死ぬまで“ゲッツの人”を全うする。ダンディ坂野のダンディな半生とこれから

黄色いスーツに身を包み、「ゲッツ!」のフレーズで知られるお笑い芸人のダンディ坂野さんは、現在54歳。36歳でブレークして以降、約20年にわたり芸能界を生き抜いてきました。

一時は「一発屋」として扱われることに疑問を抱いたこともあったといいます。しかしその後、テレビバラエティ以外にも、CMやドラマ出演など、さまざまなフィールドを渡り歩いたダンディさんの出した答えは、「生涯、“ゲッツの人”を全うする」ということ。

年齢とともに衰えを感じつつも、周囲が求めるイメージを保つため、影の努力を怠らない。そんなダンディな生き様に迫りつつ、老後に向けた展望を聞きました。

今回のtayoriniなる人
ダンディ坂野さん
ダンディ坂野さん 1967年生まれ。石川県出身。1993年に上京し、お笑い芸人としての活動を開始。2003年、「ゲッツ!」のフレーズで大ブレーク。テレビ出演以外にも、営業やCM出演、ドラマ出演など、多岐にわたり活躍している。

「オンバト」で火がつき「ゲッツ!」のCMで全国区の人気者に

――ダンディ坂野さんが世に広く知られるようになったのは、2002年〜2003年ごろでした。芸歴10年目、36歳でのブレークのきっかけを教えてください。

ダンディ坂野さん(以下、ダンディ)
きっかけは、1999年に始まったNHKの深夜番組『爆笑オンエアバトル(以下、オンバト)』だったと思います。若手芸人のネタを見せる登竜門のような番組で、中高生や一部のお笑いファンに熱狂的に支持されていたんです。NHKの深夜では異例の高視聴率でした。僕が言うのもなんですが。

あの番組に第1回の放送から参加できたことが大きかったですね。当時はネプチューンさんや爆笑問題さんがブレークした「ボキャブラ天国」のブームが落ち着いた頃で、オンバトはそれに代わる若手芸人発掘番組として注目されていましたから。

――オンバトには、どんな経緯でキャスティングされたんですか?

ダンディ
自分で言うとアレですけど、当時の東京のライブシーンでは、けっこう目立ってたんじゃないかと思うんです、僕。

当時、東京だけでも相当な数のお笑いライブが開催されていて、そこで目立てば番組のプロデューサーの目に止めるようなところがありました。もちろん、僕よりウケている人はたくさんいましたけど、僕はこの通り特殊な芸人なので、「ちょっと変わっているやつ」としてコアなお笑いファンのなかでは認知があったほうだと思います。

――今でこそ、いわゆる「キャラ芸人」と呼ばれる芸人さんはたくさんいますが、当時は珍しかったのでしょうか?

ダンディ
漫才かコントをやる若手がほとんどでしたね。漫才も、いまはスーツを着て舞台に立つ芸人が多いですけど、当時はTシャツとジーパンにチェーンをつけたラフな格好が主流でした。そのなかで、スーツに蝶ネクタイで「どうだい、みんな」って言う僕のアメリカンなスタイルの漫談が注目されまして。まあ、そんなに面白くないんだけど(笑)。

でも、変わってるからテレビウケがいいだろうと、オンバトのスタッフさんも思ってくれたんでしょうね。僕の記憶では、オンエアにならなかった時でもすごく親身にしていただきました。ネタはあまりオンエアされなかったけど、なぜか何度も番組に呼んでいただいて。

――あの番組は、観覧のお客さんの投票が多い上位数組のネタがオンエアされるシステムでした。失礼ながらダンディさんはオンエア率が低かったですが、繰り返し番組に呼ばれていましたよね。

ダンディ
5連敗して1回オンエアされて、また5連敗して……という感じでした。そんな状況でも、他の芸人さんがダンディ坂野のネタを考えるという救済企画をやってくれたりして。オンエア率が低い僕をいじるコーナーを、わざわざ作ってくれたんです。あらためて振り返ると、すごく愛情を持って接してくれてたんだなあと思いますね。

――当時のオンバトにはテツandトモさん、はなわさんなども出演されていましたが、その後、全員がブレークしていきます。

ダンディ
先に跳ねたのはテツandトモ(以下、テツトモ)さんです。2002年の半ばくらいから「なんでだろう」のネタがブームになって、オンバトだけじゃなく民放の番組にも広がっていきました。

僕はその少し後にマツモトキヨシさんのCMに出たり、『内村プロデュース』(テレビ朝日系)という人気番組に準レギュラー扱いで出演させてもらったりして、全国的に知っていただくようになった。

ちなみに、黄色いスーツを着るようになったのはCMがきっかけです。テツトモさんが赤と青のジャージ姿なので、そこへ黄色が一緒についていった形ですね。

当時、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)の番組の合間に僕の出ているマツモトキヨシさんのCMが流れていたんですよ。もちろん、いまもガキ使は人気ですけど、その頃は特に高視聴率で、お笑い好きがこぞって見ていたから影響は大きかったと思います。

――そのあたりの時期から一気に忙しくなっていったわけですね。

ダンディ
一番すごかったのは2003年ですね。同時期に「佐賀県」の歌がヒットしたはなわくん、テツトモさん、そして僕の3組で、ドドーっと出尽くした感がありました。

当時の状況には、自分でもびっくりしましたけどね。もちろん、ずっと売れたい、売れようと思いながらやってはいましたよ。ただ、僕のネタがお笑いとしてすごく面白いかというと……。

――そうではない自覚があった、と。

ダンディ
はい。それでも、この世界は漫才やコント、トークが圧倒的に面白い以外にも、何かのきっかけで注目を浴びることで売れるという道もある。僕はそう信じてやってきたようなところもありました。だから2003年に世の中に出られた時も、やっぱりそうだったんだな、やっと自分が売れる順番が来たんだなと、どこか冷静に考えていましたね。

流れに逆らわず求められた場所へ

――2004年以降、少しずつテレビでの露出が減っていきました。

ダンディ
2003年に僕とテツトモさん、はなわくんが世に出ましたが、年が明けるとテレビは「次」を探し始めるんですよね。1年を区切りに、必ず新しい人が選ばれる。すると、前の人は「一発屋」になる。その流れができた「走り」が僕らだったと思います。

たまにテレビに呼ばれるのも、一発屋としていじられる役割なんです。その時に旬の芸人さんと比較するために落ち目の人間が必要だったんでしょうけど、「きつい演出するなあ……」とは思いましたね。はなわくんやテツトモさんはそういう番組にはあまり出なかったから、僕に全部来るんです。正直、僕もこの役やりたくないなと思っていました。

――辛い状況ですね……。またテレビへの出演を増やすために何かされたことはありましたか。

ダンディ
いや、それが特に何かをするということはありませんでしたね。いいのか分からないんですけど、基本的に僕の芸人人生は他力本願というか、流れに逆らわないでいたらうまくいったことの方が多いんですよね。

それに、言い方は悪いですけど、いま勢いがある人たちもおそらく同じ道をたどると思っている部分があった(笑)。だから「いまキテる芸人」のブームが終わるのを、ただ待っていました。今年の嵐が過ぎ去れば、また新しい嵐が来る。我慢してやり過ごしていれば、いまは誰もいない僕の隣に人が増えていくじゃないですか。それも面白いかなと。

実際、5〜6年たったら仲間が増えて、いつの間にか一発屋芸人たちのリーダーになっちゃった。辛かったのも最初だけで、だんだん慣れましたよ。慣れちゃいけないんでしょうけど。

――そのように冷静でいられたのは、テレビ以外の仕事があったことも大きいのでしょうか。

ダンディ
そうですね、営業の仕事は逆に増えました。休日だけじゃなく、平日にも企業のパーティーに呼ばれたりして。「1年前にオファーした時はダンディさんのスケジュールがとれなかったから、今年は会えてうれしいですよ」と言ってくれる人が多かったんです。実は収入も、むしろ増えていました。

それなのに、たまに呼ばれるテレビでは「仕事が減ってお金がない、かわいそうな人」みたいな扱いで、悲惨なエピソードを求められてしまう。こんなに営業に呼んでもらえて、先方も喜んでくれているのに、なんでそんなに寂しいこと言わなきゃいけないんだろうとは思っていましたね。

だから、昔の最高月収を言わなきゃいけないようなコーナーでも、実際の数字は言いませんでした。一発屋芸人は真面目な人が多いから、みんな本当の金額を言っちゃうんですよ。僕も真面目なんですけど、そこは適当にごまかしてもいいんじゃないかなと考えていました(笑)。

「黄色を着てゲッツをやる人」を全力でやる

――それからは、ずっと営業主体ですか?

ダンディ
いや、一時期は営業も減りました。2005年〜2006年くらいからテレビの露出が減った芸人たちが、今度は営業に流れてくるようになったんです。波田陽区さんやレイザーラモンHGさんが来て、また少したつとヒロシくんや髭男爵に変わっていって。入れ替わるように僕が呼ばれなくなっていきましたね。

でも、今度はドラマや映画にワンポイントで起用されるようになりました。「ダンディさんのこと、オンバトの時から見てましたよ」と言ってくれるお笑い好きの監督さんがいて、そっちに引っ張ってくれたんです。他にも、ナレーションのオファーが来たりもして。べつに、演技や声の仕事に活路を見出したとかではないんですけど、こんなところにも呼んでもらえるんだなって思って、流れに乗って自分なりに一生懸命やりましたね。

そしたら、そのうち営業の方も「もう一回ダンディ呼ぼうか」という感じで声がかかるようになったり、「ゲッツの人、久しぶりにCMで使ってみようか」ということでコマーシャルが増えたり。なんだかんだと、仕事はいただけてました。

――バラエティ番組から姿を消していた時期も、じつは順調に仕事は回っていたんですね。

ダンディ
そうですね、ありがたいことに。

この頃、ドラマやCMに呼ばれるようになって感じたのは、昔のゲッツを好きでいてくれる人って、たくさんいらっしゃるんだなということ。だからもう、僕は死ぬまでそれを全うしようと思いました。永遠に「黄色を着てゲッツをやる人」を全力でやっていけば、みなさんのニーズに応えていけるんじゃないか、と。ある程度の結論に達したというか、そこだけはブラしてはいけないという今後の人生における軸が定まった感じがしました。

もちろん、たまに芝居の仕事をしたり、コロナ禍の外出自粛期間中にYouTubeチャンネルを始めたりと、新しいチャレンジもしているんですけど、「ゲッツのダンディ坂野」だけはずっと大事にしていきたいです。

――余談ですがダンディさんのYouTube「だんさかch」を拝見して、歌のうまさに驚きました。ネタではなく歌がメインというのも意外性があっていいですね。

ダンディ
あれは仕事ではなく、完全に趣味ですからね。ダンディ坂野ではなく、だんさかというペンネームを一応つくって、毎週ゲッツ曜日(月曜日)に頑張って更新しています。好きな昭和歌謡の音源をパソコンで作って、自分でキーを下げて歌うっていう。頑張ってビブラートをきかせているので、ぜひ見てもらいたいです。

老いのなかでの現状維持は毎年少しずつ上を目指すこと

――「ダンディ坂野」を生涯にわたり全うするということですが、ずっと変わらずにいるというのも、それはそれで大変なのではないかと思います。

ダンディ
そうですね。現状維持というと簡単に聞こえるかもしれないけど、老いていくなかで現状を維持するためには、毎年少しずつ上を目指さないといけないと思うんです。それは、見た目も含めて。

どうしても歳は取るけど、なるべく昔テレビで見ていたダンディの顔、あの日のままの体型、あの日のままのスーツを着ていないといけない。古いアニメを見る感覚に近いと思うんですよ。懐かしいけど、いま見ても相変わらずいいよなーって。だから、なるべく劣化しないようにするというのが、キャラ芸人としての僕の心構えですね。

――スーツのサイズもずっと変わっていないそうですね。お肌のケアも、かなり入念にされているとか。

ダンディ
そうはいっても、お腹は出やすくなったので意識的に絞るようにしています。お肌のケアは、寝る前にオールインワンの化粧水を顔に塗りたくっていますね。あとは、風呂上がりには首に乳液を塗ります。首って年齢が出やすいと聞いたので。

FUJIWARAの藤本敏史さんには「女優か、お前は」って言われたことがあります。「女優です!」って答えましたけどね(笑)。お肌のケアをして体型に気をつけて、ドラマや広告の案件をやって。確かにお笑い芸人っぽくはないですけど、これが僕の仕事ですから。

せっかく広告やイメージキャラクターに使ってくれているのに、「思ったより歳とってるし、スーツも汚いし、ゲッツのキレも悪いし……」ってなったら申し訳ないじゃないですか。

――常にバットを振れる状態にしておく、ということですかね。ダンディさんのそうした姿勢や考え方は、他の芸人さんにとっても参考になりそうです。後輩のギャラ芸人さんにアドバイスをすることはありますか?

ダンディ
いや、アドバイスはほとんど求められません(笑)。でも、某スーツを着ている芸人さんには言ったことがありますね。「スーツや靴は、常にきれいにしておいた方がいいですよ」って。営業とか行った時にスーツが汚れていたら、お客さんは「ああ、やっぱり仕事が減ってお金ないのかな……」って思うし、テレビでキラキラしていた頃の姿を期待していた子供たちはガッカリしますよね。

そこできれいなスーツを着て、ピカピカの靴を履いて、背筋をピンと伸ばしていれば、かっこいいなって感じてくれる子もいると思うんです。だから、せめて身なりくらいは、あの日の輝きを保っていた方がいいんじゃないかな。

――ただ、ダンディさんのようにキャラを全うしようとする人がいる一方、キャラを捨てて方向転換する人もいると思います。

ダンディ
キャラを脱ぐことを、一概にダメとは思いません。奇抜なことをして売れたとしても、ずっとそれをやり続けるのはしんどいですから。芸人としてタレントとして、次の展開に進みたいと考えるのは当然ですしね。ただ、それでも自分が世に出たきっかけを完全に捨ててしまうのではなく、年に何回かでいいからやってほしいなとは思います。

……でも、気持ちはすごく分かりますよ。特に、奇抜なキャラであればあるほど、街ぶらロケや食レポみたいな仕事がしづらくなりますからね。やっぱり奇抜な衣装を着ていたり、化粧をしている芸人さんがそのまま商店街の人と触れ合っていたら、違和感あるじゃないですか。売れるための奇抜さは必要だと思うんですけど、長い目で見るとそれが足かせになってくる部分もあると思いますから。

僕の場合は黄色で派手ではあるけど、スーツに蝶ネクタイという普通に近い格好ですからね。当時は特にそれを意識していたわけじゃないけど、初期設定って大事だなと今になって思ったりします。

悠々自適な老後を過ごすためにも「今」期待に応える

――ダンディさんは現在54歳。「老後」については、どんなイメージを持っていますか? こんなふうに過ごしたいとか、そのために準備していることなどはありますか?

ダンディ
老後っていつからなのか定かじゃないですよね。会社員の方なら定年退職後ということかもしれないですけど、その後も別の場所で働くなら老後じゃない気もしますし。

僕の場合はそれがいつになるか分からないけど……どう過ごしたいか? そうですね……、こういう媒体なので正直に言うと、老後はのんびり過ごしたいですね。のんびりしたいから、今はできる範囲のことを一生懸命やっていこうと思います。繰り返しになりますけど、「あのゲッツの人」を期待してオファーしてくれるみなさんに、100%喜んでくれるものを返していきたい。

――それでも、いつか「ダンディ坂野」でいられなくなる日はやってきます。

ダンディ
そうですね。やっぱり年齢には抗えないので、いつかダンディ坂野を保てなくなって、仕事がなくなる日が来るでしょう。でも、だんだん下火になっていった時に、あまり悪あがきせずにいられるよう、今なるべく頑張っておきたい。10年後、20年後に「ゲッツの人って、いま何してんの?」「ああ、もう引退して悠々自適に暮らしてるらしいよ」って言ってもらえるのが理想かなと思いますね。

取材・構成:榎並紀行(やじろべえ)
撮影:加藤岳
編集:はてな編集部
 

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