズの大学に合格して、「この機会を逃したらもうジャズはできないだろう」と思って、思い切ってアメリカに来たんです。
実は僕がそう決めた時に、ずっとかわいがってもらっていた元ソニーの恩師から「もう一回考え直さないか」「今、持っているものを捨てることはないんじゃないか」と強く引き留められたんです。心から心配してくれていたんですね。
でも、「日本との行ったり来たりじゃダメだ。二度と日本に戻らない、アメリカに骨を埋めるんだ」という気持ちで取り組まないとジャズは身に付かないと直感で思った。退路を断つ必要があった。
持っているものをごっそり捨てないと、一つの新鮮なものは手に入らない。そういうことはいまだに思いますね。
──ニューヨークの音楽大学での日々はどうでしたか?
大江
同級生はみんな20代で、既に10代でジャズの教育を受けてきた人ばかりでした。最初は何にもできなかったです。
プロになるために学びにきているので、僕は全く相手にされず、最初の頃は透明人間のような存在でした。
学校が終わった後に、誰もいないハドソン川に向かって「馬鹿野郎ー!」と叫んで、赤ワインを一杯だけ飲んで、そこからまた「よし」と気分を入れ替えて、学校に戻って黙々と練習をしていました。
50歳近くになってそういう思いをするというのは貴重な経験だったと思いますね。
シダー・ウォルトンのラテンっぽい曲のソロを発表会で担当することになり、30秒ほどのソロを死ぬほど練習しました。とにかくよくシダーの奏法に耳を傾け何度も聞いて真似してを繰り返したら、本番で思ったより気持ちよく弾けて、そのまま自分の世界へ引っ張っていける瞬間があって、そうしたらソロ終わりで拍手が起こったんです。
優れたジャズの曲や素晴らしい演奏の中に自分が成長するヒントが隠されていることをその時学んだんです。それ以来、自分をいったん捨てて、他人の演奏に耳を傾けるようになりました。
すると不思議とどんどん音が入ってくるようになり、「ジャズに今入れているかな」と思う瞬間が増えていったのです。そうすると自ずとあちこちから誘われるようになり交友も広がりました。
今の活動も、元はと言えばこの頃に一緒にやったりして交友を深めた仲間が母体になっているんです。
──大江さんは、ニューヨークで新型コロナウイルスの感染拡大を目の当たりにしたわけですが、どう感じましたか?
大江
大感染が引き起こされた時にニューヨークで僕が体験したのは、不安と絶望でした。どうあがいても脱出できないトンネルの中にいて、たくさんの人が救急車で運ばれていくのをただただ祈るような気持ちで見送っていた「痛み」の連続の日々でした。
粛々と同じことを繰り返し、なんとか外へ気持ちを発信しようと思っていろんな方法をトライしました。
でもそれと同時に、この街にある、お互いがお互いをクールに思いやる気持ちや優しさも感じられるようになってきたんです。
淡々と過ごす日々が過ぎて、夕方になると外から音が聞こえてくるのでドアを開けてみると、「ステイホーム」と言われて家に24時間こもっていた人たちが、窓を開けて、みんなで歌を歌って拍手をして、医療従事者に感謝してそれを轟かせていたんです。
僕も一緒になって声をあげたり手を振ったりすると、向こうも僕がやめるまでずっと手を振り続けてくれる。だから20分くらいずっとどっちかが辞めない限りそれは続くわけです。お互いに「安全に」「気をつけて」「また明日」って交わし合いながら。
ニューヨークって、こんなにも温かい、人への思いやりや助け合いのある街だったんだということに、あらためて気付かされ街への愛が深まりました。
そして今、僕がいちばん感じるのは「シンプルに生きる」なんです。
──「シンプルに生きる」というと?
大江
とにかく生きるということは実はとてもシンプルなことで、誰かの役に立ったり、好きな人に好きだと伝えたり、人を思いやれたり思ってもらったり、そういうシンプルさだけで生きる喜びがあるというか、やはり生きているからこそ、命あってこそなので、それに素直に感謝するようになった。
と同時に、見えない敵と戦う毎日に疲れても、思いやりと愛をもって接する生活にみんなが自然と戻ってきたような気がします。
──コロナでこれまでとは全く違った形の活動をせざるを得なくなったと思うのですが、心境に変化はありましたか。
大江
パンデミックが始まる前に既にアメリカで決まっていたコンサートの予定は全部キャンセルされました。あっという間に何もかもがゼロになったんです。
喪失感よりも、もうこれは古い価値観が壊れるべくして壊れたんじゃないかと割り切って、ひたすら今をしっかり丁寧に生きようと思いました。長い間かたくなに信じてきた「こうあるべきだ」みたいなコンセプトはいったん壊れてもいいんじゃないかとも思ったんですね。
自分にとって何がいちばん大事なのかを考えるようになりました。チャレンジして人に評価されていくだけの人生が喜びじゃなく、少しでも心も体も充実して「ああ、今日は良かった」と、それこそシンプルに思えるような一日をどれだけ過ごせるか。リラックスして心に余裕がある暮らしをできるか。
僕は「旅」が大好きで、旅が人生の全てだと思っていたけれど、老犬といる限られた時間の中で、いつも一見同じ繰り返しに見える毎日のちょっとした違いや発見を味わったりすることこそが、今は僕たちにとっての大事な人生の「旅」なんじゃないかと思えるようになっていったんです。
少しずつ考え方が変わってきている感じがしますね。
──レコーディングや楽曲制作に関してはどうでしょうか?
大江
これまでの僕が作ってきたジャズは、スタジオで人と会って数回リハをして、そうするとそのあともう「せ〜の!」の一発録りで作ってきたんです。それがジャズだし、ずっと信じて今までやってきた。
でも僕が毎日パンデミックで向き合っているコンピュータの中に、デモテープを作る用の音楽ソフトが入っているんですよね。
ステイホームしている限られた環境を逆手にとって、何かパンデミックならではの面白いものを作れないだろうかと思い始めた。そうだ、PCの中のソフトの音で全部の楽器を自分の指で弾いて録音するのはどうだろうかって思いついたんです。
窓のそばでもソファの上でも、好きなコーナーでPCとカシオのミニキーボードをつないで、好きな姿勢で好きなフレーズをリラックスした気分で作る。この「宅録ジャズ」、「パンデミックジャズ」が思ったよりも楽しくて一気に曲ができ始めたんです。それが今年の2月。
最初の衝動で譜面も書かずコードも決めずにPCのリズムループをコピペして貼りつけて、そこにコードを作りメロディを載っけて生まれた曲が「Out of Chaos」なんです。
──これまでと全く違う作り方だったということですね。
大江
去年の暮れに、ジョン・レノンのビートルズ後のスタジオ・アルバムを僕なりに分析するという文章の仕事をいただいたんです(ジョン・レノン「ビートルズ後」の音色──解説:大江千里 )。
あらためてジョン・レノンの生き方や、彼の作ってきた音楽のコアな部分に触れた。人が口ずさむメロディが生まれる光と影を掘り下げる機会を頂けて、「ジャズビートルズ」じゃないけれど、なんかそういうのを発信できないかなって。
弱っていた自分の心に勇気をもらいました。迷いや弱さを表に出すことを恐れていると本当に面白いもの、人に伝わるものはできないなって思い始めたんです。
ジャズは人とのインタラクティブなキャッチボールから生まれてくる、間合いや即興が非常に大きい音楽です。なので、一人で全部やっちゃうのはどうなんだろうかとも思った。
でも「いやいや、ダメなら発表しなきゃいい。面白そうならまずやってみよう」と。全部の楽器を指で弾くジャズはスタジオ代がかからないし、疲れるまでとことん好きにやれる。
僕は、ベーシスト、ジャコ・パストリアスが好きだし、マイルス・デイヴィスの70年代のエレクトリック・マイルスの音像に向かって、時代をワープして彼らとセッションしてる気分になりきって、家の中の好きなコーナーに行って、心ゆくまでソロやそれぞれの楽器を弾く。
そんなふうに、自分のヒーローたちと肩を叩きあって交流している、やりたい放題、好きなことを好きなだけ詰め込んだジャズアルバムです。
──お話をお伺いして感じたんですが、大江さんは新しいことにも貪欲な姿勢をお持ちですし、パンデミックという大きな変化に直面しても新しいことを始めるために、今までの当たり前だったことを手放す勇気もお持ちだと思います。
大江
そういえば、最近はニューヨークでも街が開いてきたので「数年ぶりにあの店に顔を出してみよう」と思ったんです。随分長く行けてなかったのでネットで開いていることを調べて予約したんですね。
すると、そのイタリアから移住した親子三代家族経営でやっていたようなレストランがテイクアウト専門店に変わっていたんです。佇まいは同じでも全く違うコンセプトになって、レストランは二の次の収入源で継続しているけれどメインはテイクアウトなんですね。
アイデアだなあ、と感心したし、プライドや過去にこだわっているとどんどん生き残れなくなっちゃうなあって思った。早々に商売に見切りをつけて、次のビジネスに移っていった人もいるし、それはそれぞれの選択がある。
音楽家も同じことだと思うんですよね。10数曲の入ったCDを出して、その後にいろんな場所でツアーをしてというような、これまでの流れのコンセプトは僕の中にはもうないですね。
やっぱりライブが好きなんで、生で直接触れ合ってなんぼだろうというのもあるけれど、正直もっと違う何かへ自分が向かっている気がしている。
パンデミック中に世界中の人たちと一瞬にしてつながれるリモートの面白さをもっといろんなふうに追求したい気持ちもあるし、ライブはライブで慎重にいい形で復活できればいいなとは思っている。
ひょっとしたら、音楽だけではない何か別のものを作り出すことを始めてもいいかもしれない。
「こうじゃなきゃいけない」という縛りを取り除いて、自分なりの新しいやり方で作品を伝えたりエンタメのやり方を探っていく。それかなと日々繰り返しながら思うようになりました。
──著書の『マンハッタンに陽はまた昇る 60歳から始まる青春グラフィティ』には、2019年にがんで亡くなられたお父様との介護やお別れのエピソードについても書かれています。あらためて振り返ってみて、どのような思いがあるでしょうか?
大江
父は僕が「ジャズをやりにアメリカに行こうと思っている」って告白した時に、強く背中を押してくれた人で、大学の卒業式にも来てくれたんです。
父息子の間には反発の時期も長く、なかなか分かり合えない部分があったけれど、ゆっくり時間をかけてようやく男同士の絆みたいなものが見えてきていた。だから、最初は父があまりに早く死に近づいていくことを、僕自身がなかなか受け入れることができなくて苦しかったですね。
日本で行うトリオツアーの初日前、父と数日一緒に過ごすことができたんですね。ツアーが始まれば成功させなければいけないし、プロとしての日々が始まる。息子としての父に会う最後のチャンスになるだろうという覚悟の気持ちで、父のそばにいさせてもらいました。
僕の4つ離れている妹は実家の近所に住んでくれていて、毎日父の顔を見にきてくれているから、僕よりもずっとずっと深く接していて、ある種の俯瞰した目を持っているんですけど、僕はこうやっていい時だけ、息子の役を演じる俳優のように日本に戻ってくるわけで。
でも、つらいけれど人は皆最後がある。共に過ごせる時間と幸せが僕に与えられたわけだから、自分がどこまでその役になれるか、そういう思いで父のそばにいたと思います。
──お父様との最後の時間を過ごす中で、忘れられないエピソードはありますか?
大江
父は自身の手でトイレや風呂に行くのがだんだん難しくなってきてて、何度か倒れてそのたびに大騒ぎになっていたので、僕が帰郷した時には緩和ケア病棟にいたんです。
関空から直で会いに行くと、父が一生懸命に「ここは飯がまずい」と言う。一生懸命作ってくださるが全ての食事が砕いたものばかりで、戦時中の芋を食べた時を思い出すのだと。だから家に帰らせてくれって言うんです。それを受けてどうすべきか、妹と話をしました。
妹は「パパが家に帰りたいって言っているんだから戻してあげようよ」と言う。僕は「それは危険じゃないか」と反論する。結局家に帰ることになったんですけれど、車椅子を積める車を呼んで、縁側から雨戸を開けて車椅子の父をリビングのベッドまで運んで、痛くなく寝る体勢まで戻してあげるまでが、ものすごく大変でした。
周りにいらっしゃるプロの方のコツを逐一拝見して、ケアされる方にもケアする方にもなるだけ無理がかからないようにして、力を入れずに体勢を変えていくことを実際に見て教わりました。
ところがそのあと、妹と僕が外で食事をして、家に帰ったら父がトイレの前で倒れていた。
僕が気付いてベッドまで戻そうとさまざまなやり方を試みるんですけど、父は息子に世話をかけたくないっていう思いがあって自力でやろうとする。
「とにかく僕がやるから、動かないで僕に任せてほしい」と言ったんですけれど、僕は慣れていないので力量不足で、とても難しかった。父との共同作業のように、二人で壁づたいに歩いてベッドまで戻ったことを覚えています。
──その時がお父様と最後に過ごした時間だったのでしょうか?
大江
いえ、その後に日本でツアーを成功させてハワイでひと仕事を終えてから、ニューヨークに戻った時に、Face Timeで妹から電話がかかり、父の顔を見た時に「もう一回会いたい」って言っている気がして、もう一度帰ろうと思いました。
奇跡的にシアトル経由で関空に帰る便が取れたので、マンハッタンでのソロライブを終えてそのまま寝ずに朝5時に出発したんです。一泊二日のとんぼ返りでした。
父は弱ってはいたんですけど、冷静に話ができる時もあって。僕がたまたまコンビニでノンアルコールビールを買ってきていたんです。ホッとしたかったんですね。
その時なんです。しゃべれなくなっていた父は黒板に「ビール、のめる?」と震える手で文字を書いた。「飲めるよ、ノンアルコールだけど冷えたのを買ってきたばかりだ」と言って。「乾杯する?」と聞いたら「飲みたい」と言うので。
父が口にものを運ぶ急須にビールを入れて、二人で乾杯をしたんです。そうして1時間くらいかけて一緒にビールを飲みました。
翌日、僕が「帰る」って言うと、かたくなに「帰ってはいけない」と言われてなだめるのがつらかったです。結局、父に説明して父も納得して「レコーディングがあるので帰るね。また来るから」と関空から飛行機に乗ったんですけど、父は心では納得していなかったですね。
ニューヨークに戻ってホッとしたのもつかの間、妹からFace Timeが鳴って、それで父の死を知らされました。「まだ温かいんだ」と妹がしきりに言っていたのをかすかに覚えています。
──短くても濃密な最後の時間だったんですね……。
昨年9月に大江さん自身は60歳になられました。どんな実感がありましたか?
大江
還暦というと、赤いちゃんちゃんこを着て赤い帽子をかぶっているようなイメージがずっとあったので、とても自分には起こりえない遠い先の話のように勝手に思っていました。
でも、同い年の某アーティストの方がお洒落な赤いスーツを着てコンサートをやったりしているのを見て、「こういう還暦もあるんだな」と思うようになって。9月の誕生日の時には同年代のアメリカ人の友達が彼の家に招いてくれて、赤いダウンベストを着せられて、友達の息子の彼女がそんな僕と一緒にダンスを踊った。
なんだかとても自然で、逆に「60歳になったんだ」という実感と素直な喜びがありました。
いざ60歳になってみると、再び青春が始まっちゃったようなワクワクドキドキがあります。自分の中にそれまでかたくなにあった「こうじゃなきゃいけない」という固定観念の殻がパカっと割れて、もっと自分の心に忠実に日々の選択を行うようになった。
気持ち次第でこんなにシンプルに時間を思い通りに有意義に使えるものなんだと思いました。
──「十人十色」や「GLORY DAYS」「Rain」「格好悪いふられ方」といった大江さんのヒット曲を青春時代に聴いた人がたくさんいます。
当時から聴いておられるファンの中には、年齢を重ねる中での変化を怖いと感じている方もいると思います。そういった方々に対してメッセージをいただけますか?
大江
年齢を重ねる自分へのご褒美の一つは、物事にこだわらなくなれるセンスだと思います。こだわらなくなると新鮮なアイデアが飛び込んでくる。自分を許す勇気を持つことも大事だと思います。少しダメな自分を慈しむというか。
年を取ると、体のあちこちにガタがきてがっかりすることだらけです。例えば目が見えづらくなって、視界がぼやけたりするかもしれない。でもそうなった時、夜景のイルミネーションがにじんで見えたら、それはそれで前より綺麗に見える景色を神様がくれたんだと思う。
今まで戦ってきた10代、20代、30代、40代、50代に戻る必要は全くなくて、これから始まる新しい自分の感性にもっと期待をしていい。
そのためには、自分が今まで好んで着ていた服をいったん脱ぎ捨てて、心の風を入れ替える必要があるかもしれない。
未完成の変わり続ける自分を素直に素敵だと思える、そんな人生に近づいていく。もう時間は無制限にはありません。限られた時間だからこそあえて目指せる夢、望み、具体的な目標、ですね。
取材・構成:柴那典
編集:はてな編集部
<information>
最新著作「マンハッタンに陽はまた昇る」(KADOKAWA)
ニューアルバム「Letter to N.Y.」2021年7月21日発売 (Sony Music Direct/ALDELIGHT)
大江千里『Letter to N.Y.』スペシャルサイト
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