誰だって歳をとる。もちろんハリウッドスターだって。
エンタメの最前線で、人はどう“老い”と向き合うのか?
スターの生き様を追って、そのヒントを見つけ出す。
「これを書いたのはオレです。演じるのはオレでなければならないのです」
――29歳頃、『ロッキー』の監督・主演を決める会議にて
『炎の男スタローン』(ジェフ・ロビン著、高沢 明良 文、講談社X文庫)より引用
ドン底と頂点を上がって下がって何十年、
70歳を超えた今なお戦い続ける男・スタローン!
挫折と苦闘と栄光にまみれた生き様を振り返る!
シルヴェスター・スタローン、御年73歳。
世界的に今なお高い知名度を持ち、直撃世代とは言えない10~20代でも、何らかの形でスタさん には触れてはいるはずだ(最近でもアニメ『ポプテピピック』が『ランボー』のパロディをしていた)。
スタさんは間違いなくハリウッドを代表するスターだが、そのキャリアは安定とは程遠い。何しろ70を超えた今でも、スタさんの将来像はまったく読めないのだから。
これまで紹介したトム・クルーズやウィル・スミスは、きちんと人生設計を考えている感じがあったが、スタさんにそんなものはない。今回はスタさんのワイルドなキャリアを振り返りながら、生きるとは何かを考えていきたい。
スタさんことシルヴェスター・ガーデンツィオ・スタローンは、1946年ニューヨークの通称“ヘルズ・キッチン(地獄の台所)”で生まれた。しかし、この世に生を受けるなり、スタさんを試練が襲う。出産時の医療ミスで、左顔面が思うように動かなくなる障がいを負ったのだ。幼い頃はイジメの標的になるが……黙ってやられるスタさんではない。
やがてスタさんはイジメっ子たちに鉄拳報復。寡黙でキレやすい性格のせいで、気がつけばスライ(Sly)=ずる賢いというアダ名で恐れられるバリバリの不良少年になってしまった(Slyは名前の略でもあり、現在でもスタさんの愛称だ)。
美容師の父はスタさんを美容学校へ進学させるが、半年でフェード・アウト。それでも占い師の母の尽力により、奨学金でスイスへ留学する。当初は遊び暮らしていたが、程なくしてスタさんは運命の出会いを果たす。演劇の授業で演技の楽しさを知ったのだ。
スタさんは俳優を目指すため、マイアミ大学の演劇学部で演技に打ち込む。しかし一向に芽が出ないまま中退。俳優への道は閉ざされたに見えたが、スタさんは決して諦めず、チャンスの街ニューヨークへ向かう。
大都会への旅立ちに際して、スタさんは母に将来を占ってもらったという。母は言った。「おまえは俳優として7年間は苦労する。はじめは失敗もするが、最後には脚本家として成功するはずだ」
成功を夢見て都会に出たスタさんだったが、仕事はサッパリなかった。オーディションには落ちまくり、速攻でホームレスになってしまう。やっと受かった仕事はポルノ映画の男優で、稼ぎもスズメの涙ほど。とうぜん食っていけず、様々なバイトを経験する。料理人、用心棒、ダフ屋、ライオンの飼育係……過酷な日々が続くが、それでもスタさんは夢を諦めなかった。
低予算映画『ブルックリンの青春』(1974年)で初めて大きな役をゲットすると、この小さな成功を胸に、スタさんは活動の拠点をハリウッドへ移す。相変わらず脇役の仕事が続いたが、それでもスタさんは働き続けた。そして1975年3月15日、スタさんの人生を、引いてはアメリカの映画史を変える事件が起きる。
その日、スタさんはとあるボクシングの試合を見に行った。伝説のボクサーであるモハメッド・アリとチャック・ウェプナーの試合だ。
チャンピオンに君臨するアリと、決して有名とはいえないウェプナー。アリの勝利は確実だった。ところがどっこい、ウェプナーはド根性で15Rを戦い抜き、なんとアリから1度ダウンを奪ったのだ。試合自体はTKOでアリの勝利となったが、観客はアリよりもウェプナーに喝さいを送った。他ならぬスタさんもその1人だった。
「おれたちは、精神力の勝利を目の当たりに見たんだ。それで、そいつに恋しちまったんだ(『炎の男スタローン』より、引用ママ)」
スタさんは仕合の興奮を1本の脚本にした。チンピラボクサーが、ひょんなことから世界チャンピオンへの挑戦権を手にして、全身全霊をかけてリングに上がる……それはスタさんが目撃したアリVSウェプナー戦をベースに、不器用な男女のラブストーリーをメインにした極上の人間ドラマであった。言わずと知れた『ロッキー』(1976年)である。
スタさんは初稿を3日半で書き上げると、知り合いのプロデューサーの意見を取り入れながらストーリーを調整していった。ここでスタさんは俳優ではなく、脚本家としての才能を発揮する。短時間で改稿を進め、第2稿、第3稿と完成度を上げていった。
脚本は業界で評判となり、遂に大手プロダクションから買い取りの話が舞い込んでくる。それは母の占い通り、脚本家として認められた瞬間だった。しかし……!
スタジオ側は脚本を評価したのであって、俳優としてのスタさんは認めていなかった。『ロッキー』もスタさん主演ではなく、有名スターを使って映画化する方向で動いていたのだ。そしてスタさんの夢は脚本家ではなく俳優としての成功であり、とりわけロッキー役への情熱は強かった。
悩み抜いた末に、スタさんは一世一代の賭けに出る。「主演はオレ」を絶対条件にしたのだ。プロダクション側はスタさんを説得しようとドンドン金を積んだ。
見たこともない大金を前に、さらにスタさんは悩みまくった。ここで首を縦に振るだけで、莫大な報酬が懐に転がり込む。ハリウッドには元俳優の監督や脚本家が大勢いるし、こういう話は決して珍しいことではない。この進路を選べば、少なくとも数年は安定した暮らしが待っているだろう。
しかしスタさんは、自分を貫くことを決めた。スタさんの頑固さに、プロダクション側はとうとう根負け。スタさん主演での制作を認めたのである。しかし……!
「無名俳優が主演ではヒットが見込めない」と予算は大幅に縮小された。現場は困窮し、トラブルも続出。それでもスタさんはスタッフたちと協力し、時に衝突しながらも、あの手この手で『ロッキー』を完成させた。
そして公開を迎えると……映画は評論家から大絶賛され、興行的にも世界中で大ヒット。アカデミー賞では作品賞・監督賞も獲得し、スタさんも主演男優賞/脚本賞にWノミネートされた。
ここ日本でも小説版に梶原一騎がコメントを寄せるなど、大フィーバーを巻き起こす。チンピラ同然の生活をしていた男が、1本の映画で業界の頂点に立ったのだ。まさにロッキーのように、スタさんはアメリカンドリームの体現者となったのである。
その後スタさんは『フィスト』(1978年)などの社会派映画に出る一方で、レスリングもの『パラダイス・アレイ』(1978年)、ペレも出ているサッカーもの『勝利への脱出』(1981年)、待望の続編『ロッキー2』(1979年)と、主にスポーツ映画で活躍していく。
やがてベトナム帰還兵 で流れ者のランボーが、地元警官の無礼な扱いに大激怒、遂には警察署ごとブッ潰すアクション映画の傑作『ランボー』(1982年)に主演。この作品の大ヒットによって、スタさんは「スポーツ」に限らず、もっと広い意味での体を張る人、つまりアクションスターとして地位を築くのだ。しかし……!
時を同じくして、1人の怪物が映画界へ進出する。世界一の肉体を持つ男、シュワちゃんことアーノルド・シュワルツェネッガーだ。ボディビルの大会で優勝しまくった世界No.1の筋肉の持ち主で、現在でもボディビル業界では伝説的な人物である。そんな筋肉の化身が映画業界にやってきたのだ。
俳優としては、なまりのある英語に、ぎこちない表情、端的にいうと演技が下手 という致命的な弱点を抱えていたが、『コナン・ザ・グレート』(1982年)や『ターミネーター』(1984年)など、ほとんど感情を表に出さないムッツリとした役を演じることで弱点も見事にカバー。
シュワちゃんの肉体美は問答無用で観客の度肝を抜き、瞬く間に全米No.1アクションスターの座に王手をかけたのだ。つまりスタさんが半生をかけてやっと手をかけた王座に、全然違うフィールドからシュワちゃんが大ジャンプしてきたのである。
このままでは目指していた頂上に、別の人物が君臨してしまう……そんな想いがあったのか、ここでスタさんは無茶苦茶な判断を下す。シュワちゃんに負けてたまるかと、三十路半ばにしてバキバキに体を鍛え始めたのだ。
シュワちゃんと筋肉で張り合うなんて無謀でしかない。何しろシュワちゃんは名実ともに世界一のアスリートであり、いち俳優のスタさんが筋肉で張り合える相手ではないのだ。これは同時期に活躍していた他のアクションスターにもいえる。
たとえばチャック・ノリスは空手の国際大会で優勝しまくっていた本物の格闘家で あり、香港でブレイクしていたジャッキー・チェンも地獄のシゴキを受けたプロだ。彼らは専門技術を習得した超人であり、アクションが本職なのである。
一方のスタさんは基本的に一般人だ。アクションスターに固執する必要もない。スタさんには全く異なる道、たとえば筋肉ではなく演技で勝負したり、アクション映画業界から撤退することもできた。しかし……!
スタさんは無謀な勝負に出た。一般人なのにアクション映画というリングに上がり、シュワちゃんを初めとする本職の人々とシノギを削り合ったのだ。どう考えても勝ち目のない戦いだが、スタさんはド根性で大奮闘。『ロッキー3』(1982年)や『ランボー/怒りの脱出』(1985年)で、明らかに前作より仕上がった筋肉で登場し、No.1アクションスターは自分であると強烈アピール。以後もバキバキに鍛えた筋肉でシュワちゃんと健全なライバル関係を築き、ハリウッド2大筋肉俳優としてアクション映画業界のトップを爆走する。
シュワちゃんとスタさんの2人は、80年代後半からアクション映画業界に筋肉バブルを巻き起こす。単なるボクシングの試合が、いつの間にかソ連とアメリカの代理戦争へと発展する『ロッキー4 炎の友情』(1986年)を発表。ロッキーの演説にゴルバチョフ書記長(のそっくりさん)が感動するクライマックスで世界の度肝を抜く。
さらに刑事アクション『コブラ』(1986年)や、腕相撲映画の名作として語り継がれる『オーバー・ザ・トップ』(1987年)、『ロッキー』に続けてvsソ連映画に舵を切った『ランボー3/怒りのアフガン』(1988年)、スーツ姿のインテリ刑事役で新境地を拓こうとしたら、日本版パンフレットで石原良純に「スタローンにアルマーニは似合わない」と言いがかりをつけられた『デッドフォール』(1989年)など、脂の乗り切った快作を立て続けにモノにする。
90年代に入ってもスタさんの勢いは止まらず、タンクトップで雪山を駆けまわる『クリフハンガー』(1993年)に、今日でも映画ファンの間では「貝」が話題になる『デモリションマン』(1993年)など、こうした映画で仕上がった肉体を見せつけ、筋肉俳優としてアクション映画業界をけん引していく。思えば、この頃 は年に1本はスタさん主演の大作が作られていた。
もちろん私生活でもトラブルがあったし、失敗作 が多かったの事実だ(特にコメディはキツかった)。アカデミー賞を席巻した『ロッキー』から一転、この頃には評判の悪い映画に与えられるゴールデンラズベリー賞の常連となっていた。現在も娘に「どうしてこんな映画に出たの?」と失敗作をイジられているそうだが。そういうときスタさんは娘たちに「どうやって学費を稼いだと思ってるんだ?」答えつつ、このように当時を振り返る。
「俳優としては何も考えていなかった。80年代は『空きを埋める』っていって、2年前から映画のスケジュールを入れていた」
時代の波に乗ったスタさんは、舞い込んでくる仕事に文字通り全身全霊で挑み続けた。しかし……!
大きな時代の変化が、筋肉バブルの崩壊が目前に迫っていた……。
『老後に効くハリウッドスターの名言(4)―シルヴェスター・スタローン(後編)』に続く。
300年続く日本のエンターテインメント「忠臣蔵」のマニア。
昼は通勤、夜は自宅で映画に関してあれこれ書く兼業ライター。主な寄稿先はweb媒体ですと「リアルサウンド映画部」「シネマトゥデイ」、紙媒体は「映画秘宝」本誌と別冊(洋泉社)、「想像以上のマネーとパワーと愛と夢で幸福になる、拳突き上げて声高らかに叫べHiGH&LOWへの愛と情熱、そしてHIROさんの本気(マジ)を本気で考察する本」(サイゾー)など。ちなみに昼はゲームのシナリオを書くお仕事をしています。
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