定年退職して、行くところがない、やることがない、話す人がいない、そんな「ないないづくし」の高齢者が増えている。放置しておけば、日本社会はとんでもないことになるだろう。
そんな喫緊の課題を前に、医学のみならず、工学、経済学、心理学、社会学、法学などの研究者が分野横断的に連携しながら超高齢社会のあるべき形を探っていくのがジェロントロジー(老年学)である。
その最前線では、どんな研究が行われているのか?まずは東京大学高齢社会総合研究機構(IOG)の秋山弘子先生にジェロントロジーがこれまで取り組んできた歩み、今後の行方などについて語ってもらおう。
ジェロントロジーと聞いて、その言葉の浸透度から連想して、比較的最近にできた新しい学問だと思う人が多いかもしれない。だが、フランス・パスツール研究所の免疫学者メチニコフ博士が自らの長寿研究をそう名づけたのは1903年のこと。ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したのと同じ年である。
東京大学高齢社会総合研究機構(IOG)の特任研究員で同大学の名誉教授の秋山弘子先生にその成り立ちについて、聞いてみよう。
「ジェロントロジーは当初、『なぜ人は老化するのか?』とか、『どうすれば成人病を克服できるか?』とか、つまるところ『人間の寿命をどこまで延ばせるか』という課題を解決する方向に向かっていました。
そんなジェロントロジー研究が次のステージに進んだのは、先進国の国民の長寿化にある程度の成果を得た1980年代後半のこと。直接のきっかけとなったのは1987年、老年学者のジョン・ローと社会科学者のロバート・カーンが科学雑誌サイエンスに『サクセスフル・エイジング』」と題した短い論文を発表したことです」
大学院時代に渡米し、学位取得後も30年近く米国の大学に在籍した秋山先生は、この論文が当時のアメリカ社会に与えたインパクトを間近に見てきた人だ。
「サクセスフル・エイジングの理念は、『人は年をとっても、健康で自立し、社会に貢献できることが重要だ』と説いています。これが、仕事を辞めると、心身ともに能力が低下し、社会からも遠のいていくという、それまでの高齢者の通念をくつがえしたのです」
その結果、マッカーサー財団が10年間におよぶ莫大な研究費を投入し、全米の大学の医学、工学、経済学、心理学、社会学、法学などの研究者が分野横断的に連携しながら研究を開始した。
そして10年後の1998年、その成果を一般向けにわかりやすくまとめた書籍『サクセスフル・エイジング』がベストセラーとなり、サクセスフル・エイジングが多くのアメリカ人の共通理念になった。
サクセスフル・エイジングを考える際に重要なのは、これを実現できる条件が遺伝子によるものだけでなく、食べ物や運動といった生活習慣や社会参加などのライフスタイルにあること。秋山先生によると、「遺伝子によって決まる率が25%なら、生活習慣は75%くらい」だという。
持って生まれたものは変えようがないが、日々の生活や生き方を変えることで多くの人がサクセスフル・エイジングを手にすることが可能になるのだ。
サクセスフル・エイジングの理念は、「人の寿命を延ばす」というジェロントロジーの当初の成果が実は本当のゴールなのではなく、「社会の高齢化」という課題を解決するための新たなスタートに過ぎないことを示したと言えるだろう。
だが、そうした考えが米国内に浸透した1998年当時、日本人の中の高齢社会に対する意識は、まだ低かった。そんな日本の状況を秋山先生は、アメリカで歯がみする思いで見ていたのではないだろうか。
「日本の人口の高齢化は、欧米と比較して遅れて進行しました。第2次世界大戦が終わったころの日本の高齢化率(人口の中で65歳以上の占める割合)は5%で欧米の半分でしたが、20世紀後半に急速に高齢化して、2000年あたりで世界の最長寿国となりました。それが、日本のジェロントロジー研究が遅れた大きな原因の1つでしょう。また、アジア諸国には『高齢者は家族で面倒を見るもの』とする伝統があって、問題が顕在化しなかったことも考えられます」
もちろん、日本人がその問題をまったく無視してきたわけでもなく、1970年代に有吉佐和子が書いた小説『恍惚の人』がベストセラーになったり、80年代には定年退職して家庭内で邪魔者と化した人物を指す「ぬれ落葉」、「粗大ゴミ」が流行語になるなど、社会の高齢化という問題は徐々に国民に意識されるようになっていったのだが……。
手遅れになる前に、日本の高齢者の実情を科学的に調査し、実態に即した対応をしなけれぱならない。こうした問題意識から、秋山先生はミシガン大学で教職に就いていた1987年から、日本の高齢者に関するパネル調査を開始した。
全国の住民基本台帳から60歳以上の約6000人を抽出し、その人たちに1時間の面接を行い、心身の健康状態、家族や友人、隣人などの社会関係、資産や収入など経済状態までを細かくヒアリングしたのだ。
「以降30年間にわたり、3年ごとに同じ人を追跡していますが、実は1回目の調査は日本からの科研費がおりず、アメリカ政府の研究助成機関にかけあってようやく実施できたのです。さすがに2回目以降、日本から半分が出るようになりましたが、日本の高齢者施策のためにアメリカはとても大きな貢献をしてくれたと言っていいでしょう」
この大規模調査によって、日本の高齢者のどんな実態が明らかになったのか?図1-1と図1-2は、アメリカ老年学会の2008年年次大会で秋山先生が発表した、日本の高齢者の男女別の20年間の健康度の変化パターンである。
図1-1
図1-2
グラフの横軸は年齢で、縦軸0~3の数字は自立の程度を示している。日常生活動作をすべて人や道具の助けなしでできる人は「自立3」、買い物、洗濯、金銭管理、外出して乗り物に乗るなどの手段的日常生活動作に援助が必要な人は「自立2」、食事や排泄、入浴といった基本的日常生活動作に援助が必要な人は「自立1」、亡くなった人が「0」となる。
全体として、約8割の人たちが「後期高齢者」になる75歳前後から徐々に衰えがはじまり、何らかのサポートが必要になるということ。
自立度の推移では、男性では3つのパターン、女性では2つのパターンに分かれている。約2割(19.0%)の男性は、70歳になる前に健康を損ねて死亡するか、重度の介助が必要になってしまう(図1-1)。長寿時代の若死にのケースと言える。
その一方、大多数の7割(70.1%)が75歳ごろから自立度が落ちていくのに対して、約1割(10.9%)の男性は80~90歳まで元気なまま自立度を維持できている。
女性では、男性よりも少し早い、70歳前半から緩やかに自立度が低下している群が約9割(87.9%)をしめる。残りの約1割(12.1%)は70歳前半に自立度1まで急低下し、多くは死亡する。
「70歳になる前の若死には多くの場合、心臓病や脳卒中などの生活習慣病によるものです。男女合わせて8割に見られるのは骨や筋力の衰えによる運動機能の低下により70代半ばから自立度が落ちていく現象です。女性は膝や腰の関節の不具合など障害をもって長く生き続ける人が多いことをこのデータは示しています」と秋山先生は説明する。
高齢化した社会にはどんな施策が必要なのかを知るには、こうした実態調査が欠かせないのだ。
その後、秋山先生はアメリカを離れて帰国し、日本のジェロントロジー研究の旗振り役として活躍することになるのだが、後編では東京大学高齢社会総合研究機構(IOG)が取り組んできたことについて語ってもらおう。乞うご期待。
「ボブ内藤」名義でも活動。編集プロダクション方南ぐみを経て2009年にフリーに。1990年より25年間で1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。著書に『ニッポンを発信する外国人たち』『はじめての輪行』(ともに洋泉社)などがある。
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