誰だって歳をとる。もちろんハリウッドスターだって。
エンタメの最前線で、人はどう“老い”と向き合うのか?
スターの生き様を追って、そのヒントを見つけ出す。
「アート・フィルムにも出る機会があればもちろん挑戦してみたい。でも私はアクションが得意だし、観客だって殴られて怯えるだけの私なら見たくないんじゃないかしら(笑)。やっぱりアクションは今日ある私の原点だから、アクションスターとしてやっていくつもりよ」
――ミシェル・ヨー 『ポリス・ストーリー3』公開時のインタビューより
(1993年「臨時増刊 キネマ旬報 亜細亜的電影世界」より引用
祝! アカデミー主演女優賞受賞!
アジアを代表する女優となったミシェル・ヨー!
しかし、その影には挫折と苦闘に満ちた日々があった!
2023年の第95回アカデミー賞で、歴史的な事件が起こった。史上初めて主演女優賞をアジア系俳優が受賞したのだ。その人物こそ『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022年)に主演したミシェル・ヨーである。しかも同作は、ミシェル・ヨーが功夫で異次元の敵と戦うアクション・コメディだったのである。アジア人初の主演女優賞受賞、さらに功夫映画でアカデミー賞を制した。彼女がハリウッド映画の歴史に名を残すのは確実だろう。
思えばミシェルは……否、ミシェルの姐さんは、これまでのキャリアで幾多の伝説を残し、歴史を作ってきた。姐さんほど桜木花道ばりの「栄光時代は今なんだよ」な女優はいないかもしれない。旧芸名のミシェル・キング時代には、あのジャッキー・チェン主演の『ポリス・ストーリー3』(1992年)で、自ら運転するバイクで、疾走する電車のうえにジャンプして飛び乗った。そして『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997年)では主役のジェームズ・ボンド以上に暴れ回り、ボンドガールの立ち位置をセクシーヒロイン要員から、ボンドの相棒へと押し上げた。
ピアース・ブロスナン-老後に効くハリウッドスターの名言(14)
香港映画の実力者たちと共演し、ボンドガールの定義を変え、アカデミー賞まで獲った。姐さんは間違いなく現在進行形の伝説だが、その一方でキャリアは苦労の連続だった。その俳優人生には何度も画面にデカデカと「劇終」の文字が映し出されるタイミングがあったのだ。しかし、その全てを乗りこえ、今まさに最盛期を迎えている。今回はそのド根性一代記を辿りながら、姐さんの魅力について考えていきたい。
ミシェル・ヨーは1962年8月6日にマレーシアの名門華僑の一家に生まれた。父親は弁護士で、幼少期からミシェルに英語教育を施したという。幼いミシェルはが夢見たのはバレリーナだ。バレエを特訓しで、15歳の頃にはイギリスにバレエ留学するまでに腕を磨く。しかし不運にもケガで背骨を傷めてしまい、バレリーナへの道を断念。イギリスに残って振付師を目指して勉強したそうだが、結局は幼少期からの夢を諦めて帰国した。
痛烈な挫折を味わった姐さんだが、ここで母親が動いた。姐さんをミス・マレーシアの大会に応募したのだ。結果は見事に優勝。この結果が姐さんの人生を決定的に変えてしまう。
姐さんがミス・マレーシアになった頃、1人の人物が条件に合う新人女優を探していた。香港で新しく映画会社を作った実業家のディクソン・ブーンである。彼はジャッキー・チェンとCMで共演する若手女優を探していたのだ。そして姐さんを知ると、すぐさまCMにブッキング。さらに自身の映画会社の専属女優としてスカウトする。
ところが姐さんは苦悩した。厳格な家庭に生まれた姐さんは、父親の猛反対を恐れていたのだ。意を決して父に芸能界に入ると告白し、契約書を見せた。すると父は……。
「(中略)父は、契約書に目を通してこう言ったんです。『これじゃ奴隷になるも同然だ。お前は相手の言いなりで、報酬もはっきりしない。正当な理由なく、金を一切払わないまま契約を切られる可能性だってある。私が修正してやる』」
家族の頼もしすぎるサポートを得て、21歳にして映画俳優としての道を歩み始める。しかし姐さんが足を踏み入れたのは香港映画、つまりアクションができてナンボの世界だった。
当時の香港映画界はアクションの凄まじさと危険度は世界トップレベルであり、ケガはもちろん、命の危機すら日常茶飯事の異常な世界だった。とは言え、女性である姐さんに周囲も過酷な要求はしなかった。それを証拠に、姐さんの映画デビュー作『デブゴンの快盗紳士録』(1984年)では、あのサモ・ハン・キンポー監督/主演作でありながら、特にアクションをしていない。思えば姐さんは体の故障で夢を諦めた過去もある。ところが、ここで姐さんは天性のガッツを発揮する。
俳優としての成り上がりを志していた姐さんは、現場でアクションを見るうちに、これも一種のダンス(振付)だと気が付いた。そして自らアクションの修行をしたいと、先輩俳優らに教えを乞い、名だたるアクションスターやスタントマン、時には本物の格闘家から特訓を受けたのだ。青あざの絶えない日々を送ったが、バレエ仕込みの身体能力は急成長。そして20代の半ばにして映画『レディ・ハード 香港大捜査線』(1987年)で主演に抜擢されると、ド根性でアクションに果敢に挑戦していった。現場では「スタントを使うからイイよ」と言われることも多々あったそうだが、姐さんは自分でやると前のめりな姿勢で向かっていった。当時を振り返って姐さんは語る。
「失敗して無様に顔面から着地するかもしれないけれど、私が本気だということを伝えたかったんです」
当初こそ冷ややかな視線を向けていた周囲も、そんな姐さんの姿勢と技術とド根性に圧倒されていく。姐さんの奮闘は実を結び、同作は大ヒット、新鋭アクションスターとして一躍ブレイクを果たした。続く主演作『皇家戦士』(1988年)では若き日の真田広之と共演。さらに一連の映画の成功で、香港映画には女優たちが無茶苦茶なアクションに挑戦する、レディースアクションの時代が到来した。
こうして姐さんは間違いなく、香港映画の歴史に名を刻んだ。ひとつのトレンドを作り、このままスターの階段を駆け上がるかと思いきや……姐さんは私生活で大きな決断を下す。自身を見出した実業家ディクソン・ブーンと結婚したのだ。数々の映画をヒットさせ、恩人と結婚し、寿引退……まさにハッピーエンド、幸せな「劇終」の形である。ところがどっこい、その4年後にディクソンと離婚、30歳にして再び過酷なアクション映画の世界にカムバックした。その復帰の場こそが『ポリス・ストーリー3』だった。
麻薬組織を倒すために、ジャッキー演じる刑事が奮闘する……『ポリス・ストーリー3』はシンプルな物語だが、これはジャッキー映画である。当然のように一歩間違えば死ぬスタントがふんだんに盛り込まれた。歴戦のスタントマンですら尻込みする過酷な現場だったが、ミシェルの姐さんのガッツは想定を超えていた。その結果が最初に書いた超絶スタントだ。疾走するバイクを駆り、走行中の列車のうえに飛び乗る……例によって一歩間違えば死ぬスタントで、おまけに姐さんはそれまでバイクに乗ったこともなかった。当初はスタントマンを想定していたが、姐さんはまたしても自分でやると言い放ち、結果、カメラにはバッチリ彼女の顔が収まる名シーンをものにした。この一連の復活劇で、こんなド根性発言を残している。
「ブランクのあとのカムバックだもの。以前より良くなってなきゃ誰にも見向きもされないわ。みんなの期待を裏切るくらいならやらない方がマシ」
ジャッキーもジャッキーで飛んでいるヘリコプターからブラ下がったまま町中を飛び回る決死のアクションを敢行したが、それでも「ジャッキーよりミシェルの方が目立っていた」と大絶賛の復帰作となる。
かくして休眠期間の鬱憤を晴らすかのように、姐さんはアクション映画に出まくった。『プロジェクトS』(1993年)、『ワンダー・ガールズ 東方三侠』(1993年)、『マスター・オブ・リアル・カンフー 大地無限』(1993年)などなど、いずれも姐さんは活き活きと暴れ回っている。
しかし、その一方で時代の荒波が迫っていた。1997年、香港返還である。この歴史的な転機を意識してか、姐さんもまた新境地へ挑む。アクション要素皆無の文芸映画『宋家の三姉妹』(1997年)への出演、そして『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』でのハリウッド進出だ。一方は中国史に大きな影響を与えた実在の人物・宗氏三姉妹を描いた大河ドラマ、もう一方はデコトラのようなアクション超大作だ。振り幅が広いにも程がある仕事だが、『宋家~』では「私が出演すると知れると『宋三姉妹が戦うのか!?』と香港中で騒がれました」苦笑しつつ、それまでのイメージを払拭する演技派の一面を見せ、『007』ではボンドより動いて世間の度肝を抜いた。
演技もアクションもイケる女優として国際的な注目も集まり、本格的な世界進出が見えてきたが、実はこの頃、姐さんを悲劇が襲っていた。主演作『スタントウーマン/夢の欠片』(1996年)の撮影中に「18フィートの高さから落ちるアクションの撮影で頭から着地し、背骨がボキッと音を立てて」入院してしまったのである。重傷を負った姐さんは、自力でトイレに行くこともできず、引退を考えるまでに精神的に追い込まれた。キャリアが悲劇の「劇終」を迎えかねない状況だったが、ここで一つの奇跡が起きる。負傷する直前にミシェルはクエンティン・タランティーノと会う約束をしていたのだ。熱烈な功夫映画マニアでもあるタランティーノは、静養中の姐さんの家に半ば強引にやってきた。そして……。
「彼はまず周りの人に挨拶をしたあと(中略)私が出た全部の映画の細かいレパートリーをいとも嬉しそうに話し出したの。そして、フレームからフレーム、台詞も自分で言い、いかに私がすごかったかを熱に浮かされた様に語ってくれた。(中略)彼が話を終えたとき、私はもうアクション場面に臨む用意が出来た状態になっていたのです」
一歩間違うと危ないファンの奇行だが、この激励が姐さんを救った。負傷と失意の日々を克服した姐さんは、次なる挑戦へ向かった。アン・リー監督の『グリーン・デスティニー』(2000年)である。中国を舞台にした時代劇アクションで、全編が北京語で撮影されたのだが、姐さんは北京語が話せなかった。なので台詞を発音ごと丸暗記する中学校の定期テストスタイルで撮影に臨んだが、現場で唐突に台詞が変わることも多く、大変な苦労をしたという。
さらにアクション面でも予期せぬトラブルが姐さんを襲った。監督のアン・リーはアクション映画初挑戦で、一方のアクション監督を務めたユエン・ウーピンは、アクション一筋30年の超ベテラン。当然のように2人は現場で「あーでもない、こーでもないと」状態になり、「とりあえず、やってみよう」の見切り発車が頻発した。姐さん曰く「早い話、役者はモルモットだったわけ。で、結局、経験の長い私が全てを引き受けることになってしまいました」。大変な苦労が見て取れる発言である。さらに撮影中に左足の靭帯を切って全治1か月の負傷を負うが、同作は公開されるや世界中で大ヒット、その年のアカデミー賞で4部門を獲得する。ミシェルは演技もアクションも高く評価され、本格的に国際的スター俳優の仲間入りを果たし、40代を迎えた。
40~50代のミシェルのキャリアは、若い頃に比べると比較的安定している。アジアとハリウッドを行ったり来たりで、作品への評価はともかく、絶え間なく映画に出続けた。『カンフー・パンダ2』(2011年)では声優に挑戦し、『The Lady アウンサン・スーチー 引き裂かれた愛』(2011年)では「アジアの女優にとって、この役は一生に一度あるかないかの役!」と断言するアウンサン・スーチーを演じ、ロマンティックコメディ映画『クレイジー・リッチ!』(2018年)では、主人公カップルの前に立ち塞がる姑を圧倒的な存在感で演じ、アクションなしでも全然イケるところを見せた。
一方で『マスターZ イップ・マン外伝』(2018年)では、新進気鋭のアクションスター、マックス・チャンと高速バトルを演じてみせ、アメコミ映画『シャン・チー/テン・リングスの伝説』(2021年)では主人公の師匠を好演、相変わらずの動けるところも見せてくれた。
シリアスなヒューマンドラマ、コメディ、アクション……全方位型の女優として磨かれていったが、その一方で主演作は無い状態が続いた。このまま良くも悪くも脇を固めてくれるベテラン俳優になっていくのか……と思われたが「そんなタマじゃねーよな」と流川が三井に向けるような信頼を姐さんに抱く2人がいた。
そろそろ60歳が見えてきた頃、2人組の若手映画監督ダニエルズが姐さんのもとへ1本の企画を持ち込んだ。そして脚本を読んだ姐さんは素直にこう思った。「初めて脚本を読んだときは、意味がさっぱりわかりませんでした」しかし、そのダニエルズの過去作『スイミー・アーミーマン』(2016年)を見てノリとセンスを掴むと、すぐさま出演を快諾する。その映画こそが『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』だ。
ここで姐さんはまたしても新境地に挑む。これまで何だかんだで強い女性を演じ続けてきた姐さんだが、同作の役どころは生活に疲れ切った中年女性だった。かつて「怯えるだけの私」に需要はないと言っていた姐さんだが、数々の修羅場を潜り抜けるうち、ついに「怯えるだけの私」ですら魅力的に見せられるようになったのである。
姐さんの哀しみを体現しつつ、徐々に力に目覚め、凛々しく変化していく演技は世界中で絶賛された。その結果は……すでに最初に書いた通りである。功夫映画と並行世界、次々と繰り出される下ネタと、アメリカで生きるアジア系の苦労、そして家族愛を歌い上げる同作は公開されるや前代未聞の映画だと絶賛され、姐さんは還暦にして名実ともにハリウッドの歴史に残る大スターとなったのである。
ミシェルの姐さんの全盛期はいつか? その問いには「今」としか答えようがない。21歳で映画の世界に入ってから、彼女は常にベストを更新し続けている。アクションスターという枠を超えて、姐さんはこれからもスターとしてさらなる活躍を続けていくだろう。それは10本近い撮影待機作があることからも明らかだ(『アバター3~5』にも出るそうだ)。自身の総決算的な映画に主演し、アカデミー賞を獲り、歴史に名を残した。もしも人生が映画ならば今こそ絶好の「劇終」タイミングだが、それでも姐さんの人生に「劇終」の文字が出る気配はない。姐さんの人生のクライマックスは、まだまだこれからなのである。それでは最後は、姐さんのアカデミー賞の挨拶で記事を終わろう。
「この授賞式を見ている、私のような見た目の少年少女たち。このオスカー像は希望の証。夢を大きく持てば、必ず叶うという証です。そして女性のみなさん、全盛期が過ぎたなんて誰にも言わせてはいけません。ネバー・ギブアップ!」
―― 2023年、アカデミー賞のスピーチにて
▽参考・引用元
「臨時増刊 キネマ旬報 亜細亜的電影世界」
1995年5月下旬号 1998年3月下旬号 1998年7月下旬号 2000年11月上旬特別号
2005年5月上旬号 2012年9月下旬号 2023年3月上旬号
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300年続く日本のエンターテインメント「忠臣蔵」のマニア。
昼は通勤、夜は自宅で映画に関してあれこれ書く兼業ライター。主な寄稿先はweb媒体ですと「リアルサウンド映画部」「シネマトゥデイ」、紙媒体は「映画秘宝」本誌と別冊(洋泉社)、「想像以上のマネーとパワーと愛と夢で幸福になる、拳突き上げて声高らかに叫べHiGH&LOWへの愛と情熱、そしてHIROさんの本気(マジ)を本気で考察する本」(サイゾー)など。ちなみに昼はゲームのシナリオを書くお仕事をしています。
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