サイエンスの壁とマーケットの壁という2つの困難をつねに突きつけられながらも福祉工学の道を不屈の闘志で切り拓いてきた、北海道大学と東京大学の名誉教授の伊福部達先生。東京大学高齢社会総合研究機構(IOG)にある研究室を訪ね、先生のこれまでの歩みをたどっていくことにしよう。
「この絵を見てもらえますか?」と伊福部先生が出したのは下記の画像だ。
何やらアルファベットらしき文字が書かれているらしいが、ところどころ虫食いのような穴が空いていて、どんな語が書かれているのかは判然としない。
読者のみなさんも、下スクロールする手を止めて、どんな文字が書かれているのか、考えてみてほしい。
次に、伊福部先生が見せてくれたのが、下の絵である。
虫食い部分が文字とは別の色で埋めたものだが、不思議なことに、それだけのことで文字の意味が浮かび上がってくるではないか!
「実は同じことは、視覚だけでなく、聴覚でも起こります。ガヤガヤとうるさい居酒屋の中で店員に注文をするとき、途切れ途切れしか聞こえなくても不思議と言葉の意味が通じ合うことがありますよね。あれは、ガヤガヤとした雑音で聞き取れないところを補ったり意味を類推する機能が脳にあるからで、雑音の所を無音にして途切れ途切れの言葉にすると意味が通じにくくなります。雑音の存在があって、初めて脳はそこに意味を見いだすことができるわけです」と伊福部先生は説明する。
ただし、現象としてそうしたことが起こることはわかっても、脳の中でどのような情報処理がされてそうなるかという、くわしいメカニズムはわかっていないのだという。
話を、伊福部先生の研究に戻そう。
1980年の前半、伊福部先生は聴神経を電気刺激して音の感覚を取り戻す「人工内耳」の研究に取り組んでいた。
「空気の乾いた冬の日など、ドアノブに触れるとピリッとした静電気を感じることがありますね。実は古くから、聴覚を電気で刺激すると『音』のような感覚が生じるという報告があり、重度の難聴者でも電気刺激で再び音が聞こえるのではないかと考えられていました。ところが、聴覚生理や音声認識などの研究者仲間にそのことを話すと、『そんなこと、できるはずがない』という意見が大半でした」
それに加え、魂の宿る神聖な脳や、それにつながる神経を電気刺激することは神への冒涜になりかねないとされ、日本では人工内耳研究はタブー視されていた。
そんな矢先、伊福部先生はある国際学会に出席した際、人工内耳研究プロジェクトを推進している米国スタンフォード大学のホワイト教授と出会った。そして、その場で「私をプロジェクトに加えてください」と直談判し、留学することを承諾してもらったという。
「プロジェクトチームは、国際学会で出会ったホワイト教授をはじめ、総勢10数名。その中には、耳鼻科医のシモンズ博士もいました。シモンズ博士は、聴覚障害を持つ患者の内耳と脳をつなぐ神経に6個の電極を挿入して電気刺激を与え、患者がどのように感じたかを詳細に報告した人です。その中で日本人は私ひとりで、しかも英語もままならない状態でしたが、同僚から英語を教わりながら必死に研究をしました」
伊福部先生は、内耳の蝸牛管内での電流の広がりを計測することを提案し、自らその実験を担当。なんと、ヒトの死体から切り出した蝸牛管に電極を挿入し、電気刺激を与えるという、直接的でグロテスクな作業だったとか。
「実際の蝸牛管を見てみると、感覚受容器である約1万6000本の有毛細胞がびっしりと並んでいて、それにつながる聴神経をたかだか10数個の電極で刺激したところで音が聞こえるようになるのかという疑念も浮かびました」
こうした基礎研究を経て、自作の刺激装置ができあがったのは半年後のこと。これを聴覚障害者の生きている人体に埋め込んで、音が聞こえるかどうかを試す段階に入ったのだ。
「実験にボランティアで協力してくれたのは、60歳後半のエミーという聴覚障害者でした。日本では患者をモルモット扱いすることなど許されない環境にありましたが、アメリカでは患者との契約を守っている限りは人体で実験することが許されているのです」
エミーさんの耳に装置を埋め込む手術を行っての第1回目の実験は、プロジェクトチームのみんなが注目して、その結果を見守ったという。
「装置に電源を入れ、マイクを通じていろいろな音声を装置に送り、電気刺激でどのように感じたのかを聞きました。すると、エミーは『声には聞こえません。むかし聞いた金属製の雑音に過ぎません』と言うのでがっかりしました。そのときの私の表情があまりにも絶望的に見えたのでしょう。エミーは『この装置は今は役に立たないかもしれないけれど、私は21世紀の聾者のためと思って研究に協力しているのです』と励ましてくれました」
エミーさんはその後、自宅のあるサンフランシスコから片道1時間近くも自動車を運転して週に1回、研究室に通ってくれたというが、数週間後、「声のように聞こえる」と反応を示すようになった。
しかし、スタンフォード大学での留学期間は1年弱しかなかったので、そのタイムリミットが来て、伊福部先生は途中で泣く泣く研究から離れることになる。
「その1年後のことでした。残念ながらスタンフォードでの研究は終わっていましたが、同じく研究を続けていたオーストラリアのメルボルン大学のグループが人工内耳を開発。それが世界に先駆けて実用化され、一般に普及することになったのです」
人工内耳は現在、世界でもっとも普及している人工臓器で、補聴器での効果が不十分な聴覚障害者を救う唯一の方法として用いられている。日本でも1994年より保険の適用となり、1歳以上であれば小児も装用可能だという。
「私は途中で諦めざるを得ませんでしたが、この人工内耳の研究は私に多くの知見をもたらしてくれたと思っています。脳の機能が学習や訓練によって変わることを、脳の『可塑性』といいますが、そこに秘められた可能性を改めて認識できましたから」
冒頭で紹介した、虫食いの「IMAGE」の文字を思い出して欲しい。人間の脳のメカニズムはまだ明らかにされていないが、手探りで引き当てた「人工内耳」の成果は、福祉工学の立派な強味と言えるのではないだろうか。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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