今、認知症の人は600万人以上とされ、近い将来、高齢者の4人に1人が認知症になると予測されています。今後はいかに認知症の人が安心して暮らせる社会を形成していくかが大きな課題。
そんな中、2023年6月、「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が国会で可決されました。
法律で認知症に対する国や自治体の方針が定められたわけだけど、何をどうすればいいのか、いまひとつわからないのが正直なところ。自治体やNPO法人の取り組みを通して「認知症の人が安心して暮らせる社会」を考えてみます。
認知症の人が尊厳と希望を持って暮らしていける共生社会を目指し、今年6月に「共生社会の実現を推進するための認知症基本法(通称:認知症基本法)」が国会で成立。国が定めた方針のもと各自治体が施策を進めていくわけだけれど、当然、地域によって町の規模も違えば環境も違い、認知症に対する取り組み方も変わってくるはずだ。
たとえば東京のような大都市と地方の農村部では、そもそも地域の人のつながりが違う。地方では近所の人はみんな昔ながらの知り合いだったりするものだが、東京の場合、近所にどんな人が住んでいるかも知らないことが多い。挨拶することはあっても、プライバシーの問題もあって干渉しないのが礼儀だと考える人も少なくないだろう。
国立長寿医療研究センターの2017年のレポートでは、社会的なつながりが多い高齢者は、認知症の発症リスクが46%低下するといった研究結果がある。近所づきあいが盛んな地域では自然と高齢者の社会参加が促されそうなものだが、東京のような大都市になると、行政が積極的に働きかける必要がありそうだ。
そこで参考にしたいのが、2020年10月に東京都でいち早く「世田谷区認知症とともに生きる希望条例」を制定した世田谷区の取り組みである。世田谷区の高齢化率は20.4%(2023年7月現在)で日本全体の高齢化率28.9%をだいぶ下回っているが、大都市圏ならではの課題もある。東京都は65歳以上の一人暮らしの割合が約23%であり、全国で最も高いのだ。世田谷区ではこの問題をどう捉えているだろう?
世田谷区の介護予防・地域支援課長(以下、世田谷区担当)より話を聞いた。
世田谷区担当
―――マンション等の住宅環境の変化と核家族化のさらなる進行は、大都市圏共通の課題だと認識しています。大都市圏では犯罪の増加や若い世代の町会・自治会加入者の減少もあり、まち自体の構造と住人の意識が変化し、以前から近所づきあいの希薄化が問題視されていました。その上にコロナの流行により、高齢者の孤立化が問題となりました。こうした中で、区民のみなさんと暮らしやすい地域づくりを目指していくことが大切だと思っています。
個人差はありますが、年を取れば誰しも認知機能は低下します。たとえ認知症と診断されても、希望を持って暮らしていける地域づくりを進めることが必要です。そのため世田谷区では、高齢の方が集う場や社会とつながる場づくりへの支援を積極的に進めていきたいと考えています。
条例の名称に付けられた「希望」が、世田谷区の認知症条例のテーマになっているようだ。この言葉に込められた世田谷区の思いとは?
世田谷区担当
―――認知症と診断されると、何もできなくなったり、おかしな言動が増えて周囲に迷惑をかけたりするといったネガティブなイメージが先行しています。そのため認知症のご本人やご家族が地域で暮らすことに困難を感じたり、恥ずかしくて人に言えないといった状況に陥りがちです。しかし、たとえ認知症になって一人でできなくなることはあっても、周囲の配慮さえあればできることはありますし、認知症の方のさまざまな行動にも何かしらの理由があるものです。
本人なりの思いがあって行動しているにも関わらず、叱責や否定をされ続けると、自信や希望を失ってしまうものです。その結果、うつ状態になったり、混乱してさまざまな症状が現れたりして認知症の進行が早まってしまう場合もあります。逆に周囲の理解や支援がある環境では、認知症の進行は緩やかになるとされています。また、生きがいや希望を持って暮らすことが、認知機能の保持に非常に効果的であることも明らかになっています。そのため条例の名称には、『希望を持って暮らしてほしい』という願いを込めています
条例を制定するにあたって、世田谷区では認知症当事者の意見を取り入れることに力を入れたという。どんな声が聞かれただろうか?
世田谷区担当
―――これまでの認知症に対する差別や偏見を取り払ってほしいという声や、認知症になっても尊厳を持って地域で暮らしていけるようにしてほしいという声が聞かれました。この希望条例には、こうした思いが含まれています。
「世田谷区認知症とともに生きる希望条例」の理念は、大きく4つある。
1.今までの認知症の考え方を変える。
2.みんながこの先の「備え」をする。
3.一人ひとりが希望を大切にしあい、ともに暮らすパートナーとして支えあう。
4.認知症とともに今を生きる本人の希望と、あたりまえに暮らせること(権利・人権)を一番大切に。
中でも理念の4番目に「本人の希望」と「権利・人権」が謳われていることに注目したい。この理念を体現する施策が「私の希望ファイル」だろう。これは誰もが認知症になりうることを前提に、認知症になる前から「どんなふうに生活したいか」「大切にしたいこと」といった「本人の希望」を意思表明しておくという取り組みである。それが認知症になったときの「備え」にもなる。
世田谷区担当
―――認知症が進行すると、思いを上手く伝えられなくなったり、自分の考えを整理できなくなってしまうことがあります。一人ひとりが大切にしたいことやこれからの暮らしについて考え、あらかじめ周囲の方に伝えておくプロセスとして『私の希望ファイル』があります。事前にご本人の希望を伝えておくことで、それに沿ったケアや生活支援をしてもらえることは、ご本人にとって安心につながると思います。
『私の希望ファイル』はノートなどに記録してもいいですし、写真や動画など自分なりの伝え方でもかまいません。また、世田谷区で実施している『アクション講座』(世田谷版認知症サポーター養成講座)の受講者には、希望のリーフ(葉っぱの形の付箋)に自分の希望を書き留めていただいています。この希望のリーフは、区内の一部の地域包括支援センターで『希望の木』として掲示しています。
認知症について学ぶ講座では「認知症サポーター養成講座」が知られているが、世田谷区では認知症希望条例を踏まえた内容に刷新した独自の「アクション講座」を実施している。そこにはどういった意図があり、どんな違いがあるのだろう?
世田谷区担当
―――従来の認知症サポーター養成講座は、認知症を正しく理解し、関わり方を学ぶことで認知症の人を見守るサポーターの養成を目的としていました。これに対し『アクション講座』では、受講者をサポーターと位置付けるのではなく、認知症の方と一緒に活動する“パートナー”と位置づけて、講座の内容を刷新しています。
具体的な変更点としては、認知症を暮らしの障害ととらえ、医学的な説明を極力減らしています。また、認知症を自分事として考え、どんな暮らしをしたいかといった希望を語るワークを設けているといった違いがあります
理念にもあるように、世田谷区では支援する側と支援される側で分けるのではなく、受講者を認知症の人と共に支えあうパートナー(伴走者)と位置づけているのだ。そして受講者には、「アクションチーム」への参加を呼びかけている。どのような活動をしているのだろう?
世田谷区担当
―――28地区の各地域包括支援セン ター(世田谷区での愛称:あんしんすこやかセンター)を中心に活動しています。認知症のご本人も含め、立場や年代もさまざまなメンバーが集まり、それぞれが希望や思いを語り合い、仲間を作りながらアクションに取り組んでいます。新たにチームを作るだけでなく、既存の活動やもともとつながりのあったメンバーでチームを結成している場合もあります。
それぞれの地区によって社会資源やまちの様子も違いますので、地区ごとに活動も異なり、それぞれのチームが柔軟に工夫しながら取り組んでいます。認知症の人も一緒にこれからやってみたいことなど語りあう場を作り、落語を楽しむ会、絵画展、麻雀を楽しむ会などを一緒に企画したり、オレンジテニスの会やみんなで登山を楽しむなど、様々な活動が始まっています。
条例制定後、さまざまな取り組みを通して区民にはどんな変化が見られただろう?
世田谷区担当
―――アンケートでは『認知症になっても希望があると思えるようになった』、『認知症になったからといって何もできなくなるわけではないことがわかった』、『他人事ではなく自分事に変わった』、『認知症の方と一緒に地域で活動してみたい』など、講座を受けた多くの方
がポジティブなイメージに変化しています。こうした意識変化を受け、各地区においても認知症の方と一緒に活動するパートナーが少しずつ増えています。
みんなで登山やテニスを楽しんだり、麻雀の会を発足させたりといった認知症の方ご本人の希望を叶える活動が始まっています。
世田谷区では従来の認知症施策から一歩前進して、一緒に行動するパートナーを増やすことで認知症の人の社会参加を促しているようだ。たとえ認知症になっても、人とつながることで認知症の進行を緩やかにすることが期待できる。
最後に世田谷区が目指す「希望」ある地域の在り方を聞いた。
世田谷区担当
―――認知症に完全な予防策はなく、いつ誰が認知症になるかもわからないものです。認知症にならないための予防だけでなく、認知症になってもならなくても希望を持って暮らしていけると思えるまちづくりを進めていくことが大切だと考えています。そのためにも認知症のご本人の声に耳を傾け、交流の場や一緒に活動できる機会を作りながら、これまでの認知症観を転換してきたいと思っています。
世田谷区では認知症のご本人による情報発信や社会参加を促すことで、認知症の方が仲間と出会い、つながることを中心に据えています。認知症のご本人が自らの思いや希望を伝え、自分の可能性や個性を活かしていけるようなまちづくりを今後も目指していきたいと思います。そうした目指すまちの姿を認知症のご本人だけでなく、家族、医療福祉関係者、区民のみなさまと共有し、自分事として捉えて行動に移していくことが大切だと考えています。
あらためて、これまでの偏った認知症観は、絶望感や孤立感と結びついていたように思う。それがますます認知症を悪化させるという悪循環に陥っていた。世田谷区の取り組みは、そうした悪循環から「希望」へ転換することにあるだろう。私たちもいずれ認知症になるかもしれない。だからこそ、今のうちから認知症の誤解や偏見をなくしていくことが大切だ。
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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