身体機能が弱っている人や寝たきりの人の介護には、介護をする側の負担も少なくありません。ましてや相手が自分より体格の大きい人だったり、毎日の介護だったりするとなおのこと。起き上がらせる動作ひとつとっても、やり方によっては腰や肩を痛める原因にもなります。
介護をする側と介護を受ける側、双方の負担を減らす目的で、理学療法士・介護福祉士の岡田慎一郎さんが取り組んでいるのが、古武術の身体運用を参考にした「古武術介護」。岡田さんは、古武術の身体動作の基盤となる「身体の使い方」を、介護の現場をはじめ育児やスポーツなど、身体に負担のかかるさまざまなシーンに生かしたいと考えています。
古武術を参考にした身体の使い方とはどのようなものなのか、介護に取り入れることでどんな変化があるのか、岡田さんにお話を伺いました。
古武術介護が生まれたきっかけは、岡田さん自身が介護の現場で感じた疑問でした。
「私はこれまで、重度身体障害者施設や特別養護老人ホームに勤務してきました。そんな中で、重度の要介護者の身体介助や移乗動作(ベッドや車椅子などを乗り移る動作)などには、学校や講習会で習う介護の基本技術がほとんど通用しないという厳しい現実に直面したんです。基本技術が通用しないために、介護する側の身体に大きな負担がかかり、腰痛などが引き起こされます」
岡田さんによると、介護の現場では「教科書で習うような基本技術が通用しない」というのが半ば常識になっているとのこと。通用しないのには、二つの理由があるそうです。
「一つ目は、基本技術は『介護を受ける側がある程度自分で動けること』が前提条件になっているからです。ある程度動ける人の介護ならば、相手の動きを最大限に引き出すことを基本理念としている、基本技術は有効に働きます。ところが現実は、自分自身で動くことが困難な人を介護する場面も非常に多いのです。二つ目は、基本技術は相手が動いてくれることを前提としているため、介護する側の身体の使い方についてはほとんど工夫されていないこと。重度の要介護者など、相手の動きを引き出すのが難しい場合は、介護する側がまず自分の動きを工夫する必要があります」
重度の要介護者をいかに負担なく介護するかというのは、病院、施設、在宅、いずれの介護現場でも共通した課題だと感じていた岡田さん。基本技術の大切さは理解しながらも、それが現場の応用にまで発展していかない現状に、テキストや講習会を頼るのではなく、自分自身で試行錯誤する道を選択しました。
初めはレスリング、空手など格闘技の動きを応用して介護技術に生かそうと考えましたが、いずれも最終的には「筋力を鍛える」必要があると感じたそう。そんなとき、まったく異なる発想を与えてくれたのが「古武術」でした。
「2000年のある日、武術研究者の甲野善紀師範がテレビに出演しているのを偶然見かけたのですが、師範が披露する滑らかで無駄の無い動きに、衝撃を受けたんです。番組を見ていくと、師範は古武術などを参考に、筋力に頼らない身体の動きを独自に追求しているとのこと。動きのコツについては『気の力』や『秘伝』といった説明でなく、『一箇所の固定的な支点をなくし、同時複数的に支点を使う』といった論理的な説明をしていたのも興味深く感じました」
番組で見た「筋力に頼らない動き」に興味を持った岡田さんは、早速甲野さんの講習会に参加。実際に、筋力に頼らずともスピード、パワー、持久力も発揮できる数々の技を受け、魅了されたのだそう。そして、技の本質を考える中で、技を使う際の身体の動きのメカニズムに大きな特徴があることに気付いたという岡田さん。ただ、あまりにもレベルの高い動きに途方に暮れる気持ちも同時にあったと言います。しかしある時、甲野さんが何気なく行った動きに、大きな手がかりを得るのでした。
「参加者から『寝ている人の上体を、楽に起こすのが難しい』という質問をされた時に、師範が見せてくれた動きです。寝ている人の上体を起こす時、通常は肩口に手の平から差し込みますが、師範はあえて手の甲から差し込み、手首を返して、手の平から抱えていました」
岡田さんはこの動きなら介護に使えそうだと、さまざまな状況で試しました。すると、腕の力だけでなく背中の力も同時に使うことになり、従来のやり方に比べ、自身の身体への負担が少なくなると感じたそうです。
「手の甲から差し込むことで、肩甲骨が左右に広がるようになり、背中の力を引き出しやすくなることに気づいたんです。肩甲骨が広がると、綱引きの綱がピンと張ったような適度な張りを背中に感じることができます。これが、背中の力が腕まで伝わりやすい状態になっているサイン。そのまま手の甲からでは抱えにくいので、手首だけを返して、手の平で抱えます」
この発見をきっかけに、古武術の身体運用や発想をヒントにしてさまざまな工夫をするようになったそう。岡田さんは古武術以外にも、スポーツや格闘技、ダンス、ロボット工学など多様な分野からヒントを得て、身体の使い方の改善に生かそうと考えているそうです。
岡田さんは、身体の使い方を工夫することは、あらゆる動作の基盤になると語ります。
「例えば野球の練習で、初心者が自分自身の身体作りをせず、いきなり相手チームの研究から始めるのは、無理があるでしょう。やはり、まずは身体作りから始めて野球の動作を習得し、練習試合を経た上で、相手チームの研究に、という流れだと思います。これはスポーツに限らず、身体を動かすこと全てに当てはまると考えています」
しかし介護の現場では、介護をする側が自身の身体の動きのトレーニングをしないまま、介護を受ける相手の動きの研究を先にしてしまうことが多いのだそう。
「介護する側の取り組みが不十分なまま実践に入ると、どうしても肩や腰、膝など一部の関節に負荷が集中しやすい部分的な動きになりがちです。しかし、身体の一部の力だけを使うのでなく、全身を連動させるように動くことができれば、負荷が全身に分散され、必要な力も自然と引き出されます。そうすることで、たとえ相手が自分で動けない重度の要介護者であっても、余裕を持って介護しやすくなるでしょう」
甲野さんの武術をヒントに、介護技術を現場で生かすためには、まず介護する側の身体の動きそのものを改善する必要があると感じた岡田さん。この考え方に基づいて生まれたのが古武術介護ですが、決して従来からの教科書的な基本技術を否定しているわけではないといいます。
「基本技術は、ある程度自分で動ける相手にしか通用しないケースが多いとはいえ、これまでの介護現場での実践や研究の集積です。私はこれを否定するのではなく、うまく生かす方法を考えたいと思っています。それに、基本技術にしても、重度の要介護者を介助するために現場で必要な技術にしても、全く別のものではなく、身体の使い方が基盤になるという点においてつながっています。筋力に頼らない身体の使い方という基盤があれば、状況に応じて身体の使い方を工夫でき、軽度から重度までさまざまな状態の相手に対して適切な介護ができるはずです」
岡田さんは古武術介護の考え方について、育児や家事といった日常動作、スポーツやダンスなど、介護に限らずあらゆる身体の動きに生かそうと取り組んでいます。
「例えば『相手を抱える』という身体の使い方は、育児でも介護でも必要です。状況や抱える相手は違いますが、動きの質的には一緒なんです。また布団の上げ下ろしや荷物の運搬といった身体に負担をかけやすい日常動作にも、筋力に頼らない動きは活用できます。コンピュータに例えるなら、身体運用はOSで、介護、育児、日常生活、スポーツなどのあらゆる動作はアプリケーションソフト。OSをバージョンアップすることで、それぞれのソフトがうまく機能するようになります」
介護に限った考え方ではないため、実は「古武術介護」というネーミングはニックネームにすぎないのだそう。
「古武術介護という名前は、もともと初めての本を出すときに、編集者の方がつけてくれたタイトルに使われていた言葉です。かなりインパクトのある名前なので、現在はそれが一人歩きしてしまっている状況がありますが、私としては、普遍的な身体運動理論と介護技術を個人的に追求しているにすぎません。そして古武術介護というニックネームの本質は、ジャンルにとらわれずさまざまな分野と交流しヒントを得て、身体の使い方を工夫していく姿勢そのものだと考えています」
しかしこのユニークなネーミングのおかげで、自身の取り組みに関心を持たれる機会が増え、活動の幅が広がったという岡田さん。今後もさまざまな分野との交流を通じて、古武術介護の取り組みを発展させていきたいと考えています。
「実は私自身も職業とは別に、祖母と祖母の妹、二人の介護に家族として関わっています。二人とも言葉でのコミュニケーションは困難ですが、ベッドから起こしたり車椅子に乗せたり、リハビリを行ったりして『直接触れ合う』ことを意識しています。そんな中で、昔二人に世話してもらったこと、迷惑をかけたことなどを思い出し、自分自身を振り返る時間を共有させてもらっています。介護は多くの人にとって、いずれ直面する問題です。自分が介護する立場になったときに具体的に何ができるのか、早いうちから考えておくことも大切ではないでしょうか。そして私の個人的な取り組みが、皆さんにとって介護をはじめ、さまざまな場面でヒントになればうれしく思います」
取材/大野陽子
構成・編集/はてな編集部
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